黄権は、三国志に登場する人物。
字は公衡。益州巴西郡閬中(ロウチュウ)出身。正始元年(240年)没。
若年時に郡に官吏として出仕した後、益州を治める劉璋に召しだされ、主簿(帳簿担当官)となった。
211年:劉備の招聘に反対したが、劉璋はこれを退ける。左遷され、広漢県長となった。
212年:劉備が劉璋に反逆し、成都に軍を向ける。益州の諸県や部将が次々と降伏する中、広漢を堅守した。
214年:劉璋が降伏したのを聞き届けてから開城。劉備に降伏すると、偏将軍として迎えられた。
215年:曹操に降伏した豪族を征伐し、巴郡を制圧。
219年:劉備が漢中王となると、益州の治中従事(州長官補佐)に任ぜられた。
221年:夷陵の戦いには鎮北将軍として従軍。江北の蜀軍を統率し、魏軍に対する抑え役を担うことになった。
222年:本軍撤退により退路を絶たれたため、魏へ降伏。侍中(皇帝顧問官)・鎮南将軍・育陽侯として厚遇された。
後に益州刺史(益州知事)・車騎将軍・儀同三司(三公待遇)に進み、曹芳の代に没した。諡号は景候。
まず、劉備を呼び寄せようとする劉璋に対して、次のように諫言している。
「左将軍(劉備)は天下に勇名を馳せております。今、彼を招いて部将として扱えば不満を抱かせるでしょ う。かといって賓客として礼遇すれば、一国に二人の君主がいることになってしまいます。そこで劉備が勢力を盤石な物にしようすれば、我らは容易く滅ぼされてしまいます。今は国境を固め、時期を待つべきです」
劉備の野心をいち早く見抜いた上の意見であり、事実そのとおりになった。
と言い、逃れてきた張魯の保護と漢中併合を献策した。後に劉備は夏侯淵を討って漢中に拠ったが、これは黄権の進言にそった物だった。
劉璋には忠言を無碍にされたにも関わらず、主より先に降伏することなく任地を守り、君臣の礼に背くことはなかった。
「呉軍は勇敢です。さらに、水軍で流れに乗って進むのは容易いが、逆らって退くのは困難なものです。私が先鋒を務めますので、陛下は後方をお守りください」
と諌めたが受け容れられなかった。その結果、黄権は退路を絶たれ、「呉に降るくらいなら」と魏に降伏した。
この質問に対し、黄権は、
「私は蜀で身に余る待遇を受けておりました。しかし呉には降れず、蜀へ還る道もなかったので降伏いたしました。敗軍の将が死を免れようとしただけで、どうして古人を手本したなどと言えましょうか」
と答え、旧主を批難して自身を正当化するようなことはしなかった。
また、蜀の国法に照らせば、黄権の妻子は死罪になるところであった。しかし劉備は、
「私が黄権を裏切ったのであり、彼が私を裏切ったのではない」
と言い、彼の家族を罰することなく戦前と同様に遇した(この時救われた黄権の息子が、蜀王朝滅亡に殉じて戦死した黄崇である)。
黄権もこの信頼に応え、「蜀はあなたの家族を害した」という報せには耳を貸さず、劉備の訃報を祝う群臣に同調することもなかった。
この時代、敵国に降った武将は厚遇されるものの、何らかの理由を付けて処罰されることも多かった。そんな中、三君に仕えながらも天寿をまっとうできたのは、彼の優れた洞察力と高い節義の賜物であった。
蜀と魏の双方で信任された他、司馬懿からは「深器」「快士」と賞賛され、高い評価を受けている。
陳寿も「気高く大きな器量の持ち主で、見識に優れていた」という賛辞を送っている。
史実通り、劉備の入蜀に反対する人物として登場。劉璋の衣に齧り付いて懇願し、振り払われて歯を折るという悲劇に遭うも、主君へ忠義を尽くす。楊松を通じて張魯を説得し、馬超を葭萌関に導くなど活躍。
成都開城後も劉備の面会を拒むが、説得を受けて仕官。夷陵の戦いでの役柄はほぼ同じだが、諸葛瑾白帝城危機一髪の際にちょっと出番がある。
全体的に見て出番も多く、わりと優遇されている。
ほとんどの場合、益州に埋まっているか劉焉劉璋劉備に仕えている。能力値は武力以外がそれなりに高い他、益州人には珍しく水軍が扱える場合が多い。
野望と義理が双方高い作品もあったが、近作では安定して義理値が高い。そのため引きぬくのは難しいが、配下にすれば裏切る心配もなく仕事を任せられる。
黄権だまらっしゃい
劉備の益州制圧ころに登場し、劉璋を諫める場面で登場するのはおおむね演義のとおり。上記の台詞はその時に張松に言われたもの
三国志大戦ver3.59にてようやく登場。白銀馬超よろしくどこか鎧が聖闘士っぽい。
1.5コスト槍兵、5/7大軍とスペックはそれなりだが、蜀1.5コス槍はどいつもこいつも有力なのが苦しい。
計略の「長槍の練兵」は兵力と引き換えに高武力大長槍が可能になる計略。素で撃ってもそれなりにはなるが、最大兵力を増やしてから撃つと凄まじい。主に見た目が。
掲示板
35 ななしのよっしん
2021/07/10(土) 20:29:12 ID: gENPqqvqwI
本人も蜀に残された息子も進言を無視されて滅亡したり大敗する悲惨ポジ
36 ななしのよっしん
2021/09/07(火) 23:15:55 ID: JsQFdAw+AM
夷陵で一緒に出たばずなのに途中で魏の見張りやらされてるってことはうるせーからやっかい払いされたのかな
それでやむなく魏へ投降なら「私が黄権を裏切ったのだ」という言葉もわかる
37 ななしのよっしん
2024/05/19(日) 19:26:00 ID: DyCir+tecs
魏軍への対策は超重要な役割だから「うるさいから」という理由では流石に任せないだろう。「私が裏切った」という発言は黄権の進言を活かせずに敗北してしまった事によるだろう。
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最終更新:2024/06/06(木) 14:00
最終更新:2024/06/06(木) 14:00
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