エディ・アーバイン(本名:エドムンド・アーバイン)は、イギリスの元F1ドライバー、投資家である。
日本でのレース経験を経てF1にステップアップしたドライバーの一人である。1999年にはフェラーリでチャンピオンまであと一歩のところまで行くが届かなかった。
F1引退後はアメリカに移住し、不動産投資家となり、多額の資産を持っている。
1965年に北アイルランドに生まれる。フォーミュラ・フォード、イギリスF3で戦った後1989年に国際F3000にステップアップした。
翌年にはジャン・アレジをチャンピオンに導いたエディ・ジョーダン・レーシングに加入するも、十分な成績を上げられなかった。
1991年にセルモから全日本F3000に3年間参戦。同年の第4戦で初勝利、1993年には総得点でトップになるも、選手権は有効ポイント制だったために星野一義と同点、星野が2勝だったのに対してアーバインは1勝しか挙げられず、チャンピオンを逃してしまった。
F1昇格後にアーバインはインタビューで星野一義の速さ、強さがあったからこそ今の自分があると発言(同席していたハインツ・ハラルド・フレンツェンも同意)し、海外に「日本一速い男」 の存在を注目させることとなった。
1992年からはサード、トムスからル・マン24時間レース、全日本スポーツプロトタイプカー選手権(JSPC)に参戦。1994年にはF1で事故死したローランド・ラッツェンバーガーに代わって参戦、トラブルがあったものの総合2位を獲得した。
1993年終盤の日本GPより、ジョーダン・グランプリからデビューを飾った。前年マシンの改良程度で戦闘力の劣るジョーダン193だったが、「地の利」を生かして予選で8番グリッドを獲得、決勝でも6位入賞を果たした。
しかし、トップを走っていたアイルトン・セナを周回遅れでありながらもなかなか譲らず、ウィニングラン時にレースペースで追い抜いたことで挑発とみなされ、セナに殴り込まれる騒動を起こした。
1994年にはレギュラードライバーとしてエントリー。しかし開幕戦で多重クラッシュを引き起こしたとして3戦の出場停止を食らった。それでも復帰後のスペインGPで入賞、最終的に6ポイントを手にした。
1995年にはプジョーエンジンを搭載したマシンで、3位表彰台をカナダGPで手にした。
1996年にミハエル・シューマッハとともにフェラーリへ移籍。チャンピオンドライバーのシューマッハだったことで、アーバインはセカンドドライバーに徹することとなった。
1999年の開幕戦で初優勝を果たす。イギリスGPでシューマッハが足を骨折するクラッシュを演じたことで、代わってエースとして活躍するようになる。
その後3勝を挙げて最終戦の開始前まではトップになっていたものの、最終戦でミカ・ハッキネンに逆転され、チャンピオンを手にすることはできなかった。しかしチームに1983年以来のコンストラクターズチャンピオンをもたらした。
2000年には、スチュワート・グランプリを買収したフォードによる「ジャガーF1」に移籍。ジョニー・ハーバート、ペドロ・デ・ラ・ロサとともに参戦した。
しかしチームは船頭多くして船山に上るということわざが合うほどトップ陣営でのごたごたが続き、監督やテクニカルディレクターが次々と交代、まともなチーム運営ができなかった。
何とか2001年と2002年に3位表彰台に上がったものの、結局アーバインは2002年で引退した。ジョーダンへの移籍話もあったが、破談になった。
長らく日本での活動が多かったことで、鈴鹿サーキットでの日本GPでは強く、2位1回、3位2回、その他入賞3回と、10回のレースで高い入賞率を誇った。
アメリカフロリダ州マイアミに移住し、現役時代から行っていた不動産投資に力を注ぐようになった。
2012年時点で、1億2900万ドルの資産を持っているといわれている。リーマンショックで同額に近い損失を被っているものの、現役ドライバーのフェルナンド・アロンソやキミ・ライコネン並みの資産となっている。
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最終更新:2024/11/22(金) 00:00
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