U-459 単語

ユーヨンゴーキュウ

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U-459とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造したXIV潜水艦の1番艦である。1941年11月15日工。本艦は補給用潜水艦であり、僚艦への補給任務をとしているが、対射撃ウェリントン爆撃機ランカスター爆撃機を撃墜する戦果を挙げている。1943年7月24日スペインのコルナ北西で撃沈される。

概要

XIV潜水艦の活動期間を延ばすために設計された補給用潜水艦である。最も大量生産された力のVIICは航続距離恵まれず、この欠点を補うにはXIV支援が不可欠だった。外洋で活動する僚艦に燃料、魚雷、食糧などを補給するXIVミルヒクー(Milchküh、乳牛の意味)の愛称しまれた。Uボートが挙げた赫々たる戦果はXIVの献身的な支援しでは成しえなかっただろう。

航続距離に優れたIXDベースに外殻を拡大し、内部に大補給用タンクを設置した事で400トン以上の燃料を搭載可。1隻で4隻のVIICを燃料満タンに出来る。予備魚雷は4本まで搭載可。搭載力を優先したために魚雷発射管と甲は装備されず、武装は2cmC/30と3.7cmSK C/30連装対空砲のみという最低限の自衛装備しか持っていなかった。また体が巨体化したで鈍足かつ見つかりやすい弱点も露呈している。

大戦を通して10隻が建造されたが、全艦が最前線で撃沈された。

艦歴

海の狼を癒やす乳牛

1940年5月14日、ドイチヴェルケ社キール所に発注。同年11月12日にヤード番号290の仮称を与えられて起工し、1941年9月13日に進11月15日工を果たす。初代艦長にゲオルク・フォン・ウィラモウィッツ・モーレンドル少佐が着任する。彼は48歳という老齢の艦長であった。工日より訓練部隊の第4潜隊群に編入。

1941年11月18日に出渠したU-459はキール湾で試運転をしながらU-704に対する送訓練を実施。12月12日から15日までキール所にて入渠整備を行い、12月18日から27日までダンツィヒでカムシャフト修理を行う。12月28日からはヘラ半島戦闘訓練に従事する傍らU-408を相手に送訓練。

1942年1月9日から17日にかけてダンツィヒ試験に従事。1月19日にシュテッティンに回航されて機器の取り付け工事を行ってシュヴィーネミュンデに向かうが、流氷で出られなくなってしまったため、破氷が到着するまで待機。1月24日から3月12日までキールの造所に入渠して残工事一気に片付ける。

1942年

1942年3月21日正午キールを出港してカイザーヴィルヘルム運河を通過。同日20時ブルンスビュッテルに投錨して一晩を明かす。翌22日午前7時を離れて出発し、機雷原啓開や対護衛隊の警護を受けながら閘門通過する。流氷に行く手を阻まれながらも午後12時45分にヘルゴラントへ寄港。現地でU-702を相手に最後の給油訓練を行ったが、3月25日に右舷第4予備燃料タンクベントラインノズルからの漏が確認され、3月26日にモーレンドルフ艦長がキールでの修理を要請するも却下される。やむなくヘルゴラントで修理を実施した。3月27日から28日にかけて最終調整。

3月29日17時、U-702とともにヘルゴラントを出港。北大西洋に向かうべく北海を進む。4月1日、第10潜隊群へ転属。4月2日午前7時10分、北海北部でUボート天敵であるイギリス軍のショートサンダーランド飛行艇撃したため潜航退避。5月4日午前2時、シェトランド諸フェロー諸島の間を通過している時に敵の対潜トロールを発見。しかしイースター休暇中だったようで、明るいだったにも関わらずU-459は発見されなかった。トロールをやり過ごしたU-459は北大西洋へ到達。

4月18日午前8時U-108との合流地点に到着。未だU-108は姿を現さなかったため東西に往復しながら時間を潰す。15時15分にU-108が姿を現して補給作業を開始しようとするも荒波のため延期。翌19日午前8時15分に再度合流する。16時から燃料ホースと潤滑ホースを伸ばしてU-108を給油するが、U-108側のスリップフックが破損していて潤滑ホースが損壊してしまう。とりあえずU-108はフックを応急修理して燃料のみ供給。

大西西部まで長駆した後、カリブ諸方面で活動しているU-564ともう1隻のUボート(艦名不明)に補給を実施。帰り道にU-432に補給を施し、フランス方面に移動。5月15日ドイツ占領下のサンナゼール港へ到着した。

6月15日、サンナゼールを出港して大西洋を西進。U-522へ燃料補給を行い、7月19日にサンナゼール帰投。8月18日三度の航に出発。今度はポルトガル西方を南下し、喜望峰・ケープタウン方面まで足を伸ばしてU-506、U-333、U-706に燃料を補給。しかし遠出しすぎたため、サンナゼールへ戻るまでにU-459自身が燃料補給を受けなければならない事態に陥ったが、辛くも11月10日に帰港した。

12月20日、サンナゼールから南大西洋に向けて出発。セントヘレナ島で同盟イタリア潜水艦アミラリオ・カーニに補給。お礼に相手方の艦長からワインプレゼントされた。そのまま南下し、1943年1月にU-506へ補給。90トンの燃料と、修理用部品を提供した。2月11日カナリア北部でU-202と会同。25トンの燃料と食糧を補充した。2月13日に一度別れたが、翌14日にU-202から炎を患っていた乗組員を引き取った。2月28日、アゾレスで再びU-202と会同して燃料75トンを送3月7日ボルドーへ帰投した。

1943年

1943年4月20日中部大西洋に向けて出港。しかし通気口に一つの片が混入している事が判明し、引き返した。翌21日に再度出発し、ビスケイ湾に向かった。この航で24回の補給を行い、Uボート部隊の活動を支えた。任務を終え、帰路についていた5月30日正午ビスケイ湾で2機のランカスター爆撃機に襲撃される。計8発の爆弾が投下されたが、命中せず。U-459は20mm単装で反撃し、命中弾を与えてエンジントラブルを誘発。のちに墜落し、6名のパイロットスペインに漂着した。安心したのも束の間、撃墜から22分後にB-24が出現。10発の爆弾が投下されたが、傷で済んだ。U-459は補給艦ながら奮戦し、B-24に損傷を与えて逃亡に成功した。6月3日ボルドーへ到着。ドックで対兵装の強化を受けた。

喪失

7月22日午前9時30分、U-117やU-461とともにボルドーを出港。1隻の機雷啓開、2隻の駆逐艦、4隻の掃海艇に護衛されながら外洋に出た。翌23日深夜、護衛が離脱し、Uボートは潜航を始めた。しかしU-459はバルブを閉じる事が出来ないトラブルに見舞われる。懸命の修理により、どうにか潜航。南下して南大西洋に向かった。

7月24日17時15分、オルテガウェリントン爆撃機2機が出現。強化された対力を活かして反撃し、敵機を驚かせた。この隙に弾の補充を行い、更に撃ち掛けた。ウェリントン1機を撃墜したが、墜落してきたウェリントンが右舷に直撃し大破。乗組員19名が死亡した。深手を負ったU-459は港に向けて退却し始めた。生き残った乗組員が残骸の撤去を始めたが、その中に3発の不発弾が残されていた。に転がして捨てようとするも、1発が甲上で炸裂し(艦尾の下で爆発したとも)電動気室が炎上。モーレンドルフ艦長は護衛艦艇の急を要請し、艦の維持に務めた。

追い討ちの言わんばかりに17時30分、新手のウェリントンが出現。7回に渡って爆撃を仕掛けてきた。更に機掃射を受け、外殻がの巣にされる。モーレンドルフ艦長は艦の放棄を命じ、乗組員は脱出。5分後に爆発が発生し、煙を噴き出しながら艦尾より沈没していった。約8時間の漂流を経て、41名が救助されて捕虜になった。

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