U-181 単語


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ユーイチハチイチ

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U-181とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2Uボートの1隻である。1942年5月9日工。ドイツ後は日本海軍に接収されて伊501となる。1946年2月16日マラッカ峡で処分。

概要

IXD2とは、前級IXC以上に作戦範囲の拡大をした長距離航洋Uボートである。これまでのIXとは全く違う体と設計を持ち、排水量1600トン以上と、日本海軍に迫る巨を誇る。

まず最初にIXD1が建造されたが、搭載していたメルセデス魚雷艇エンジンの信頼性が低かったため、IXD2では、IXCと同一のMAN社製M9V40/46ターボチャージドエンジン2基に戻し、新たに低速巡航用のMWM社製RS34/5S巡航用ディーゼル2基を搭載。これによりフランスからインド洋やオーストラリアまで長駆出来る長大な航続距離を獲得した。またIXCより体を10m延伸して燃料搭載量を増大させている。補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で、水上速力19ノットを発揮。

航洋Uボート完成形とも呼べるIXD2は合計28隻生産された。

U-181は通商破壊で特に顕著な功績を残し、4回の出撃で連合船舶27隻(13万8779トン)を撃沈、全Uボート中19位の撃沈スコア叩き出した。初代艦長のヴォルフガング・リュート大尉は、ドイツ海軍では2人しか受勲していない葉・ダイヤモンド騎士十字章を授与され、U-181を題材にした短編ニュース映画「U-BOAT COMMANDER U-181 WOLFGANG LUTH BATTLE OF ATLANTIC」が製作、一般庭向けに販売されている。

ドイツ後は日本海軍が接収。伊501と改称するが戦闘任務を行う事なく終戦を迎えた。ちなみに伊501と伊502魚雷搭載本数は24本であり、潜特や巡潜の20本を上回る

諸元は排水量1616トン、全長87.58m、全高10.2m、喫5.35m、出力9000力、最大潜航深度100m、急速潜航時35、最大速力20.8ノット(水上)/6.9ノット(水中)、乗員55名または64名、燃料搭載量441トン。武装は53.3cm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、10.5cm単装1門、37mm単装機関1門、20mm連装機関1基、搭載魚雷本数24本。

戦歴

1940年8月15日AGヴェーザー社ブレーメン所へ建造を発注

1941年3月15日、ヤード番号1021の仮称で起工、12月30日し、1942年5月9日工を果たした。初代艦長にヴォルフガング・リュート大尉が着任。彼はU-13、U-9、U-138、U-43の艦長を務めてきたベテランである。工と同時に訓練部隊の第4潜隊群へ編入される。

5月9日から12日までブレーメンで試運転を行い、ブレーマーハーフェンとブルンスビュッテルを経由して、5月15日キールに回航、以降はバルト方面で、訓練支援イベリアの援護を受けながら各種試験と慣熟訓練に従事する。6月25日、26日、30日はダンツィヒで第25潜隊群と魚雷発射訓練を、7月1日より10日までゴーテンハーフェンで第27潜隊群と戦闘訓練を、7月11日からはダンツィヒ湾で撃訓練を実施する。8月29日シュテッティンでトリムの調整と推進剤の補充を行った。

慣熟訓練を終えたU-181は、ヘラ半島を経由して9月8日キールへ入港、残工事を片付けつつ出撃準備を整える。

1回目の戦闘航海

往路

1942年9月12日午前7時、U-610、U-620、U-212、U-253とともに曇天キールを出港。グレートベルト峡とスカゲラ峡を通過し、翌13日21時15分にノルウェー南部クリスチャンサンへ入港。ここで燃料補給を受ける。9月14日午前8時40分、対の護衛を伴って同地を出撃、ノルウェー西北上して、9月18日シェトランド諸西方を南西に向かって通過イギリス軍の厳重な警を掻い潜って北大西洋への進出を果たす。

9月28日19時33分、ビスケー湾西方の洋上にてU-116やU-569と合流、ハンモックに包まれた予備部品約60kgを受け取ろうとしたが暗闇と荒波に阻まれて移載作業を中断。敵に発見されるのを防ぐため3隻は一度解散した。翌日午前11時15分に再度2隻と合流して輸送を続行。荒波に揉まれながらも旧冷却ポンプを新に交換、14時までに予備部品の移載も了する。

10月1日ロリアンに拠点を置く第10潜隊群へ転属。

10月14日午前7時52分、突如艦内に小爆弾が炸裂したかのような音がく。調べてみると左舷の調整タンクと負圧タンクから液漏れが発生している事が判明。加えて負圧タンクのフラッドバルブが閉じなくなっていた。好天時ダイバーがフラッドバルブをシールで覆い、ほぼの負圧タンクの中に入ってバルブを修理して、何とかレギュレーターとして使用に耐える状態にする。

10月17日にU-181はアセンションセントヘレナ島の間を南下。U-181、U-177U-178U-179の4隻は、補給でダーバンまで足を伸ばせる広大な航続距離を活かし、狩り場を喜望峰より先のインド西部に設定、ドイツ海軍にとってインド洋への長駆は初の試みであり、連合軍にとってはアフリカ南部における最初の脅威となった。

モザンビーク海峡で暴れるU-181

11月3日午前4時頃、喜望峰南西約300里を航行中、U-181は自動車運送イーストインディアン(8159トン)を発見して潜航、午前5時48分に2本の魚雷を発射するが命中せず、9時間近い追跡の末、16時22分にジグザグ運動中のイーストインディアンを雷撃、魚雷2本が右舷側に命中して2分以内に沈没させる。積み荷のマンガン鉱石3500トン紅茶500トン、そして員58名がまれた。

生存者16名は4隻の救命いかだに分乗して脱出。浮上したU-181は1隻を捕まえて尋問を行い、それが終わると飲料を与えた上でケープタウンへの航路を教えて解放した。

11月8日20時25分、ポートエリザベスパナマプローディト(5060トン)の左舷機関室に魚雷1本を撃ち込んで大破させる。プローディトは爆発により図室、救命艇、線装置が破壊され、救難信号を打てなくなったが、言のまましぶとく浮き続けたため、22時15分から甲15発を撃ち込んで撃沈。員38名と武装警備員11名は救命艇やイカダに乗ってを放棄した。

11月9日23時45分に敵蒸気を発見して追跡開始。2回の雷撃が失敗し、一度は逃走を許してしまうが、執念で食らいつき続け、翌10日午前8時27分、ノルウェーK.G.メルダール(3799トン)を雷撃して9分以内に沈没させる。一般貨物、木に入った弾薬航空機は届けられる事の藻となった。その後は救命ボートに乗った生存者を尋問して解放

11月11日午前3時25分、連合軍が放った600メートル波長によるUボート警報U-177が受信、方角からしてU-181の攻撃に対して出された警報と推測された。

11月13日午前3時35分にエクセル(4969トン)を発見して水上追跡。午前7時より潜航して雷撃の機会をう。午前8時1分、ポート・セント・ジョン南方50里でエクセルロを雷撃して撃沈。救命ボートで波間を漂う生存者に尋問を行った。同日付でリュート艦長には葉章の受勲が決定。

11月15日フラワーコルベットジャスミンインコスタント、ナイジェラに包囲され、一斉に爆雷攻撃を受けたため、173mまで潜航退避する一か八かの賭けを行い、辛くも3隻の包囲網から逃げ延びられた。間もなくU-181はモザンビーク峡南端に進出。モザンビークは、北アフリカ戦線に展開する連合軍の重要な補給港であり、数えきれないほどの連合船舶がひっきりなしに往来する、Uボートにとって絶好の狩り場と言えた。

11月19日19時55分に敵を捕捉、20時55分より急速潜航を開始する。21時25分、モザンビークインハカ北東約20里にて、ノルウェーグンダ(2241トン)を雷撃し右舷前方に命中、3134トン石炭を抱えて僅か2分で沈没していった。グンダを仕留めた直後の23時30分に新たな獲物を発見。翌20日午前1時24分、インハカ灯台東方で、単独航行中のギリシャリンシアコス(3562トン)の右舷後部に魚雷1本を命中させて撃沈。レオニダス船長員10名が行方不明になった。

11月22日午前0時33分、満月が浮かぶ夜空の下、ロウレンソ・マルケ南方75里を航行していたアルコア・パスファインダー(6797トン)はU-181から雷撃を受け、左舷機関室に魚雷が命中、直後爆発が生じ、破片が60m近くまで吹き飛ばされた。アルコア・パスファインダーには20mm4門と30口径2門が搭載されていたが、U-181を発見出来なかったため1発も発出来ていない。大量に積まれた鉱石が重しとなって3分以内に尾から沈没

11月24日午前3時38分、ケープタウンからセント・ジョンに向かっているギリシャマウントヘルモス(6481トン)を発見、午前7時38分に魚雷2本を発射し、うち1本を命中させて航行不能に追いやる。魚雷節約の的でU-181は午前8時2分より水上撃を開始、78発中65発を命中させて40分後に撃沈させるも、撃中に37mm機関が破裂してしまい、以降の攻撃には使用できなくなる。

同日15時56分、ダーバン行きのリントンコート(5281トン)を発見し、19時52分潜航、20時34分にイハカ東南東で雷撃して、左舷尾と機関室・ボイラー間の体にそれぞれ魚雷を命中させる。当直員4名死亡、生じた破孔からが流入して機関室とボイラー室が浸み込んだの重さで甲がほぼ水浸しになるも、以降は沈下する様子はく浮き続けていた。ドリントンコートトドメを刺すべく、21時23分に浮上して10.5cm90発を発射、このうち60発を命中させて撃沈へと追いやる。

11月28日22時50分、インハウス北東70里にて、モザンビークで荷降ろしを終えた帰りのギリシャエヴァシア(3551トン)を雷撃、左舷中央部に魚雷が命中・炎上したエヴァシアからは員が脱出したが、沈む気配を見せなかったため、30分後に浮上、それから45分間にって水上撃を行い、107発中70発を叩き込んで撃沈する。

11月30日午前5時11分、イニャンバネ南南東約42里にてギリシャクリアンディス(4153トン)の右舷に10.5cmの連射を浴びせる。しい撃により、クリアンディスが一装備していた尾の対空砲が破壊され、船橋への命中弾で船長は戦死、時に線機も破壊されて遭難信号を送れなくなった。10.5cm弾を使い切ると今度は20mm機関で左舷側から撃して午前6時55分に撃沈。

12月2日17時40分、の中を進むギリシャアマリリス(4328トン)をロウレンソ・マルケ南南東140里で雷撃し、左舷中央部へ魚雷を命中させて体をっ二つにへし折って撃沈。船長員26名、手2名が戦死した。浮上後、U-181は生存者6名が乗った救命ボートに近づき、リュート艦長が直々に二等航士を尋問。アマリリスに乗っていたは非常食代わりに接収された。

一連の通商破壊で12隻(5万8381トン)もの敵船舶を撃沈。1回の航叩き出した戦果では、全Uボート中第9位となる。航洋Uボート戦略的価値を理解したリュート艦長はBdU(Uボート部)に対し、「少なくとも新造艦には、より大潜水艦が必要である」と報告している。

復路

12月12日午前4時BdUから「アフリカ西沿いを北進してケープタウンの敵船舶を攻撃せよ」と命じられ、モザンビーク峡より撤退、アセンション方面に向かう。荒に巻き込まれる等の原因で、航続距離の長いIXD2と言えど、フランスに帰投出来るかどうか怪しくなってきたため、リュート艦長はBdUに燃料補給をめたが、「補給は期待出来ない」という望まぬ返答のみが返って来た。やむなく燃料節約の的で全てのバラストタンクにする。

12月19日16時10月10日U-172の雷撃で撃沈された軍隊輸送オルカデスの、全装備の救命ボートが波に漂っているのを発見。12月24日アセンションセントヘレナ間の域を北上通過ドイツ放送サービスとの追加文書提案命に従い、U-181は後の庭向けに「南大西洋より、ご庭の皆さまメリークリスマス現在までに5万8000トンを撃沈しました。今は熱帯の暑さの中、深30mでアコーディオン手作りモミの木を使ってクリスマスパーティーを開催中」と電文を打った。このメッセージは受信確認されたものの、放送時には何故か読み上げられなかったとか。

1943年1月8日16時8分にU-381が西進する敵輸送団を発見したとの報が入る。敵航路の近くにいたU-181は攻撃に向かい、翌9日13時12分、U-181の視界内に3隻の汽が出現、直ちに発見報告を送った。団の左側にはVIICと思われる味方Uボートが追跡しているのが見える。14時14分より潜航開始。追跡を続けたが、遂に雷撃の機会は巡って来ず、21時30分、BdUはU-181に「雷撃を受けて落した敵船舶を捜索のち帰航せよ」と示を出す。

1月16日ビスケー湾に進入。敵国イギリスの眼前にある立地上、湾内では常に厳しい航空が行われており、潜航しながらの移動を強いられる。そして1月18日17時ボルドーに凱旋帰投を果たして129日間の戦闘を終えた。発射管には魚雷2本がまだ残っていたという。

1月26日付でリュート艦長はダイヤモンドUボート戦闘徽章を受章。

2回目の戦闘航海

往路

1943年3月23日ボルドーを出撃。ビスケー湾を南西方向に抜けて北大西洋に進出する。

3月27日ビスケー湾西方で味方偵察機SL-126団を発見、U-181はU-267、U-404、U-571、U-662とともにSL-126団の捜索を命じられるも、接触に成功したのはU-404とU-662のみだった。航行中の4月1日リュート艦長の少佐昇進の報が届く。

エンパイア・ホイムブレル(5983トン)は冷蔵及び缶詰め5339トンを積載してフリータウンに向かっていた。的地まで後少しのフリータウン南西420里の地点で、4月10日午前5時56分、回避運動むなしくU-181から放たれた魚雷2本が命中、30後にエンパイア・ホイムブレルは洋上停止した。員は救難信号を放つとともにを放棄して脱出。救命艇の1隻を捕まえて尋問した後、午前7時15分より水上撃を行い、28発中20発の命中弾を与えて15分後に撃沈。

しかし4ヶ以上使用していなかったせいか、37mm対の初弾を発射した際に暴発が起き、破片で料理人のヴィルヘルム・ヴィリガー少尉死亡、2名が負傷してしまった。ヴィリガー少尉遺体葬に付された。4月12日正午、帰投中のU-516と合流して負傷者を引き取ってもらう。

5月3日頃に喜望峰を通過してインド西部へ進出。狩り場のモザンビーク峡まで辿り着く。

モザンビーク海峡での通商破壊

5月11日午前2時8分、DN-37団から分散航行していたティハム(5232トン)をマプト北東沿で捕捉、2時間後に魚雷2本を発射し、被雷したティハムは10分以内に沈没フィリップヘンリーエイドン船長員24名、乗客50名が死亡、生き残った者に尋問を行ってU-181は域を去った。

5月26日18時33分、ポンタ・サヴォラ灯台東方5で、小麦粉6241袋とフルーツジュース327トンを積載した、スウェーデンチリ(1633トン)を発見。スウェーデン中立なので、翌7日午前6時11分、シチリアの右舷後方から前路に向けて弾10発を撃ち込んで威嚇射撃を実施、首と尾の至近距離にそれぞれ1発ずつ着弾し、恐怖を覚えた員たちは速やかに2隻の救命ボートに分乗して脱出する。

U-181は船長と一等航士を艦内に乗せ、尋問並びに書類審を行う。シチリアは自由航行中立リストに載ってはいなかったが、船長はブエノスアイレススウェーデン行きと説明、リュート艦長は彼の言葉を信じ、BdUに処遇をどうするか示を仰いだ。しかし、スウェーデン人2名が救命ボートへ戻ろうとした時、リュート艦長が書類の不備に気付き、航日誌を見せるよう要、二等航士が船橋より持ってきた日誌を見てみると、去年(1942年)シチリアが連合の南北アメリカと貿易を行っていた事が判明。

強い疑念を抱いたリュート艦長は30分以内に食糧と私物を回収するよう伝え、「積み荷も中立だ」と抗議するスウェーデン人に対し「大変申し訳ないのですが戦争戦争です。実際、この航イギリスの代理店が手配したもの。ロウレンソ・マルケスで荷揚げされた小麦粉の一部は南アフリカへ輸送されていました」とピシャリと告げた。午前8時29分シチリアの右舷中央部に弾を撃ち込んで撃沈。

救命ボートに乗った生存者にリュート艦長が「何か欲しいものはあるか?」と尋ねるも、生存者たちは拒否、むしろパンタバコを差し出してきたため、そのまま立ち去るしかなかった。

6月7日21時30分に小蒸気を発見して追跡。23時28分、ダーバン東方200里にて、南アフリカハリアー(193トン)に魚雷を発射、20尾へ1本を命中させる。すると積み荷のガソリン誘爆して大爆発が起こり、員16名全員死亡した。

シャルロッテ・シュリーマンからの補給

6月22日午前4時、U-181はダーバン南東に定められた合流地点に到着。そこには、IXD2によるインド通商破壊作戦を延長させる的で、ドイツ補給シャルロッテ・シュリーマン派遣・待機しており、既にU-178U-196が横付けして燃料補給を受けている。その近くにはU-197やU-198の姿も見える。

荒れたで複雑な作業工程をこなすには時間を要し、またシャルロッテが保有するモーターボートは気条件の問題で使用出来ず、各々が有するゴムボートを使って細々と食糧を運び込むしかなかった。それでも何とか60日分の食糧を補給する事には成功。しかし、野菜は傷みやすく燃料よりも尽きるという事で、シャルロッテ側が気を利かせてより多くの食糧を分けてくれたものの、それでもを満たす量にはならない。様々な問題を抱えつつも敵に見つかる事く一先ず補給は了した。補給している間、U-181の乗組員はシャルロッテでシャワーを浴びる極上の一時を味わった。

翌23日、最新の交通情報に基づいて、各艦は割り当てられた作戦域へ移動。マダガスカル・レユニオン間を北上しながら獲物を探す。

7月1日午前2時、U-181はモーリシャスのポートルイス港に停泊中の3隻に狙いを付け、出港するのを今か今かと待ち構えていた。そして翌、2番に出港した旅客ホイハウ(2798トン)を10時間に渡って追跡し続け、翌2日21時7分、モーリシャス西北西105里で2本の魚雷を発射、2本とも体に命中したホイハウは首から沈没していった。船長員90名、手7名、乗客47名が死亡

7月15日13時47分、ダーバン発アデン行きの蒸気商エンパイア・レイク(2852トン)を発見。攻撃のため17時15分に潜航した。18時1分、マダガスカル東方240里で魚雷2本を発射して撃沈、積み荷の石炭は全て失われた。生存者7名に対して尋問を行う。続いて翌16日15時58分、レユニオン南西で、モザンビークからダーバン1500トンを輸送中のフォート・フランクリン(7135トン)を狙って魚雷2本発射、17分以内に撃沈せしめた。

8月4日午前4時3分、アデン発アレクサンドリア行きの石炭6821トンを積載した蒸気ダルフラム(4558トン)は、マダガスカル東方でU-181から魚雷3本を扇状に放たれ、そのうち1本が命中して大破、それでもまだ浮き続けていたものの、午前4時53分にトドメの一撃を喰らって1分以内に撃沈された。8月7日午前9時16分DN-54団より分離したウンブー(4419トン)をポートルイス南西で雷撃して撃沈。一般貨物2000トン砂糖2000トン、軍需品800トン体ごと海底に沈んだ。

8月9日これまでの大戦果によってリュート艦長には葉・ダイヤモンド騎士十字章の受勲が決定。海軍では初めての授与となった。

DN-55団から分散した貨物船クランマッカーサー(1万528トン)を15時間にって追跡したのち、8月12日午前3時32分、ファラガンファン東方350里にて魚雷2本を命中させる。しかし巨体ゆえに簡単には沈まなかった。午前3時47分トドメの魚雷を発射、致命傷を負ったクランマッカーサーは8分後に首より沈没するが、水中しい爆発が起こり、U-181が軽微の損傷を負った他、救命ボート数隻が衝撃波沈没した。おそらく積み荷の弾薬誘爆したためと思われる。

敵に通信を解読される

エニグマ解読暗号表の有効期限が迫ってきたため、BdUはU-197から新たな暗号表を受領しつつ、フランスへの帰投に向けて最終調整を行うようU-181に示、2隻は盛んにモールス信号で通信を交わしたが、8月18日にU-181が放った信号を連合軍に傍受・解読され、刺客の対潜哨戒機が送り込まれる。そうとは知らずに翌日U-181とU-197は合流して暗号表を受領。次はU-196との合流地点に向かう。

8月20日U-190U-197から「爆撃を受けて潜航不能」との線報告を受け取った。これを受けてBdUはU-181とU-196に、U-197の捜索を行わせるも成果を挙げられず(U-197は対潜哨戒機に撃沈されていた)、間もなく帰投命が出される。

7隻のUボートによる大規模通商破壊連合軍商36隻(約23万5000トン)を撃沈。このうち9隻はU-181の戦果だった。

復路

U-181、U-177U-196インド洋を脱して帰路に就く。3隻とも十分な燃料と物資を持っていたのでU-488による補給は行われなかった。帰投中の9月、U-181を敵艦と誤認したU-172から魚雷を撃たれそうになったが、直前でU-181が識別信号を点し、ぎりぎりのところで同士討ちは避けられた。

順調に進むU-181に思わぬ問題が降りかかる。それはU-197から受け取った暗号表が10月1日に失効してしまう事だった。失効後エニグマメッセージを一切解読出来なくなるが、リュート艦長は敢えて沈黙を保ち、線で暗号表を取り寄せるような真似はしなかった。闊に通信をすれば連合軍機がすっ飛んで来るからだ。彼の判断は正しかったようで、10月14日ボルドーに事帰投。2回戦闘では10隻(4万5331トン)を撃沈。1回と合わせて22隻(10万3712トン)を撃沈する大戦果を挙げた。

10月25日ヒトラー総統リュート艦長を総統本部に招待して葉・ダイヤモンド騎士十字章をを授与、この時リュート艦長は乗組員2名を騎士十字章に推薦し、ヒトラー総統とデーニッツ元帥に認められた事で、乗組員にも異例の受勲が行われている。英雄となったリュート艦長は、戦死による士気低下を避けるため地上勤務に回され、妻に「今後はに出ない」と線連絡した。

11月1日、二代艦長にクルトフライヴァルト少佐が就任。彼はこれまでに3隻のUボート艦長を務めたが、第二次世界大戦が始まってからは一度も実戦に出ていない新米だった。士気を鼓舞するためか、にこれまでの撃沈スコアである「105812」の数字を描く。当時の記録なので現在記録若干食い違っている。

3回目の戦闘航海

1944年3月16日、U-181はボルドーを出港。今回の任務は通商破壊ではなく、同盟日本が占領するペナン基地に物資を輸送する事で、艦内に日本軍向けの回転機フォッケ=アケゲリスFa330とNaxosレーダー探知機を、艦底に水銀、鋼アルミニウム、未加工のガラスを積載。には識別用の「ハーケンクロイツ」のエンブレムを新たに描いた。

連合軍に位置を特定されるのを防ぐべく中は線封鎖を実施。このためBdUさえもU-181の正確な位置を把握していなかった。4月22日22時中部大西洋でインド洋からフランスに帰投中のU-188と会同。潤滑を補給する傍らインド洋の状況について情報交換を行った。U-188の送信機コンバーターは故障しており、自力修理を試みるも全て失敗、このため翌23日にU-181がコンバーター故障の旨を代わりに報告している。

5月1日午前4時11分、アセンション西方900里にて、単独航行中のジャナタ(5312トン)を撃沈。員10名と手4名が死亡。U-181側はジャナタを別のバナボンと誤認していたとか。救命ボート上の生存者に尋問したのち域を立ち去る。

5月9日にケープタウンを、5月17日に喜望峰を突破、U-181は三度インド洋に進出する。しかし、補給シャルロッテ・シュリーマンブラーケイギリス海軍に撃沈され、代役のキトとボゴタは小すぎて洋上給油に適さず、インド洋方面の補給事情は極端に悪化。Uボート同士で補給を行わなければならなかった。

インド洋での通商破壊

6月19日19時53分、マダガスカル北東で、ボンベイからマルグガオに向かっているオランダガロエット(7118トン)に魚雷2本を発射、2本ともガロエットの左舷側に命中し、2分以内に穏やかな波の中へと消えていった。積み荷の石炭砂糖ピーナッツ1000トンに沈んだ。

7月15日22時13分、マンガロール北西にて一般貨物5600トンを輸送中のタンダ(7174トン)に魚雷2本を発射し撃沈。的地ボンベイの眼前で沈められる形となった。だが翌16日、運悪く敵哨戒機に発見され、インド海軍スループ・サトレジと複数の航空機から約6時間にって爆雷攻撃を受ける。何とか猛攻をいだU-181は修理のためラカティブ諸に向かう。

7月19日17時3分、インド西方アラビアで護衛しのキングオブフレデリック(5265トン)に魚雷1本を命中させ、体をばらばらにしながら撃沈。生存者のリチャード船長以下28名はU-181から尋問を受けた。4隻(2万4869トン)撃沈の戦果を挙げたU-181はインド西方での通商破壊を終了。セイロン南方通過して東南アジア方面に向かう。

ナンまでやってきたU-181は、中の日本軍機が容易に識別出来るよう、艦前面をく塗り、甲の縞模様の塗装を施す。

8月7日深夜、ペナンを浮上航行中、見り員が正体不明の潜水艦を発見、すると潜水艦が潜航を始めたので、U-181も潜航退避を行う。正体は暗号解析で待ちせていた潜水艦トラジェムであり、U-181掛けて数本の魚雷を発射しているが、全て外れている。

東南アジアでの行動

8月8日ウルリッヒ・ホルン中尉が駆る、日の丸塗装されたアラドAr-16水上機が飛来し、U-181の頭上で数回旋回したのち、識別を示すようにを下げた。程なくして日本の小先案内が現れてU-181をペナンまで誘導する。こうして146日間に及ぶ長旅を終えてペナン基地への入港を果たした。フライヴァルト艦長は乗組員の努力と敢闘を称えて勲章を贈ったという。

港の北端にある埠頭1つと倉庫2~3個がドイツ海軍に割り当てられた区画であった。ただペナンには大規模な整備施設がいので、8月30日ナンを発ち、マラッカ峡を通って翌日シンガポールに回航、日本海軍運営する第101工作部で入渠整備を受け、艦底から水銀入りの本が取り出される。

ところが、日本軍から供給された重Uボートに適さず(そもそもUボートの燃料は軽油)、U-181は右舷機関と補助機関ピストン及びベアリングが損傷、更に両舷のエンジンが故障してしまったため、大規模な通商破壊作戦から除外されてしまう。フライヴァルト艦長はUボートの機低下に伴い帰困難と考え、いつしか戦争に負けたと思うようになり、乗組員を危険なに遭わせたくないと消極的になっていた。

9月9日東京出張中のフライヴァルト艦長に代わり、ヘルワルツ少佐(U-843艦長)の臨時揮を受けてペナンを出港、シンガポールに向かう中で座礁してしまうが、潮の満ち引きを利用して離礁に成功。続いて9月23日シンガポールを出港、回航先のバタビアにてモリブデン20トン130トン、生ゴム100トンキニーネアヘン、そして最新式のレーダー探知機FUMB 26を積み込む。アヘン魚雷発射管に詰め込んだ弊で発射できる魚雷本数は2本にまで減少してしまった。ノルウェー帰投に備えてシュノーケルを搭載する予定だったが結局実行されなかった。

10月1日、第33潜隊群へ転属。連合軍のフランス上陸で第10潜隊群が解隊されたためである。

4回目の戦闘航海

1944年10月9日ノルウェーしてバタビアを出港。

11月2日20時2分、中部インド洋にて、アバダンで積んだ潤滑9万3000バレルブリスベーンに輸送中のT-2級タンカーフォーリー(1万198トン)を雷撃、命中した魚雷1本が線装置とエンジンを破壊し、員はを放棄して上に脱出する。だがフォーリーは中々沈まなかった。そこで20時18分に2本魚雷を右舷側へと撃ち込み、これが致命傷となって21時10分尾より沈没していった。また被雷時に生じた爆発で救命艇2隻が粉砕されて6名が死亡している。

11月26日、喜望峰南東で機関が損傷した事でヨーロッパへの帰困難になり、バタビアに引き返さざるを得なくなる。12月22日から24日にかけてココスで本帰投中のU-843に燃料を補給。

1945年1月5日バタビアに入港した。

バタビア帰投後

バタビア外港のタンジュンリオクは見るも残な廃墟と化していた。これは日本弾薬輸送が敵潜の雷撃を受けて大爆発を起こしたのが原因だった。何とか応急修理を行い、1月12日にペナン回航を命じられるも、ヨーロッパに耐えられるだけの状態にいと判断され、1月16日シンガポールへ入港、機関修理及びシュノーケルの搭載工事に着手する。

2月1日午前10時33分から午後12時8分まで警報が発され、第20爆撃航空団所属の96機のB-29がセレター地区を狙って盲爆、入渠中の給油知床が浮きドックごと撃沈される被害が発生したものの、U-181に損傷はかった。以降シンガポールには連日B-29が偵察に現れ、2月28日には十数機が磁気機雷をへ敷設している。

4月7日、基地ヴィルヘルム・ドメス中佐は、U-181の整備に貢献した主任機械フランツペルシュ、上級機械カールカイザー機械ヴィルヘルム・リンカの3名にドイツ十字章金賞を授与。4月中旬まで航行力に制限が課せられていたが不断の努力で回復。次の出港予定日を5月10日に定めた(異説では6月1日まで修理に時間が掛かるとも)。

日本海軍の接収

1945年5月5日ドイツ駐日海軍武官パウル・ヴェネッガー大将東南アジアの全Uボート暗号信号「リューベック」を送信。これはドイツが降して連合とのあらゆる敵対行為が停止した事を意味する。

翌6日に第10方面艦隊の福留繁中将が第101工作部を訪れ、U-181とU-862の乗組員に対し、ドイツが降した事とこれから抑留する事を告げ、乗組員がエニグマ暗号機2台を中投棄した。同日16時にはU-181に日本軍艦旗が掲げられる。

そして5月8日ドイツが正式に降。ヴェネッガー大将は「リューベック協定が発効した」旨を東南アジアドイツ軍部隊に送信、この協定は、一方のが降して残った戦闘を続行した場合、前者は後者に軍需品を提供するという内容である。日独間の取り決めにより5月10日にU-181は日本海軍が接収。

戦えなくなったドイツ人乗組員たちはバトゥ・パハトの収容所に送られる。が、ドイツ側はモンスーン戦隊メス中佐U-181艦長クルトフライヴァルト少佐雷長デェアリング中尉機関長ヒレー少尉などを立てて日本側と交渉、速やかに締結された紳士協定によって、対日協力を義務付ける代わりに収容所から解放されてチコポの休憩所が与えられた。ドイツ人乗組員の自発的な申し出を受けて日独協同でU-181の修理作業を続行。

6月から7月にかけて、シンガポールドイツ人乗組員がシュノーケルを使った潜航試験を実施。

東南アジアUボート日本本土でも噂になっており、乗組希望者も相当数いた模様。本土決戦読み段階に入る中、大本営としては一刻もく内地に回航したい思惑があり、各潜水艦より抽出された乗組員は回航要員と何ら変わりがかった。6月中旬頃U-181とU-862に割り当てられた乗組員が佐世保に集結、6月22日伊351に便乗して佐世保を出港、7月11日シンガポールへ入港して事上陸を果たした。

艦長に佐藤少佐雷長に幸田正仁大尉機関長に本房義大尉、航長に岡嶋中尉、軍医長に峯二軍中尉が着任。第6艦隊はU-181を便宜的に1番艦と命名し入籍のための準備を始めた。

伊501

1945年7月15日付で伊501と改称して日本海軍籍に編入、呉鎮守府第1南遣艦隊に部署するとともに、乗組員に対する正式乗組も発された。伊351で来た幹部以外の人員は東南アジア方面からかき集めたとか。速パシールパンジャンの桟で日独協同訓練が開始。ドイツ人約30名が操艦方法を教え、日本人乗組員が運用する。

上層部も接収したUボートに期待を寄せていたようで、各艦にマレー人運転手付き乗用車を配、艦との往復、セレター部への訓練状況報告、特別根拠地隊との連絡業務などに使用され、率を大幅に上げられたという。シンガポール自体が燃料集積拠点なので燃料不足の心配も要らなかった。

8月1日、艦隊部の肝入りで、パシールパンジャンの丘にあるタイガーパームガーデンにて日独交歓パーティーが開かれた。その後、商港にある三菱重工ドックで、日独双方の乗員が整備及び艦底清掃を実施、セレターの第101工作部も通しの作業に協力してくれた。作業を通じて日独乗員は互いにを深める。

シンガポール南側に深約50mの域があり、そこを訓練域に定めて潜航・浮上の操作を行う。

Uボート潜水艦よりも技術が進んでいた。日本潜水艦では何本もの伝管を使って艦内達を行うところを、伊501はマイク1本による艦内放送だけで済み、たった一言発するだけで艦全体に命を伝える事が可だった。おかげで砲術科の先任下士官は役割を奪われて常に手持沙汰だったらしい。ツリム計算なども設計段階の時点で各タンクへの出入量が極めて容易に計算出来るようになっており、日本側より計算が楽だったと伝わる。雷長デュアリング中尉から「ドイツ海軍の襲撃戦法について説明したい」との申し出があり、佐藤艦長以下幹部数名が通訳を通して傾聴、群戦法のいろはを学んだ。

通訳が2人いたおかげで日独将校間の意思疎通にはさほど困らなかったものの、不慣れな作業ゆえに失敗も多く、一度だけ急速潜航中に前傾姿勢から起き上がれず、海岸艦首部分をぶつける事故が起きたり、日本側の誤操作で37mmが暴発して民家を木っ端みじんにしてしまう一幕もあった。

それでも8月上旬には急速潜航にも自信が持てるほど各部操作に習熟。これに伴い訓練域を洋上に移した。8月5日20時5分に第10方面艦隊参謀が送った電文によると「伊501の装作業は了、末までには訓練を終えて出撃準備が整う予定。各潜水艦魚雷16本搭載する」との事。

ある日、20mm機の試射を行おうとした時、突如警報が鳴りき、商港直上にP-38数機が低で侵入、佐藤艦長とフライヴァルト元艦長がそれぞれ日本語ドイツ語で対射撃を命じ、これを標的とした。やがて1機に命中弾を与えて薄い煙を引きながら墜落。伊501初の撃墜戦果だが部には報告しなかった。もし報告すれば、敗戦により「一般人」となったドイツ人が戦闘に参加した拠となってしまうからだと推測される。

訓練は順調に進み、そろそろ日独協同訓練も終わりにしようかとの意見が出始めた8月11日午前、各級指揮官が艦隊部に集められ、「今後敵の攻撃に対しては反撃するが、敵を見てもこちらからは攻撃しない」方針が伝えられる。8月14日ドイツ人との協同訓練が終了。3週間後の戦力化をして猛訓練を行う。

伊501戦力化後は補給が途絶えて孤立しているアンダマン諸への輸送任務に投入し、魚雷発射管を日本式に改める予定だったという。

終戦

1945年8月15日終戦を迎える。しかしシンガポールでは終戦の報せがハッキリと伝わっておらず、気ながら「ポツダム宣言を受諾した」との噂が広がり、いつしかドイツ人乗組員たちも姿を見せなくなった。何やら様子がおかしいと思った佐藤艦長は、いつでも出撃出来るよう戦闘準備を行う事とし、燃料・糧食・魚雷を満載して、翌16日までに作業を了させる。

シンガポール在中の戦力で自由に動けるのは航空部隊潜水艦のみで、特に潜水艦は内地帰投力を有していた事から、勝手に動くと他部隊に動揺が広がるとして、艦隊参謀からポツダム宣言受諾の説明と待機命が下された。今さら徹底抗戦を叫んでも意味がいので伊501乗組員は素直に命に従った。

伊501と伊502の両艦はシンガポール残留が決定。部の示でセレターに回航し、接係留中の重巡洋艦妙高の右舷に横付けする。その後乗組員たちはバトゥ・パハトに移送。9月に進駐してきたイギリス軍が伊501を接収し、イギリス軍監視の下、ドイツ人乗組員が伊501から全ての重品を取り外して中に投棄。彼らは捕虜として一旦ウェールズに収容された後、ドイツに帰するが、一部はソ連逮捕されるのを恐れてウェールズに永住している。

11月30日除籍。

ドイツのポツダムにて、アメリカイギリスソ連は拿捕したドイツの分配を的とする三国海軍委員会を設立。ドイツヨーロッパにいた艦艇は戦勝に分配されたが、東南アジアにいて分配を免れた伊501、伊502伊505伊506の4隻は1946年2月15日までに全て処分する事に。

1946年1月24日14時11分、イギリス海軍本部は東インド方面軍クレメント・ムーディ中将電報を送り、シンガポールとジャワに停泊中のUボート4隻を2月15日までに破壊するよう促した。2月14日、伊501はタグボートアシデュアス航されてシンガポールを出発、2月16日午前5時45分マラッカ峡でフリケード艦ロックグレンドゥの撃を受けて処分となる。

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