荒川氏隆 / 荒河氏隆(?~?)とは、戦国時代の武将である。
足利一門ではあるものの、ごく一時期を除いて将軍直臣Aくらいの存在感でしかなかった荒川氏(荒河氏)。だが、荒川氏隆が内談衆に選ばれたことで、その地位をあげることとなった。なお、本来本願地が荒河なので、荒河氏と思われるのだが、この頃は荒川と書かれるため、それに従う。
足利義兼の孫・戸賀崎義宗の息子が、荒川氏の初代・荒川満氏である。足利氏御一家の中では末流も末流なのだが、それでも少なくとも室町期は御一家とはみなされていた存在である。なお、名字の由来は三河国荒河村で、足利氏が三河に広げた一門の一人だと思われる。
ただし、史料に初めて出てくるのは、『太平記』の倒幕以降である。少なくとも荒川詮頼という、荒川満氏の曾孫が丹後に勢力を広げていたのは『古文書録』からも分かり、建武4年(1337年)頃に、荒川詮頼は丹後国守護に一瞬任じられていた、というのは古くからわかっていることである。
ただし、このころまで荒川詮頼の父・荒川頼直も健在だったと思われ、「三宝院文書」では摂津国有馬郡野鞍庄を与えられている。
この荒川氏は、観応の擾乱では足利直義についた。おそらく、荒河村が吉良庄だったため、吉良氏に従ったものと思われる。この頃荒川頼直はすでに出家して三河三郎入道成円となっていたようだ。
ただし、観応の擾乱が既に終わった文和元年(1353年)11月25日に足利義詮が荒川詮頼を石見に派遣する旨を周布兼氏に伝えているため、乱後は元鞘に収まり、高師泰の死を受けて石見守護になった、と思われる。
しかし、荒川詮頼・荒川詮長父子は足利直冬上洛阻止に失敗し、あっけなく守護を交代された。その後は京都にいたようだが、荒川詮頼は細川頼之を頼って再度石見国守護に任じられたようである。なお、この頃荒川詮頼は、出家して入道道恵となっていた。ただし、康暦の政変でこの守護職は罷免され、以後荒川氏はよくわからなくなる。
荒川氏は以後荒川詮長―荒川詮宣と続いていくが、その事績はよくわからない。ただし、荒川詮宣の道号と思われる治部少輔善政の姉妹・御喜子は足利義満の女房となり、養父・揚梅親行から河内国茨田郡鞆呂岐庄を譲られている。荒川氏の役職はよくわからないが、この頃一門の娘を出仕させて、公卿と養子縁組をしていた、ということで在京していたのは確実とされる。
長禄元年(1457年)の『文清筆護摩居士像』の賛文からは、荒川詮氏という人物が40年ほど前に隠居し、その死後に息子の善済首座が屋敷を仏寺にしたことがわかる。この人物は荒川詮宣と生存時期赤佐なっていたので、荒川詮宣と荒川詮氏が兄弟であること、越中国に所領を持っていたことがわかる。
以後、荒川氏は奉公衆関連の史料から、諱が不明になりつつも存続していたことがわかる。ただし、惣領家の「太郎家」、荒川豊隆という名乗りから庶子家とわかる「治部少輔家」、なぜか越前国にいるため入名字の家系である可能性が指摘される「宮内少輔家」の3家に分かれているので、ますますよくわからなくなる。なお、この記事の人物は治部少輔家の人物である。
荒川氏は足利義政の申次を務めた宮内少輔家の荒川政宗など活躍する人物も見られたが、諱がわかる人物は稀である。この後、明応の政変に際して、治部少輔家が足利義澄系に、宮内少輔家が足利義稙系に仕えていった。
『東寺百合文書』には年次未詳6月12日付の荒川尹宗書状が載せられている。おそらく、この人物は荒川政宗の息子である。この文書から、明応の政変で足利義材に従った家臣名簿には荒川氏はいなかったものの、その後いろいろあって越前国から足利義尹に下向したこと、本家である太郎家の三河守を名乗っているためおそらく名跡を継がされたことがわかる。
さらに、『武家書状案』の荒川維国添状から、宮内少輔を名乗る荒川維国が足利義維に仕えていたっ事がわかる。ただし、諱から嫡子ではないとは思う。
一方、荒川治部少輔家は足利義澄―足利義晴に仕えた。なお、明応元年の荒川豊隆から40年は経ているため、荒川豊隆と荒川氏隆の間に一人いた可能性が想定される。
この荒川氏隆は、内談衆の一人である。内談衆とは、足利義晴側近の8人のメンバーであり、彼に関しては登用された経緯は全く不明だが、おそらく海老名高助、細川高久、本郷光泰と同様の、足利義澄以来の系譜だったのだろう。
天文2年(1533年)の『佐々木小弼御成申献立』や『御対面次第』に申次とあるため、申次衆も兼ねていたのであろう。
なお、天文9年(1540年)5月25日の内談衆の『手日記』に記された案件は、『大館常興日記』によると、太郎家はすでに逐電して行方不明で、民部少輔も敵に寝返っているため、越中国の所領と惣領を荒川氏隆に譲りたい、という旨だったらしい。この結果は通ったようで、荒川氏隆の後継者・荒川晴宣は将軍の偏諱設けている。
荒川氏隆は天文12年(1543年)頃に代替わりしたとされ、天文13年(1544年)以降は荒川又三郎が出てきている。これが、荒川晴宣だと思われる。
荒川晴宣は、天文22年(1553年)には先祖代々の治部少輔を名乗っている。そして、『永禄六年諸役人附』の前半部に従えば申次衆とあるように、実際足利義輝の申次衆となった。そして、永禄の変で討死した。
この後、両陣営に多く見積もると2人の荒川治部少輔が出てくる。『言継卿記』の永禄8年(1565年)1月15日条から荒川晴宣に息子がいたのは事実であり、この人物は『永禄六諸役人附』の後半にいる、荒川与三郎輝宗と、はるか後世の細川家の公式設定集『綿考輯録』から遡及されて言われるが、どちらも二次史料なので、正確かは不明。
なお、ここで足利義昭の政権に荒川輝宗がいたとすると、永禄11年(1568年)頃に足利義栄陣営として『晴右記』や『言継卿記』に登場する荒川治部少輔が問題となる。これを小林輝久彦が、荒川宮内少輔家の系統が、荒川晴宣の死をきっかけに官途を襲名したものと解釈し、それがおおむね踏襲されている。
この後、元亀3年(1572年)に武田信玄が駿河国に荒川治部少輔の知行を与えており、彼は永禄11年の今川氏真攻めで従ったとしている。これを、小林輝久彦は、足利義栄陣営にいた荒川治部少輔としている。
一方、天正元年(1573年)に織田信長から荒川治部少輔が所領を安堵されているため、足利義昭方の荒川治部少輔は、足利義昭の没落に従わず、織田信長に仕えたとする。これが、良質な資料に出てくる荒川氏の最後の姿であり、『綿考輯録』の荒川輝宗、すなわち菅野輝宗が史実かどうかはわからない。
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