<千代田形>(ちよだがた)は、幕府海軍の軍艦。<千代田形丸>とも呼ばれる。
同時に「千代田形」と呼ばれる艦級の一番艦でもあり、同型艦多数の量産が計画されていたものの、幕末の時勢の急迫のために計画のみに終わった。
※この時期の軍艦は「丸」(のち「艦」)が接尾辞として付けられていたが、資料によってつく場合、つかない場合があり、実際に接尾辞が変更・除去された時機も不明瞭である。この記事では「千代田形」を記事名として採用したことから、「丸」を付けない資料が見当たらない数隻(咸臨丸など)を除き、すべて「丸」「艦」無しで記述している。
文久二年(1862年)5月7日、石川島造船所において建造が開始された、日本最初の国産蒸気軍艦。
この石川島造船所こそ何を隠そう、日本最初の近代造船所として明治以来数々の海軍小型艦艇や商船を建造した石川島重工業の前身であり、戦後は原子力船<むつ>やイージス艦<ちょうかい>を世に送り出し、惜しまれながらも2002年に閉鎖された石川島播磨重工業東京第一造船所の母体である。
設計は和洋の算学に通じた幕臣で、<咸臨丸>航海長として渡米した経験も持つ軍艦頭取、小野友五郎広胖。かつて同じ石川島造船所で日本初の洋式帆走軍艦<鳳凰丸>の建造に携わった春山弁蔵らがこれを補佐した。他にも機関製作に長崎造船所、ボイラーに佐賀藩、砲に関口製造所(後の陸軍東京工廠)と、そうそうたる顔ぶれが参加している。
<千代田形>は国産洋式帆船君沢形の流れを汲んで全長31.3m、幅4.8m、排水量約140トンの蒸気砲艦として設計され、60馬力の機関によって5ノットの速度を出すことが出来た。その装備は150mm砲一門及び他に二門と少なかったが、100トンほど大きい長州藩の海外発注蒸気軍艦である<第一丁卯>、<第二丁卯>でも同等の砲を二門持つ程度だったことを考えれば、200トンにも満たない<千代田形>の兵装としては充分だったろう。
また、<千代田形>は外洋航海よりも江戸湾や大阪湾の防備を目的として量産予定だった艦であり、当時急速に整備を進めていた海岸砲台の援護を得られるため、大型重武装である必要が低かったともいえる。
なにぶん最初の国産汽船ということで建造に時間がかかり、就役は慶応二年(1866年)5月となった。
就役後は江戸湾防備についていたが、翌慶応三年(1867年)の大政奉還を経た慶応四年(1868年)、戊辰戦争の敗北によって江戸城の無血開城が決まると転機が訪れる。対新政府徹底抗戦を唱える海軍副総裁、榎本武揚が新政府に対する軍艦引き渡しを拒否し、<千代田形>を含む主力艦七隻を率いて安房館山沖に退避したのである。
榎本と<千代田形>ほかの艦隊は新政府に与した館山藩を追討。さらには徳川宗家が駿府70万石に減封されたのを受け、旧幕臣を駿府や奥州に送り届ける任務に従事した。
8月19日、再度艦艇引き渡しを命じられた榎本はこれに反して旗艦<開陽>以下8隻をもって江戸を出奔、奥羽越列藩同盟を支援すべく奥州を目指し、<千代田形>もこれに帯同した。
しかし、奥羽越列藩同盟はすでに新政府軍の猛攻を受けており、庄内藩の援護に向かった<千代田形>も支援を断念。10月12日には艦隊とともに箱館に向けて仙台を出港した。同年12月の箱館政権(いわゆる「蝦夷共和国」)の樹立によってそれに加わり、箱館戦争に参戦することになる。
明治2年(1869年)4月、新政府軍がついに蝦夷地への上陸を開始。同時に当時日本唯一の鋼製軍艦<甲鉄>を旗艦とする新政府艦隊6隻が援護のため箱館湾に現れると、<回天>、<蟠龍>、そして<千代田形>からなる箱館側艦隊が迎撃、箱館湾海戦が勃発した。
当時箱館政権は旗艦で当時日本最大最強だった<開陽>を座礁で失い、極めて劣勢にあった。
4月29日夜、<千代田形>は弁天台場沖の暗礁に乗り上げ座礁。艦長は破壊工作の上で艦の放棄を決断したが、脱出後に満潮によって無人の<千代田形>は暗礁を離れてしまう。そして翌日、新政府軍の軍艦<朝陽丸>がこれを発見、拿捕した。これを知った箱館政権により、当時の艦長は降格の上、禁錮刑を受けている。
箱館湾海戦はその後も続き、5月11日には<蟠龍>が<朝陽>を轟沈させるなど奮戦したが性能でも数でも勝る新政府軍に抗しえず、4月30日<回天>自力座礁・砲台化ののち放棄、5月11日<蟠龍>後退座礁、放棄(放棄時の破壊工作によりのち転覆)と艦を失い、箱館側の敗北で終結。箱館戦争自体も5月18日の五稜郭開城によって幕を閉じた。
拿捕された<千代田形>は5月4日に新政府軍に編入され、この時正式に「千代田形艦」と呼ばれるようになる。
海軍艦船としては<甲鉄>などとともに艦隊を組んで警備任務などに従事。以後急速に発展する日本海軍の中で、主に練習艦などとして運用されたのち、1888年除籍。木製砲艦から20年余りにおける海軍人生を閉じた。
その後は千葉県経由で日本水産会社(現日本水産に非ず)が貸与を受け「千代田丸」として運用したという。
千代田形は本来海防用の砲艦として量産される予定であり、先に建造されていた帆走船である君沢形10隻やその小型版である韮山形6隻とともに江戸湾や大阪湾で運用されるはずだった。
君沢形は君沢郡戸田村で、韮山形は伊豆の韮山代官所で一番艦が建造されたためにその名があることから、江戸石川島で建造されたこの千代田形も江戸城の美称である「千代田城」の名を取って命名されたと考えられる。
<千代田形>の命名も、君沢形が<君沢形一番>、<君沢形二番>……という形で命名されていたことに基づいて考えれば、二番艦以降が就役した暁には<千代田形一番>、<千代田形二番>……というように命名されていったはずだが、結局一番艦のみしか建造されなかったため、番号なしでそのまま<千代田形>と呼称されるようになった。
このため、君沢形の一番を<君沢>と呼ばないように、この艦を<千代田>と呼ぶのは不適切かと思われる。
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最終更新:2024/04/18(木) 20:00
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