沖縄戦跡国定公園は、沖縄県糸満市摩文仁を中心に八重瀬町及びこれらの地先海域を含めた国定公園である。
目的及び理念は、第二次世界大戦における日米両国の激戦地として知られている本島南部の戦跡を保護することにより、戦争の悲惨さ、平和の尊さを認識し、20万余りの戦没者の霊を慰めるとともに、延長11キロメートルにおよぶ雄大な海蝕崖景観の保護することである[1] 。
公園面積は、陸地面積3,127haと海域面積1,932haを合わせた5,059haである[2] 。
年月日 | 出来事 |
昭和40年 | 琉球政府により沖縄戦跡政府立公園に指定される |
昭和47年5月15日 | 沖縄の復帰に伴い国定公園とみなされる[3] |
平成4年8月3日 | 公園計画の再検討 |
糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、南東側に険しい海岸線を眺望できる台地にある。公園整備は米軍占領下の琉球政府時代に着手、日本国復帰後昭和47年から都市公園として本格的な整備を進めている[4] 。
昭和21年2月、平和創造の森公園に建立された。戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力に よって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀った[9] 。住民、軍人、米軍、韓国朝鮮人、沖縄戦で死んだ人々が 軍民、人種を問わず葬られた。[10] 。当時、糸満への出入りは米軍によって禁止されていたが、当時の真和志村村長が呼びかけて企画し、地区米軍政当局に収骨作業の許可を申請、1946年2月23日になって許可が下りた。そこで村民は遺骨収集班を作って遺骨収集を開始、5月までに3万5000人分を収集して合祀した、当時の沖縄最大の慰霊塔。納骨所を建てる資材も不足していたため、米軍に資材の提供を要請、入手したセメントと米軍の古い寝台を鉄筋代わりに使って納骨所を完成させたという。「服や飯盒に名前が書いてある遺体もあったけど、いちいち調べる余裕もないから、全部を一緒くたに大きな穴にボンボン投げ込んだもの」であった。
[11] 。
沖縄戦で、看護要員として沖縄陸軍病院に動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222名と引率教師18名、通称ひめゆり学徒隊の最後の地の一つである伊原第三外科壕の上に建てられた慰霊碑。同壕は沖縄陸軍病院第三外科勤務の職員やひめゆり学徒隊が南部撤退後に避難した壕で、1945年6月19日朝、米軍の攻撃により、多くの生徒や教師が亡くなった。
隣接地には、ひめゆり平和祈念資料館が1989年6月23日に開館されている。ひめゆり学徒の遺品、写真、生存者の証言映像、南風原の陸軍病院壕の一部や伊原第三外科壕内部を再現したジオラマなどを見ることができる[12] 。
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最終更新:2024/04/23(火) 22:00
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