尾崎行雄(野球) 単語


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尾崎行雄(1944年9月11日2013年6月13日)とは、東映フライヤーズに所属していた元プロ野球選手である。

弱冠17歳プロ入りしながら、その剛速球で年上の打者を次々にねじせたその姿は「怪童」と称され、実働期間こそ短かったものの、当時の人たちに強な印を残しており、現在でも一番速い球を投げた投手の一人として名が上がることが多い。

概要

1944年大阪府で生まれ、尾崎は「政の神様」といわれた政治家尾崎行雄あやかり、尾崎に同じ名前を付けた。
その後浪商高校入学した尾崎1年生のころからチームエースとして甲子園に出場。だが60年の、61年のはともに柴田勲を擁する法政第二高校に敗れる。
しかし61年のは準決勝で再び法政第二と戦い延長にまでもつれ込む戦の末ついに4-2で法政を破り、決勝でもスクイズで取った1点を尾崎が守り抜き1-0で勝利甲子園を制覇する。

高校2年生ながら150キロえる剛球を投げる選手をプロが放っておくはずもなく、まもなく尾崎の元には各球団からスカウトが訪れ、札束を用意する者、電化製品を贈るもの、3時間もって交渉する者など様々な方法で尾崎の気を引こうとする。

その中で尾崎が選んだのは当時水原茂監督を務めていた東映フライヤーズだった。
尾崎水原ファンだったことや、浪商の先輩にあたる山本八郎張本勲がいたことも要因だと言われている。

ともあれ62年、東映に入団した尾崎オープン戦から長嶋茂雄を3球三振で打ち取る等の活躍でいきなり3勝を挙げて一軍に入ると、開幕2戦の大毎戦の延長10回で初登板を果たし、当時「ミサイル打線」と恐れられていた大毎のクリーンアップ葛城隆雄榎本喜八山内一弘ストレートで抑え込み、その裏に山本八郎サヨナラヒットを放ったことで初勝利を手にする。
この年の4月尾崎は圧倒的なピッチングで4月末の時点で27.1回を投げ、5勝を挙げて防御率0.32、45奪三振と凄まじい成績を残しているが、4月末から尾崎の手にはマメができるようになり、徐々にこのような内容は減っていく。
それでも7月11日には南海戦において完封勝利で18勝を挙げ、オールスターでも17歳10かという史上最年少での選出及び登板記録を作っている。
ただ18勝を挙げた後はマメや結膜炎を発症したこともあって中々勝てなくなり、結局10月の2勝で計20勝で終わる。
しかこの17歳のとは思えぬ活躍ぶりで尾崎東映を見事初優勝に導き、日本シリーズでは1試合しか登板かったが阪神を下して日本一も達成。この年は207.2回を投げ20勝9敗、防御率2.42と「怪童」の名に恥じぬ活躍で新人王に選ばれた。

63年は不調で登板が減り、わずか7勝しか挙げられずにシーズンを終了、64年はルーキーイヤーとべ負け数も倍増するが、286回を投げ20勝18敗、防御率2.55の成績を残し197奪三振は当時は表こそなかったもののリーグ最多を記録

65年には年回試合数の約半分である61試合登板し、378回を投げて、27勝12敗、防御率1.88、259奪三振と自己最高の成績で最多勝最多奪三振記録するが、東映はこの年三冠王を獲得した野村克也擁する南海に最後まで追いつくことが出来ず2位に終わった。

66年も尾崎リーグ最多の65試合登板292.2回、24勝17敗の成績だったが南海西鉄優勝争いに食い込めず3位に終わる。

そしてこの数年間の過酷な登板尾崎の肩は限界え、さらに上述したようにマメにも苦しみ、67年にはわずか6勝しか挙げられず、さらに68年から71年までは勝利を挙げるどころかまともに投げることもできない日々が続く。
72年に3勝を挙げ、復活の兆しが見えたかと思いきや、73年はわずか3試合しか登板できず、往年のストレートを取り戻すことが出来なかった尾崎はこの年限りで引退することとなった。
 
引退後は少年野球導や、マスターリーグで活動していたが、2013年5月に体調を崩し、6月7日にはがんのため入院、12日には見舞いに来た息子マスクを外して応対するなど医師も驚く回復力を見せていたが未明になって容体が急変し、13日に68歳で帰らぬ人となった。

亡くなる8日前の6月5日にはインタビューを受けており、ベースボールマガジン2013年9月号に「遺言 尾崎行雄」という題名で掲載されている。

エピソード・プレースタイル

体を揺らしながら投げる独特のフォームから繰り出される投球のほとんどはストレートで、カーブも投げられたがほぼおまけ程度であり「120球で完投したら110球はストレート」というほどにストレートに自信を持っていた。
本人くそのストレートナチュラルに変化する「クセ球」だった。
また剛速球投手ノーコンというイメージがあるが尾崎コントロールも悪くなく、自己最高の成績を残した65年にはリーグ最多の5四球試合記録している。

ルーキーイヤーには延長戦や長引く試合登板することが多く、遅い時間になると敵チーム監督から「あれは未成年だろう?労働基準法違反じゃないか」とケチを付けられることもあった。

尾崎ストレートは今でも球界で一番と言われることもあり、現役時代にバッテリーを組んだ捕手種茂雅之は「速さだけなら後年受けた阪急山口高志も速いが、威力は明らか尾崎の方が上、尾崎は捕球した時ボールの勢いでミットが動いた。」と語っている。
また、とある番組で現役時代の尾崎が投球している映像を解析してスピードを計ったところ、約159キロ出ているという解析結果が出た。(論昔の映像なのでどこまで正確かはわからないが。)

本人もほぼストレートだけで勝負してきたことを誇りに思っているようで「今の投手のように変化球三振を取ることはほとんどなく、自分はいつもストレートだけで勝負してきた、そのストレートで勝負できなくなったから自分は引退した」とも言っている。

年度別成績

年度 球団 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率 WHIP
1962年 東映
日拓
49 9 4 20 9 -- -- .690 207.2 63 196 72 56 2.42 1.12
1963年 17 4 3 7 5 -- -- .583 93.0 29 60 34 30 2.90 1.20
1964年 55 11 4 20 18 -- -- .526 286.0 90 197 93 81 2.55 1.13
1965年 61 26 6 27 12 -- -- .692 378.0 63 259 91 79 1.88 0.86
1966年 65 15 2 24 17 -- -- .585 292.0 40 122 100 85 2.62 1.05
1967年 28 7 2 6 14 -- -- .300 126.2 25 67 58 43 3.05 1.24
1968年 14 0 0 0 0 -- -- ---- 19.0 5 4 15 13 6.16 1.68
1969年 7 1 0 0 2 -- -- .000 17.1 2 6 14 11 5.82 1.38
1970年 24 0 0 0 2 -- -- .000 43.0 11 41 30 28 5.86 1.56
1971年 24 0 0 0 3 -- -- .000 40.1 12 26 22 20 4.50 1.44
1972年 17 0 0 3 1 -- -- .750 39.2 7 39 12 10 2.25 0.86
1973年 3 0 0 0 0 -- -- ---- 6.0 2 3 9 9 13.50 2.33
NPB:12年 364 73 21 107 83 -- -- .563 1548.2 349 1010 550 465 2.70 1.09

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