囚われの聴衆 単語

トラワレノチョウシュウ

5.6千文字の記事

囚われの聴衆とは、

  1. 何かを聴かざるを得ない(あるいは、観ざるを得ない)状況におかれる人々をす言葉。英語の「captive audience」の和訳。特に法律論で用いられる。
  2. トレーディングカードゲームマジック:ザ・ギャザリング』(Magic: The Gathering)のカード英語での名称は『Captive Audience』。上記1.が元ネタかと思われる。

この記事では上記の1.について記載する。

概要

人間しも、「聴きたくないことを聴かない」「観たくないものを観ない」自由を持っている。だが、この自由が制限されて「聴きたくないことを聴かせられてしまう」「観たくないものを観せられてしまう」状況におかれてしまうことがある。この状態におかれた人を「囚われの聴衆」と呼ぶのである。要するに「嫌なら見るな」が通用しない状況、と言える。

有名な漫画/アニメドラえもん』を読んだり観たりしたことがある人は、ガキ大将の「ジャイアン」が自分の下手な歌を強制的に他人に聞かせる独唱会、通称「ジャイアンリサイタル」を知っているのではないだろうか。あのリサタル理矢理参加させられてジャイアンの歌を聴かせられる子供たちは「囚われの聴衆」と呼ぶこともできる。

ジャイアンリサイタル」の場合は腕っぷしの強いガキ大将であるジャイアン暴力の脅しに基づいて聴衆をそこに集めて留め置くわけであるが、一方「何かを聴かざるを、あるいは観ざるを得ない状況」というのはそういった「脅しによる」状態のみをすわけではない。例えば「学校の児童・生徒」「公共交通機関の利用者」なども「囚われの聴衆」になりうる。義務教育ならば児童・生徒学校に通わざるを得ないし、それを避けることは大きな不利益を被る。また公共交通機関を利用しないことは、代替となる別の交通機関を利用せねばならずこれもまた大きな不利益を被る。つまり「そこにいる/そこを通ることを避けることは不可能ではないが、そうした場合に起きるデメリットが大きい」場合でも「囚われた」と解釈できる。

そして、この記事を読んでいるほとんどの人は学校に通ったことがあり、公共交通機関を利用したこともあるだろう。すなわち、この記事を読んでいるあなた、そうあなたにも、「囚われの聴衆」になっていた経験がある可性は高い。「この授業つまんねーな……でも授業中に勝手に教室から出るわけにもいかねーし……」とか「なんなのよ今流れた広告は……降りるわけにもいかない公共交通機関の中であんな広告聴かせるんじゃないわよ……」など一瞬でも思ったことがあるなら、その時あなたも「囚われの聴衆」だったのだ。

ところで、世の中には「聴きたくないことを聴かせられてしまう」「観たくないものを観せられてしまう」状況は実は数にある。このことが法的に争われることがあり、この時に「囚われの聴衆」などの表現でこの問題が扱われるのである。

判例

この概念が関わる訴訟として有名な日本のものは以下の2件。とはいえ特に前者が知られており、後者はその類似のものとして言及されることもある、という程度のようだ。

めちゃくちゃ簡単に言えば、双方とも「程度の問題やけどな。あんまりひどいもんやったらそら強制的に聞かせられるのはあかんかもしれんわ。でもこのくらいなら違法とは言えへんわ」という理屈で却下されている。

なお、あくまで「有名なもの」であってこの概念は「これらの裁判で初めて用いられたもの」ではない。そもそも外国語captive audience」の訳語であることからもわかるが、海外の判例などではかなり先んじて用いられている。

大阪市営地下鉄のやつ

裁判所公式サイトによると「事件名」は「商業宣伝放送差止等請事件」、事件番号は「昭和58(オ)1022」。最高裁判所における「裁判年日」は「昭和63年12月20日」。

大阪市営地下鉄の利用者が、電車内で流れていた宣伝放送に対して「利用せざるを得ない電車の中で聴きたくもない商業宣伝放送を聴かせられるのは人格権の侵でありまた旅客運送契約に基づく快適輸送義務にも背いており不当だ」として、大阪市に放送の差止めと損賠償を請した裁判。

わかりやすく「大阪市営地下鉄商業宣伝放送差止等請事件」とか、あるいは以下の判決文の一節から「とらわれの聞き手事件」などとも呼ばれる。

問題は、本件商業宣伝放送が公共の場所ではあるが、地下鉄内という乗客にとつて的地に到達するため利用せざるをえない交通機関のなかでの放送であり、これを聞くことを事実上強制されるという事実をどう考えるかという点である。これが「とらわれの聞き手」といわれる問題である。

人が公共交通機関を利用するときは、もとよりその意思に基づいて利用するのであり、また他の手段によって的地に到達することも不可能ではないから、選択の自由が全くないわけではない。しかし、人は通常その交通機関を利用せざるをえないのであり、その利用をしている間に利用をやめるときには的を達成することができない。喩的表現であるが、その者は「とらわれ」た状態におかれているといえよう。そこで車内放送が行われるときには、その音は必然的に乗客のに達するのであり、それがある乗客にとつて聞きたくない音量や内容のものであつてもこれから逃れることができず、せいぜいその者にとつてできるだけそれを聞かないよう努力することが残されているにすぎない。したがつて、実際上このような「とらわれの聞き手」にとつてその音を聞くことが強制されていると考えられよう。およそ表現の自由憲法上強い保障を受けるのは、受け手が多くの表現のうちから自由特定の表現を選んで受けとることができ、また受けとりたくない表現を自己の意思で受けとることを拒むことのできる場を前提としていると考えられる(「思想表現の自由市場」といわれるのがそれである。)。したがつて、特定の表現のみが受け手に強制的に伝達されるところでは表現の自由の保障は典的に機するものではなく、その制約をうける範囲が大きいとされざるをえない。

本件商業宣伝放送が憲法上の表現の自由の保障をうけるものであるかどうかには問題があるが、これを経済自由の行使とみるときはもとより、表現の自由の行使とみるとしても、右にみたように、一般の表現行為と異なる評価をうけると解される。もとより、このように解するからといつて、「とらわれの聞き手」への情報の伝達がプライバシーの利益に劣るものとして直ちに違法な侵行為と判断されるものではない。しかし、このような聞き手の状況はプライバシーの利益との調整を考える場合に考慮される一つの要素となるというべきであり、本件の放送が一般の公共の場所においてプライバシーの侵に当たらないとしても、それが本件のような「とらわれの聞き手」に対しては異なる評価をうけることもありうるのである。[1]

この最高裁の判断では原審と同じく訴えが棄却され、原告敗訴の判決が確定した。

ただしその判決文内では「違法と評価されるおそれがないとはいえない」とあり、広告の内容があまりに商業義優先であるものであるなら違法とみなされる可性を除外していない。その上で、

この程度の内容の商業宣伝放送であれば、上告人が右に述べた「とらわれの聞き手」であること、さらに、本件地下鉄地方公営企業であることを考慮にいれるとしても、なお上告人にとつて受の範囲をこえたプライバシーの侵であるということはできず、その論旨は採用することはできないというべきである。[2]

と述べられている。

つまり簡単に言えば「確かに聞くことが強制される状況だってことは考慮せなあかんわ」「でも、程度の問題や」「このくらいは慢せなあかんわ」といったものであった。

小田急電鉄のやつ

上記のものに先立つ類似の訴訟として、「内商業宣伝放送差止等請控訴事件」という小田急電鉄が訴えられた事件もあったらしい(東京高等裁判所昭和57年12月21日判決。「事件番号」は「昭和57(ネ)959」)。

小田急電鉄電車内で、小田急電鉄グループ運営する遊園地などの宣伝放送が流されていたことについて、電車の利用者が「運送契約上の快適輸送義務及び安全輸送義務に違反している」「聴きたくないものを一方的、強制的に聴かされない自由という意味で人格権を違法に侵している」として訴えたものである。

こちらの判決文でも、個人は「聴きたくないものを聴かない自由あるいは聴きたくないものを一方的強制的に聴かされない自由」を一種の人格権として有しているとしつつも、

その公共的な性格,法令又は公序良俗に違反しない限り,営業の自由に基づく活動も容認されるべきものであって,その活動が個人の人格権を侵する結果を生ずる場合においても,その活動の時、場所,態様,侵の程度等に照らし,個人が社会生活上これを受するのが相当と認められる範囲にとどまる限り,その侵について違法の問題は生じないものというべきである。[3]

と述べられているとのことで、やはり「程度の問題」論とされつつ、「このくらいは許容範囲やろ」と判断されて退けられている。

カッコよさ

法律関連の用語の中でも特に中二病心をくすぐる「なんやカッコイイ言葉」の一つ。カードゲームカードタイトルに使われるくらいだから、おそらく英語話者的にも「captive audience」という言葉はなんやカッコイイのだろう。

もし

「どうしてもに入ってしまうような公共の場において、個人の内心の静穏を脅かす可性がある何かを掲示する/放送することには問題があるのではないか」
「いやそれは表現の自由の範疇であろう」

という論争が行われているところにあなたが居合わせたなら

なるほど、いわゆる『囚われの聴衆』の議論ですね

とか言いながら眼鏡をクイッとかやると、とりあえず「わかってる」感が出てカッコつけることができるかもしれない。

ただし「『囚われの聴衆』って何?」と聞き返された時にちゃんと説明できるようになっておくこと。説明できずにしどろもどろだとカッコわるいぞ。

別表記/別翻訳について

「囚われの聴衆」が英語captive audience」(キャプティブ・オーディエンス)を和訳した言葉、ということは、別の表記や訳し方も当然ある。

captive」(キャプティブ)は「囚われた」「捕虜にされた」「捕獲された」「拘束された」などの意味があり、「audience」(オーディエンス)は「聴衆」「観衆」「視聴者ら」「読者ら」などの意味がある。

  • 「とらわれの聴衆」「捕らわれの聴衆」など、漢字表記を変更しただけのもの。
  • 「囚われの観衆」「とらわれの観衆」など、「audience」(オーディエンス)の訳を「聴衆」を「観衆」に変更したもの。「観る」ことを問題とした議論の場合にはこちらを用いた方が意味的には適切かもしれない。ちなみに「audience」は語をたどれば「聴く」ことに由来する言葉なのだが、「本の読者ら」をすこともあるようなので「聴く」ことに限定はされないらしい。
  • 理強いされる聴衆」「監禁された聴衆」など、「captive」(キャプティブ)の訳し方を変更したもの。でも「囚われの」という表現の方がカッコいいと思う。
  • 「とらわれの聞き手」など、「聴衆」を「聞き手」に変更したもの。上記、裁判所判決文ではこちらを使っている。でも「聴衆」とか「観衆」の方がカッコいいと思う。

表現の自由

いわゆる「表現の自由」を論じるときに勘案せねばならない概念としても言及されることがある。

かが不快に思う表現」を規制するべきか論じられる際に、「その表現を見て不快に思う人が、わざわざ探しに行かないと普通に入らない」ならば「囚われの聴衆」ではない。だが、「観ようと思っていなくても強制的にに入る」ならば、受け手は「囚われの聴衆」であることになる。

上記の判例やその判決文を素直に受け取るなら、「囚われの聴衆」状態、すなわち「聞いたり見たりすることが事実上強制されている」状態であるならば、その表現については法的に少し厳しく判断される可性もあるようだ。ただし同時にこれらの判例では、あくまで勘案すべき事情のひとつでしかないこと、つまり「囚われの聴衆の状態になってしまっているから、この表現は規制すべき」と直結するものではないことも示されている。囚われの聴衆状態であることを勘案してなお、その表現の程度が著しくないならば「受すべき範囲」とみなされ許容を促されることは、2つの判例の双方で原告が敗訴していることから明らかである。

関連商品

上記の「大阪市営地下鉄のやつ」つまり「とらわれの聞き手事件」が、「最高裁第三小法廷昭63.12.20判決」「地下鉄列車内における商業宣伝放送に違法性がないとされた事例」として掲載されている。

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *上記裁判所サイト開されている判決全文exitより引用。太字強調は引用
  2. *同上
  3. *兵庫県尼崎市弁護士事務所アーク法律事務所」のサイトexit内、「騒音の裁判例exit」のページから引用
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