零式水上観測機とは、帝國海軍が設計・開発した複葉機である。略称は零式水観、もしくは零観。米軍から付けられたコードネームは「ピート」。
大日本帝國海軍が量産した水上観測機。帝國海軍史上一番最後に登場した複葉機であり、その性能は従来機を遥かに凌駕。フォルムも洗練されており、性能・容姿ともに一つの極致とも言うべき傑作機である。観測機は、水上からでは難しい着弾地点を空中から観測し、味方に伝える事で砲撃の命中率を上げる事が役目である。このため長大な航続距離を要求されない分、敵機の妨害を排除できるだけの格闘性能を要求された。
零式水上観測機は水上機ながら格闘性能を大幅強化されており、九六式艦戦と互角に戦えるだけの性能を獲得。大東亜戦争では自身より遥かに大きい敵機と勇敢に戦い、少なくともカタリナ飛行艇、B-17、B-26を撃墜する大金星を挙げている。しかし、既に空母の時代に移行していたため水上戦闘は思いのほか発生せず、偵察、爆撃、迎撃といった用途外の運用がなされた。
1934年10月、帝國海軍は機種全般の近代化を行うため、十試水上観測機の試作を三菱、愛知、川西の三社に指示した。十試水上観測機には敵機の妨害を排しながら弾着観測が出来るよう、優れた上昇能力と空戦可能な運動性を要求されていた。
川西は機体の要求性能を満たせず失格。競合は三菱と愛知の一騎打ちとなった。三菱では海軍の要求する格闘性能を重視し複葉機として設計、武装は7.7mm固定機銃を機体上面に、後部座席には7.7mm旋回機銃を配置した。対する愛知も同様に複葉機として設計を進めていった。当初は空戦能力では三菱が上だったが、速度は愛知の物と比べて60キロも劣っていた。これではまずいと判断した三菱はエンジンを換装し、差は25キロにまで縮まった。競合は最後まで続き、試作機は1938年3月に横須賀海軍工廠へと空輸された。そこから飛行実験や大改修を何度も繰り返し、同年12月に試作第三、四号機が最終実用試験機として海軍に納入。1939年10月、最終的に三菱の物が採用され、零式水上観測機の名前が与えられて制式採用となった。海軍での戦闘テストでは当時最新鋭機だった九六式艦戦と互角に戦ったとされ、帝國海軍最後の複葉機として最も洗練された機体となった。
さっそく零観は水上機母艦などに配備されたが、椿事が発生。1941年10月25日、瑞穂に配備された零観が空中分解を起こした。原因究明の結果、上翼中央部にシワが寄っていた事が判明し、修理のため航空技術廠に空輸された。
そして1941年12月8日、大東亜戦争が始まる。しかしこの戦争は最早空母の時代であり、水上戦闘は思いのほか起こらなかった。このため弾着観測という本来の用途ではなく、偵察や対潜哨戒に活用されていった。開戦劈頭の南方作戦では瑞穂や千歳に搭載され、レガスビーやアンボンといった敵拠点に対地攻撃を敢行。空襲を仕掛けてきた爆撃機2機を撃墜し、また1942年1月にはオランダ軍のカタリナ飛行艇を撃墜するなど高い格闘性能を発揮。スラバヤ沖海戦で敗走する米駆逐艦ポープを爆撃し、至近弾を与えて重油を流出させる戦果を挙げている。ガダルカナル島争奪戦では空母艦載機の不足を補うため、最前線に投入。F4Fと互角の戦闘を繰り広げ、B-26を撃墜するなど善戦した。中でも一際目立つのが1942年10月4日の空戦である。泊地を爆撃しにきた米第17爆撃隊所属のB-17を、水上機母艦千歳所属の零観が迎撃。零観の主翼を使ってB-17の主翼を切断し、撃墜するという大戦果を挙げた。殊勲の搭乗員は後に千歳艦長から感状を賜っている。
零式観測機は1943年までに608機が生産された。1942年から44年にかけて機体補強や消炎排気管の追加などの改良が行われた。
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最終更新:2025/12/12(金) 23:00
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