青田昇 単語

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青田昇(あおた のぼる)とは、「じゃじゃ」の異名で知られる元プロ野球選手監督のことである。故人。

概要

1924年11月22日生まれ。兵庫県三木市出身。鍛冶屋を営む庭で7人兄弟の末っ子として育つ。幼少期から野球ではなく柔道中になっていたが、小学6年時に引っ越先の学校柔道部がなかったため野球部に入部。当初は肩の強さを活かし投手としてプレーしていた。

滝川中学に特待生として進学。2期上には別所毅彦がいた。青田別所以上に速い速球を投げられたが、あまりにコントロールが悪かったため外野手に転向した。選抜高等学校野球大会にも4番打者として出場し、チームベスト8に貢献した。その後、戦局が悪化したことから学校中退し、巨人軍に入団した。

初年度の1942年に規定打席未到達ながら合算で打率.355マーク[1]。翌年は本塁打0ながら42打点打点王く。

1944年、自ら志願し航空隊に入隊。「どうせ死ぬなら一番危険なところで死のう」と特攻隊に志願するも受け入れられず終戦を迎えた。

終戦後、一番をかけた阪急軍に入団。浜崎真二監督を生意気な態度で怒らせることも度々あり、この頃から「じゃじゃ」と呼ばれ始める。また、本塁打を量産する大下弘され、打撃フォームの改造に取り組む。

1948年巨人に復帰。この年、打率.306、25本塁打記録首位打者本塁打王タイトルを獲得。1954年には32本塁打105打点本塁打王打点王を獲得。

だが、1952年に不振に陥ると球団代表が勝手に広島へのトレードを画策。青田はこれを拒否し、結局1953年洋松ロビンスへ移籍。

初年度こそ今ひとつだったものの、1954年、31本塁打を放ち復活本塁打王を獲得。1956年1957年には2年連続で本塁打王を獲得した。

1959年、古巣の阪急に復帰。だが、前年に左手首を骨折したから本領を発揮できず、この年限りで現役を引退した。

現役引退後は阪神阪急コーチとして両チーム優勝に貢献。1972年には「優勝請負人」として大洋ヘッドコーチに就任、同年シーズン途中から監督となったが、2期で結果を残せず退団。

1979年オフには巨人ヘッドコーチに就任。だが、黒い霧事件の発端となった反社会勢力とのつながりを週刊誌などに報じられる。報道の大半が事実ではなかったものの、青田は騒ぎを起こした責任を取る形で辞任。結局導したのはキャンプのみであった。

その後は野球解説者として活動。厳しい切り口と巨人贔屓の解説視聴者からしまれた。

1997年がんのため死去。享年72歳。

2009年、競技者部門のエキスパートで選出され野球殿堂入り。

人物・エピソード

勝負強く、性の打撃センスで5度の本塁打王いた飛ばし屋。

強肩としても知られ、外野手シーズン391刺殺は歴代1位記録である。守備範囲も広かった。

野球だけでなく私生活や発言も奔放で快だったことから「じゃじゃ」の称でしまれた。

交友関係が広く、大下弘高校先輩でも合った別所毅彦、年上の同期である藤本英雄らとは特に仲が良かった。一部での仲とまで言われた川上哲治とは遊びに行くような深い付き合いがなかっただけでしかった。

通算成績

打撃成績

通算:16年試合打席打数得点安打本塁打打点盗塁犠打犠飛四球死球三振併殺打打率出塁率
NPB 1709 7060 6566 898 1827 265 1034 155 8 9 443 21 593 118 .278 .326

監督成績

通算:2年試合勝利敗戦引分勝率
NPB 147 61 78 8 .439

獲得タイトル・表彰

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関連項目

脚注

  1. *首位打者呉昌征打率が.286であった
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