金森栄治(かなもり えいじ、1957年1月24日-)とは、かつてプロ野球界で活躍していたリアクション芸人元プロ野球選手である。ポジションは外野手。一時期登録名を『金森永時』にしていた。
東北楽天ゴールデンイーグルス #81 一軍打撃コーチ | |
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金森栄治 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 石川県金沢市 |
生年月日 | 1957年1月24日 |
身長 体重 |
175cm 72kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 外野手、捕手 |
プロ入り | 1981年ドラフト2位 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
PL学園、早稲田大学、プリンスホテルを経てプロ野球人生はプリンスホテルから1981年のドラフト2位で西武ライオンズからスタート。
1983年(2年目)から主に外野のレギュラー候補として活躍していた。ちなみに、最初は捕手起用だった。
1985年には自身生涯最多の129試合に出場。規定打席にも届き、打率.312の成績を残した。ちなみに、1984年の12死球、1985年の15死球はリーグ最高の死球数。
1989年には規定打席に遠いものの、打率3割を残す活躍をしていたが、その後は成績が低迷し、1992年に自由契約。ヤクルトスワローズに移籍する。
ヤクルトでは『野村再生工場』の下で代打の切り札として活躍し、1995年には代打打率3割の好成績を残した。
2001年、西武1軍打撃コーチ補佐に就任し、翌2002年、1軍打撃コーチに就任し、ここ数年貧打に苦しんでいた打線を強力な打線を作り上げ、アレックス・カブレラ、和田一浩にも慕われリーグ優勝したが、日本シリーズ4連敗に終わり解任された。
2003年、ダイエーのスコアラーとして打撃指導も行い、強力打線を作り上げ、チームはリーグ優勝、日本一なった。
2004年、阪神の1軍打撃コーチになるも打撃不振で1年で解任。
2007年から2009年までは石川ミリオンスターズの監督を務めた。
2010年から千葉ロッテマリーンズの打撃コーチに就任。西岡剛、荻野貴司、岡田幸文、清田育宏らに独自の打撃理論を伝授して好成績を残させ、チームを日本一に導いたため「金森理論」は絶賛を集めた。が、翌年に統一球が導入されると打者が成績を残せなくなり、チームも低迷。2012年オフ、西村徳文監督、西本聖投手コーチ、高橋慶彦ヘッドコーチらと共に解任された。
2014年から2017年まで金沢学院東高校の野球部監督を務め、その後はノースアジア大学のコーチを務めた。解説者としてはCSの西武戦と夕刊フジでコラムを書いていた。
2018年はダイエー時代スコアラーと選手の関係だった井口資仁が監督を務めるロッテの一軍打撃コーチを務めた。
2019年からは東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍打撃チーフコーチを務める。2021年からはチーフが取れて一軍打撃コーチ。
1980年代を代表するデッドボールの避け方が非常に面白いプロ野球選手である。そのデッドボール芸は『西の達川、東の金森』と言われたほど、球史に残る芸であった。阪神時代、甲子園のレフトスタンドのラッキーゾーンに飛び込み、『金森も入った~!』という迷実況が誕生している。
通算:15年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1048 | 2528 | 2159 | 249 | 583 | 104 | 18 | 27 | 239 | 11 | 82 | 11 | 226 | 50 | 22 | 61 | .270 | .351 |
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最終更新:2025/01/18(土) 17:00
最終更新:2025/01/18(土) 16:00
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