U-181とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2型Uボートの1隻である。1942年5月9日竣工。ドイツ降伏後は日本海軍に接収されて伊501となる。1946年2月16日マラッカ海峡で海没処分。
IXD2型とは、前級IXC型以上に作戦範囲の拡大を目指した長距離航洋型Uボートである。これまでのIX型とは全く違う船体と設計を持ち、排水量も1600トン以上と、日本海軍の海大型に迫る巨躯を誇る。
まず最初にIXD1型が建造されたが、搭載していたメルセデス製魚雷艇用エンジンの信頼性が低かったため、IXD2型では、IXC型と同一のMAN社製M9V40/46ターボチャージドエンジン2基に戻し、新たに低速巡航用のMWM社製RS34/5S巡航用ディーゼル2基を搭載。これによりフランスからインド洋やオーストラリア近海まで長駆出来る長大な航続距離を獲得した。またIXC型より船体を10m延伸して燃料搭載量を増大させている。補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で、水上速力19ノットを発揮。
航洋型Uボートの完成形とも呼べるIXD2型は合計28隻生産された。
U-181は通商破壊で特に顕著な功績を残し、4回の出撃で連合軍船舶27隻(13万8779トン)を撃沈、全Uボート中19位の撃沈スコアを叩き出した。初代艦長のヴォルフガング・リュート大尉は、ドイツ海軍では2人しか受勲していない柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を授与され、U-181を題材にした短編ニュース映画「U-BOAT COMMANDER U-181 WOLFGANG LUTH BATTLE OF ATLANTIC」が製作、一般家庭向けに販売されている。
ドイツ降伏後は日本海軍が接収。伊501と改称するが戦闘任務を行う事なく終戦を迎えた。ちなみに伊501と伊502の魚雷搭載本数は24本であり、潜特型や巡潜丙型の20本を上回る。
諸元は排水量1616トン、全長87.58m、全高10.2m、喫水5.35m、出力9000馬力、最大潜航深度100m、急速潜航秒時35秒、最大速力20.8ノット(水上)/6.9ノット(水中)、乗員55名または64名、燃料搭載量441トン。武装は53.3cm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、10.5cm単装砲1門、37mm単装機関砲1門、20mm連装機関砲1基、搭載魚雷本数24本。
1940年8月15日にAGヴェーザー社ブレーメン造船所へ建造を発注。
1941年3月15日、ヤード番号1021の仮称で起工、12月30日進水し、1942年5月9日に無事竣工を果たした。初代艦長にヴォルフガング・リュート大尉が着任。彼はU-13、U-9、U-138、U-43の艦長を務めてきたベテランである。竣工と同時に訓練部隊の第4潜水隊群へ編入される。
5月9日から12日までブレーメンで試運転を行い、ブレーマーハーフェンとブルンスビュッテルを経由して、5月15日キールに回航、以降はバルト海方面で、訓練支援船イベリアの援護を受けながら各種試験と慣熟訓練に従事する。6月25日、26日、30日はダンツィヒで第25潜水隊群と魚雷発射訓練を、7月1日より10日までゴーテンハーフェンで第27潜水隊群と戦闘訓練を、7月11日からはダンツィヒ湾で砲撃訓練を実施する。8月29日シュテッティンでトリムの調整と推進剤の補充を行った。
慣熟訓練を終えたU-181は、ヘラ半島を経由して9月8日にキールへ入港、残工事を片付けつつ出撃準備を整える。
1942年9月12日午前7時、U-610、U-620、U-212、U-253とともに曇天のキールを出港。グレートベルト海峡とスカゲラク海峡を通過し、翌13日21時15分にノルウェー南部クリスチャンサンへ入港。ここで燃料補給を受ける。9月14日午前8時40分、対空船の護衛を伴って同地を出撃、ノルウェー西岸を北上して、9月18日シェトランド諸島西方を南西に向かって通過、イギリス軍の厳重な警戒を掻い潜って北大西洋への進出を果たす。
9月28日19時33分、ビスケー湾西方の洋上にてU-116やU-569と合流、ハンモックに包まれた予備部品約60kgを受け取ろうとしたが暗闇と荒波に阻まれて移載作業を中断。敵に発見されるのを防ぐため3隻は一度解散した。翌日午前11時15分に再度2隻と合流して輸送を続行。荒波に揉まれながらも旧型冷却ポンプを新型に交換、14時までに予備部品の移載も完了する。
10月14日午前7時52分、突如艦内に小型爆弾が炸裂したかのような轟音が響く。調べてみると左舷の調整タンクと負圧タンクから液漏れが発生している事が判明。加えて負圧タンクのフラッドバルブが閉じなくなっていた。好天時にダイバーがフラッドバルブをシールで覆い、ほぼ空の負圧タンクの中に入ってバルブを修理して、何とかレギュレーターとして使用に耐える状態にする。
10月17日にU-181はアセンション島とセントヘレナ島の間を南下。U-181、U-177、U-178、U-179の4隻は、無補給でダーバン沖まで足を伸ばせる広大な航続距離を活かし、狩り場を喜望峰より先のインド洋西部に設定、ドイツ海軍にとってインド洋への長駆は初の試みであり、連合軍にとってはアフリカ南部における最初の脅威となった。
11月3日午前4時頃、喜望峰南西約300海里を航行中、U-181は米自動車運送船イースト・インディアン(8159トン)を発見して潜航、午前5時48分に2本の魚雷を発射するが命中せず、9時間近い追跡の末、16時22分にジグザグ運動中のイースト・インディアンを雷撃、魚雷2本が右舷側に命中して2分以内に沈没させる。積み荷のマンガン鉱石3500トン、紅茶500トン、そして船員58名が海に呑まれた。
生存者16名は4隻の救命いかだに分乗して脱出。浮上したU-181は1隻を捕まえて尋問を行い、それが終わると飲料水を与えた上でケープタウンへの航路を教えて解放した。
11月8日20時25分、ポートエリザベス沖でパナマ商船プローディト(5060トン)の左舷機関室に魚雷1本を撃ち込んで大破させる。プローディトは爆発により海図室、救命艇、無線装置が破壊され、救難信号を打てなくなったが、無言のまましぶとく浮き続けたため、22時15分から甲板砲15発を撃ち込んで撃沈。船員38名と武装警備員11名は救命艇やイカダに乗って船を放棄した。
11月9日23時45分に敵蒸気船を発見して追跡開始。2回の雷撃が失敗し、一度は逃走を許してしまうが、執念で食らいつき続け、翌10日午前8時27分、ノルウェー商船K.G.メルダール(3799トン)を雷撃して9分以内に沈没させる。一般貨物、木箱に入った弾薬、航空機は届けられる事無く海の藻屑となった。その後は救命ボートに乗った生存者を尋問して解放。
11月11日午前3時25分、連合軍が放った600メートル波長によるUボート警報をU-177が受信、方角からしてU-181の攻撃に対して出された警報と推測された。
11月13日午前3時35分に米商船エクセルロ(4969トン)を発見して水上追跡。午前7時より潜航して雷撃の機会を窺う。午前8時1分、ポート・セント・ジョン沖南方50海里でエクセルロを雷撃して撃沈。救命ボートで波間を漂う生存者に尋問を行った。同日付でリュート艦長には柏葉章の受勲が決定。
11月15日、英フラワー級コルベット艦ジャスミン、インコンスタント、ナイジェラに包囲され、一斉に爆雷攻撃を受けたため、水深173mまで潜航退避する一か八かの賭けを行い、辛くも3隻の包囲網から逃げ延びられた。間もなくU-181はモザンビーク海峡南端に進出。モザンビークは、北アフリカ戦線に展開する連合軍の重要な補給港であり、数えきれないほどの連合軍船舶がひっきりなしに往来する、Uボートにとって絶好の狩り場と言えた。
11月19日19時55分に敵船を捕捉、20時55分より急速潜航を開始する。21時25分、モザンビーク海峡インハカ北東約20海里にて、ノルウェー商船グンダ(2241トン)を雷撃し右舷前方に命中、3134トンの石炭を抱えて僅か2分で沈没していった。グンダを仕留めた直後の23時30分に新たな獲物を発見。翌20日午前1時24分、インハカ灯台の東方沖で、単独航行中のギリシャ商船コリンシアコス(3562トン)の右舷後部に魚雷1本を命中させて撃沈。レオニダス船長と船員10名が行方不明になった。
11月22日午前0時33分、満月が浮かぶ夜空の下、ロウレンソ・マルケス南方75海里を航行していた米商船アルコア・パスファインダー(6797トン)はU-181から雷撃を受け、左舷機関室に魚雷が命中、直後爆発が生じ、破片が60m近くまで吹き飛ばされた。アルコア・パスファインダーには20mm砲4門と30口径砲2門が搭載されていたが、U-181を発見出来なかったため1発も発砲出来ていない。大量に積まれた鉱石が重しとなって3分以内に船尾から沈没。
11月24日午前3時38分、ケープタウンからセント・ジョンに向かっているギリシャ商船マウント・ヘルモス(6481トン)を発見、午前7時38分に魚雷2本を発射し、うち1本を命中させて航行不能に追いやる。魚雷節約の目的でU-181は午前8時2分より水上砲撃を開始、78発中65発を命中させて40分後に撃沈させるも、砲撃中に37mm機関砲が破裂してしまい、以降の攻撃には使用できなくなる。
同日15時56分、ダーバン行きの英商船ドリントン・コート(5281トン)を発見し、19時52分潜航、20時34分にイハカ島東南東で雷撃して、左舷船尾と機関室・ボイラー間の船体にそれぞれ魚雷を命中させる。当直員4名死亡、生じた破孔から海水が流入して機関室とボイラー室が浸水、呑み込んだ海水の重さで甲板がほぼ水浸しになるも、以降は沈下する様子は無く浮き続けていた。ドリントン・コートにトドメを刺すべく、21時23分に浮上して10.5cm甲板砲90発を発射、このうち60発を命中させて撃沈へと追いやる。
11月28日22時50分、インハウス北東70海里にて、モザンビークで荷降ろしを終えた帰りのギリシャ商船エヴァンシア(3551トン)を雷撃、左舷中央部に魚雷が命中・炎上したエヴァンシアからは船員が脱出したが、沈む気配を見せなかったため、30分後に浮上、それから45分間に亘って水上砲撃を行い、107発中70発を叩き込んで撃沈する。
11月30日午前5時11分、イニャンバネ南南東約42海里にてギリシャ商船クリアンディス(4153トン)の右舷に10.5cm甲板砲の連射を浴びせる。激しい砲撃により、クリアンディスが唯一装備していた船尾の対空砲が破壊され、船橋への命中弾で船長は戦死、瞬時に無線機も破壊されて遭難信号を送れなくなった。10.5cm砲弾を使い切ると今度は20mm機関砲で左舷側から銃撃して午前6時55分に撃沈。
12月2日17時40分、雨の中を進むギリシャ商船アマリリス(4328トン)をロウレンソ・マルケ南南東140海里で雷撃し、左舷中央部へ魚雷を命中させて船体を真っ二つにへし折って撃沈。船長、船員26名、砲手2名が戦死した。浮上後、U-181は生存者6名が乗った救命ボートに近づき、リュート艦長が直々に二等航海士を尋問。アマリリスに乗っていた羊は非常食代わりに接収された。
一連の通商破壊で12隻(5万8381トン)もの敵船舶を撃沈。1回の航海で叩き出した戦果では、全Uボート中第9位となる。航洋型Uボートの戦略的価値を理解したリュート艦長はBdU(Uボート司令部)に対し、「少なくとも新造艦には、より大型な潜水艦が必要である」と報告している。
12月12日午前4時、BdUから「アフリカ西岸沿いを北進してケープタウンの敵船舶を攻撃せよ」と命じられ、モザンビーク海峡より撤退、アセンション方面に向かう。荒天に巻き込まれる等の原因で、航続距離の長いIXD2型と言えど、フランスに帰投出来るかどうか怪しくなってきたため、リュート艦長はBdUに燃料補給を求めたが、「補給は期待出来ない」という望まぬ返答のみが返って来た。やむなく燃料節約の目的で全てのバラストタンクを空にする。
12月19日16時、10月10日にU-172の雷撃で撃沈された英軍隊輸送船オルカデスの、完全装備の救命ボートが波に漂っているのを発見。12月24日アセンション・セントヘレナ間の海域を北上通過。ドイツ放送サービスとの追加文書提案命令に従い、U-181は銃後の家庭向けに「南大西洋より、ご家庭の皆さまメリークリスマス。現在までに5万8000トンを撃沈しました。今は熱帯の暑さの中、水深30mでアコーディオンと手作りモミの木を使ってクリスマスパーティーを開催中」と電文を打った。この無線メッセージは受信確認されたものの、放送時には何故か読み上げられなかったとか。
1943年1月8日16時8分にU-381が西進する敵輸送船団を発見したとの報が入る。敵航路の近くにいたU-181は攻撃に向かい、翌9日13時12分、U-181の視界内に3隻の汽船が出現、直ちに発見報告を送った。船団の左側にはVIIC型と思われる味方Uボートが追跡しているのが見える。14時14分より潜航開始。追跡を続けたが、遂に雷撃の機会は巡って来ず、21時30分、BdUはU-181に「雷撃を受けて落伍した敵船舶を捜索のち帰航せよ」と指示を出す。
1月16日ビスケー湾に進入。敵国イギリスの眼前にある立地上、湾内では常に厳しい航空哨戒が行われており、潜航しながらの移動を強いられる。そして1月18日17時ボルドーに凱旋帰投を果たして129日間の戦闘航海を終えた。発射管には魚雷2本がまだ残っていたという。
1月26日付でリュート艦長はダイヤモンド付Uボート戦闘徽章を受章。
1943年3月23日ボルドーを出撃。ビスケー湾を南西方向に抜けて北大西洋に進出する。
3月27日、ビスケー湾西方で味方偵察機がSL-126船団を発見、U-181はU-267、U-404、U-571、U-662とともにSL-126船団の捜索を命じられるも、接触に成功したのはU-404とU-662のみだった。航行中の4月1日、リュート艦長の少佐昇進の報が届く。
英商船エンパイア・ホイムブレル(5983トン)は冷蔵肉及び缶詰め5339トンを積載してフリータウンに向かっていた。目的地まで後少しのフリータウン南西420海里の地点で、4月10日午前5時56分、回避運動むなしくU-181から放たれた魚雷2本が命中、30秒後にエンパイア・ホイムブレルは洋上停止した。船員は救難信号を放つとともに船を放棄して脱出。救命艇の1隻を捕まえて尋問した後、午前7時15分より水上砲撃を行い、28発中20発の命中弾を与えて15分後に撃沈。
しかし4ヶ月以上使用していなかったせいか、37mm対空機銃の初弾を発射した際に暴発が起き、破片で料理人のヴィルヘルム・ヴィリガー少尉が死亡、2名が負傷してしまった。ヴィリガー少尉の遺体は海葬に付された。4月12日正午、帰投中のU-516と合流して負傷者を引き取ってもらう。
5月3日頃に喜望峰を通過してインド洋西部へ進出。狩り場のモザンビーク海峡まで辿り着く。
5月11日午前2時8分、DN-37船団から分散航行していた英商船ティンハム(5232トン)をマプト北東沿岸で捕捉、2時間後に魚雷2本を発射し、被雷したティンハムは10分以内に沈没。フィリップ・ヘンリー・エイドン船長、船員24名、乗客50名が死亡、生き残った者に尋問を行ってU-181は海域を去った。
5月26日18時33分、ポンタ・サヴォラ灯台東方5海里沖で、小麦粉6241袋とフルーツジュース327トンを積載した、スウェーデン商船シチリア(1633トン)を発見。スウェーデンは中立国なので、翌7日午前6時11分、シチリアの右舷後方から前路に向けて砲弾10発を撃ち込んで威嚇射撃を実施、船首と船尾の至近距離にそれぞれ1発ずつ着弾し、恐怖を覚えた船員たちは速やかに2隻の救命ボートに分乗して脱出する。
U-181は船長と一等航海士を艦内に乗せ、尋問並びに書類審査を行う。シチリアは自由航行中立船のリストに載ってはいなかったが、船長はブエノスアイレス発スウェーデン行きと説明、リュート艦長は彼の言葉を信じ、BdUに処遇をどうするか指示を仰いだ。しかし、スウェーデン人2名が救命ボートへ戻ろうとした時、リュート艦長が書類の不備に気付き、航海日誌を見せるよう要求、二等航海士が船橋より持ってきた日誌を見てみると、去年(1942年)シチリアが連合国の南北アメリカと貿易を行っていた事が判明。
強い疑念を抱いたリュート艦長は30分以内に食糧と私物を回収するよう伝え、「積み荷も船も中立だ」と抗議するスウェーデン人に対し「大変申し訳ないのですが戦争は戦争です。実際、この航海はイギリスの代理店が手配したもの。ロウレンソ・マルケスで荷揚げされた小麦粉の一部は南アフリカへ輸送されていました」とピシャリと告げた。午前8時29分シチリアの右舷中央部に砲弾を撃ち込んで撃沈。
救命ボートに乗った生存者にリュート艦長が「何か欲しいものはあるか?」と尋ねるも、生存者たちは拒否、むしろパンとタバコを差し出してきたため、そのまま立ち去るしかなかった。
6月7日21時30分に小型蒸気船の船影を発見して追跡。23時28分、ダーバン東方200海里にて、南アフリカ商船ハリアー(193トン)に魚雷を発射、20秒後船尾へ1本を命中させる。すると積み荷のガソリンが誘爆して大爆発が起こり、船員16名全員が死亡した。
6月22日午前4時、U-181はダーバン南東に定められた合流地点に到着。そこには、IXD2型によるインド洋通商破壊作戦を延長させる目的で、ドイツ補給船シャルロッテ・シュリーマンが派遣・待機しており、既にU-178とU-196が横付けして燃料補給を受けている。その近くにはU-197やU-198の姿も見える。
荒れた海で複雑な作業工程をこなすには時間を要し、またシャルロッテが保有するモーターボートは気象条件の問題で使用出来ず、各々が有するゴムボートを使って細々と食糧を運び込むしかなかった。それでも何とか60日分の食糧を補給する事には成功。しかし、肉や野菜は傷みやすく燃料よりも早く尽きるという事で、シャルロッテ側が気を利かせてより多くの食糧を分けてくれたものの、それでも海の狼を満たす量にはならない。様々な問題を抱えつつも敵に見つかる事無く一先ず補給は完了した。補給している間、U-181の乗組員はシャルロッテでシャワーを浴びる極上の一時を味わった。
翌23日、最新の海上交通情報に基づいて、各艦は割り当てられた作戦海域へ移動。マダガスカル・レユニオン間を北上しながら獲物を探す。
7月1日午前2時、U-181はモーリシャスのポートルイス港に停泊中の3隻に狙いを付け、出港するのを今か今かと待ち構えていた。そして翌朝、2番目に出港した英旅客船ホイハウ(2798トン)を10時間に渡って追跡し続け、翌2日21時7分、モーリシャス西北西105海里で2本の魚雷を発射、2本とも船体に命中したホイハウは船首から沈没していった。船長、船員90名、砲手7名、乗客47名が死亡。
7月15日13時47分、ダーバン発アデン行きの英蒸気商船エンパイア・レイク(2852トン)を発見。攻撃のため17時15分に潜航した。18時1分、マダガスカル島東方240海里で魚雷2本を発射して撃沈、積み荷の石炭は全て失われた。生存者7名に対して尋問を行う。続いて翌16日15時58分、レユニオン南西で、モザンビークからダーバンに塩1500トンを輸送中の英商船フォート・フランクリン(7135トン)を狙って魚雷2本発射、17分以内に撃沈せしめた。
8月4日午前4時3分、アデン発アレクサンドリア行きの石炭6821トンを積載した英蒸気船ダルフラム(4558トン)は、マダガスカル東方でU-181から魚雷3本を扇状に放たれ、そのうち1本が命中して大破、それでもまだ浮き続けていたものの、午前4時53分にトドメの一撃を喰らって1分以内に撃沈された。8月7日午前9時16分DN-54船団より分離した英商船ウンブーマ(4419トン)をポートルイス南西で雷撃して撃沈。一般貨物2000トン、砂糖2000トン、軍需品800トンは船体ごと海底に沈んだ。
8月9日これまでの大戦果によってリュート艦長には柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章の受勲が決定。海軍では初めての授与となった。
DN-55船団から分散した英貨物船クラン・マッカーサー(1万528トン)を15時間に亘って追跡したのち、8月12日午前3時32分、ファラガンファン島東方約350海里にて魚雷2本を命中させる。しかし巨体ゆえに簡単には沈まなかった。午前3時47分トドメの魚雷を発射、致命傷を負ったクラン・マッカーサーは8分後に船首より沈没するが、水中で激しい爆発が起こり、U-181が軽微の損傷を負った他、救命ボート数隻が衝撃波で沈没した。おそらく積み荷の弾薬が誘爆したためと思われる。
エニグマの解読暗号表の有効期限が迫ってきたため、BdUはU-197から新たな暗号表を受領しつつ、フランスへの帰投に向けて最終調整を行うようU-181に指示、2隻は盛んにモールス信号で通信を交わしたが、8月18日にU-181が放った信号を連合軍に傍受・解読され、刺客の対潜哨戒機が送り込まれる。そうとは知らずに翌日U-181とU-197は合流して暗号表を受領。次はU-196との合流地点に向かう。
8月20日、U-190はU-197から「爆撃を受けて潜航不能」との無線報告を受け取った。これを受けてBdUはU-181とU-196に、U-197の捜索を行わせるも成果を挙げられず(U-197は対潜哨戒機に撃沈されていた)、間もなく帰投命令が出される。
7隻のUボートによる大規模通商破壊で連合軍商船36隻(約23万5000トン)を撃沈。このうち9隻はU-181の戦果だった。
U-181、U-177、U-196はインド洋を脱して帰路に就く。3隻とも十分な燃料と物資を持っていたのでU-488による補給は行われなかった。帰投中の9月、U-181を敵艦と誤認したU-172から魚雷を撃たれそうになったが、直前でU-181が識別信号を点灯し、ぎりぎりのところで同士討ちは避けられた。
順調に進むU-181に思わぬ問題が降りかかる。それはU-197から受け取った暗号表が10月1日に失効してしまう事だった。失効後エニグマのメッセージを一切解読出来なくなるが、リュート艦長は敢えて沈黙を保ち、無線で暗号表を取り寄せるような真似はしなかった。迂闊に通信をすれば連合軍機がすっ飛んで来るからだ。彼の判断は正しかったようで、10月14日ボルドーに無事帰投。2回目の戦闘航海では10隻(4万5331トン)を撃沈。1回目と合わせて22隻(10万3712トン)を撃沈する大戦果を挙げた。
10月25日、ヒトラー総統はリュート艦長を総統本部に招待して柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章をを授与、この時リュート艦長は乗組員2名を騎士鉄十字章に推薦し、ヒトラー総統とデーニッツ元帥に認められた事で、乗組員にも異例の受勲が行われている。英雄となったリュート艦長は、戦死による士気低下を避けるため地上勤務に回され、妻に「今後は哨戒に出ない」と無線連絡した。
11月1日、二代目艦長にクルト・フライヴァルト少佐が就任。彼はこれまでに3隻のUボート艦長を務めたが、第二次世界大戦が始まってからは一度も実戦に出ていない新米だった。士気を鼓舞するためか、司令塔にこれまでの撃沈スコアである「105812」の数字を描く。当時の記録なので現在の記録と若干食い違っている。
1944年3月16日、U-181はボルドーを出港。今回の任務は通商破壊ではなく、同盟国日本が占領するペナン基地に物資を輸送する事で、艦内に日本軍向けの回転翼機フォッケ=アケゲリスFa330とNaxosレーダー探知機を、艦底に水銀、鉛、鋼鉄、アルミニウム、未加工の光学ガラスを積載。司令塔には識別用の「盾とハーケンクロイツ」のエンブレムを新たに描いた。
連合軍に位置を特定されるのを防ぐべく道中は無線封鎖を実施。このためBdUさえもU-181の正確な位置を把握していなかった。4月22日22時、中部大西洋でインド洋からフランスに帰投中のU-188と会同。潤滑油を補給する傍らインド洋の状況について情報交換を行った。U-188の送信機コンバーターは故障しており、自力修理を試みるも全て失敗、このため翌23日にU-181がコンバーター故障の旨を代わりに報告している。
5月1日午前4時11分、アセンション諸島西方900海里にて、単独航行中の英商船ジャナタ(5312トン)を撃沈。船員10名と砲手4名が死亡。U-181側はジャナタを別の船バナボンと誤認していたとか。救命ボート上の生存者に尋問したのち海域を立ち去る。
5月9日にケープタウン沖を、5月17日に喜望峰を突破、U-181は三度インド洋に進出する。しかし、補給船のシャルロッテ・シュリーマンとブラーケがイギリス海軍に撃沈され、代役のキトとボゴタは小型すぎて洋上給油に適さず、インド洋方面の補給事情は極端に悪化。Uボート同士で補給を行わなければならなかった。
6月19日19時53分、マダガスカル島北東で、ボンベイからマルグガオに向かっているオランダ商船ガロエット(7118トン)に魚雷2本を発射、2本ともガロエットの左舷側に命中し、2分以内に穏やかな波の中へと消えていった。積み荷の石炭、砂糖、ピーナッツ1000トンも海に沈んだ。
7月15日22時13分、マンガロール北西にて一般貨物5600トンを輸送中の英商船タンダ(7174トン)に魚雷2本を発射し撃沈。目的地ボンベイの眼前で沈められる形となった。だが翌16日、運悪く敵哨戒機に発見され、インド海軍のスループ・サトレジと複数の航空機から約6時間に亘って爆雷攻撃を受ける。何とか猛攻を凌いだU-181は修理のためラカティブ諸島に向かう。
7月19日17時3分、インド西方アラビア海で護衛無しの英商船キング・オブ・フレデリック(5265トン)に魚雷1本を命中させ、船体をばらばらにしながら撃沈。生存者のリチャード船長以下28名はU-181から尋問を受けた。4隻(2万4869トン)撃沈の戦果を挙げたU-181はインド西方での通商破壊を終了。セイロン南方を通過して東南アジア方面に向かう。
ペナン近海までやってきたU-181は、哨戒中の日本軍機が容易に識別出来るよう、艦橋前面を白く塗り、甲板に白の縞模様の塗装を施す。
8月7日深夜、ペナン沖を浮上航行中、見張り員が正体不明の潜水艦の司令塔を発見、すると謎の潜水艦が潜航を始めたので、U-181も潜航退避を行う。正体は暗号解析で待ち伏せていた英潜水艦ストラタジェムであり、U-181目掛けて数本の魚雷を発射しているが、全て外れている。
8月8日、ウルリッヒ・ホルン中尉が駆る、日の丸に塗装されたアラドAr-16水上機が飛来し、U-181の頭上で数回旋回したのち、識別を示すように翼を下げた。程なくして日本の小型水先案内船が現れてU-181をペナンまで誘導する。こうして146日間に及ぶ長旅を終えてペナン基地への入港を果たした。フライヴァルト艦長は乗組員の努力と敢闘を称えて勲章を贈ったという。
港の北端にある埠頭1つと倉庫2~3個がドイツ海軍に割り当てられた区画であった。ただペナンには大規模な整備施設が無いので、8月30日ペナンを発ち、マラッカ海峡を通って翌日シンガポールに回航、日本海軍が運営する第101工作部で入渠整備を受け、艦底から水銀入りの瓶数百本が取り出される。
ところが、日本軍から供給された重油がUボートに適さず(そもそもUボートの燃料は軽油)、U-181は右舷主機関と補助機関のピストン及びベアリングが損傷、更に両舷のエンジンが故障してしまったため、大規模な通商破壊作戦から除外されてしまう。フライヴァルト艦長はUボートの機能低下に伴い帰国困難と考え、いつしか戦争に負けたと思うようになり、乗組員を危険な目に遭わせたくないと消極的になっていた。
9月9日、東京に出張中のフライヴァルト艦長に代わり、ヘルワルツ少佐(U-843艦長)の臨時指揮を受けてペナンを出港、シンガポールに向かう道中で座礁してしまうが、潮の満ち引きを利用して離礁に成功。続いて9月23日シンガポールを出港、回航先のバタビアにてモリブデン20トン、錫130トン、生ゴム100トン、キニーネ、薬用アヘン、そして最新式のレーダー探知機FUMB 26を積み込む。薬用アヘンを魚雷発射管に詰め込んだ弊害で発射できる魚雷本数は2本にまで減少してしまった。ノルウェー帰投に備えてシュノーケルを搭載する予定だったが結局実行されなかった。
10月1日、第33潜水隊群へ転属。連合軍のフランス上陸で第10潜水隊群が解隊されたためである。
11月2日20時2分、中部インド洋にて、アバダンで積んだ潤滑油9万3000バレルをブリスベーンに輸送中の米T-2級タンカーフォートリー(1万198トン)を雷撃、命中した魚雷1本が無線装置とエンジンを破壊し、船員は船を放棄して海上に脱出する。だがフォートリーは中々沈まなかった。そこで20時18分に2本目の魚雷を右舷側へと撃ち込み、これが致命傷となって21時10分船尾より沈没していった。また被雷時に生じた爆発で救命艇2隻が粉砕されて6名が死亡している。
11月26日、喜望峰南東で主機関が損傷した事でヨーロッパへの帰国が困難になり、バタビアに引き返さざるを得なくなる。12月22日から24日にかけてココス諸島沖で本国帰投中のU-843に燃料を補給。
バタビア外港のタンジュンプリオクは見るも無残な廃墟と化していた。これは日本の弾薬輸送船が敵潜の雷撃を受けて大爆発を起こしたのが原因だった。何とか応急修理を行い、1月12日にペナン回航を命じられるも、ヨーロッパ帰国に耐えられるだけの状態に無いと判断され、1月16日シンガポールへ入港、機関の修理及びシュノーケルの搭載工事に着手する。
2月1日午前10時33分から午後12時8分まで空襲警報が発令され、第20爆撃航空団所属の96機のB-29がセレター地区を狙って盲爆、入渠中の給油艦知床が浮きドックごと撃沈される被害が発生したものの、U-181に損傷は無かった。以降シンガポールには連日B-29が偵察に現れ、2月28日には十数機が磁気機雷を主要水道へ敷設している。
4月7日、基地司令のヴィルヘルム・ドメス中佐は、U-181の整備に貢献した主任機械工フランツ・ペルシュ、上級機械工カール・カイザー、機械工ヴィルヘルム・リンカの3名にドイツ十字章金賞を授与。4月中旬まで航行能力に制限が課せられていたが不断の努力で回復。次の出港予定日を5月10日に定めた(異説では6月1日まで修理に時間が掛かるとも)。
1945年5月5日、ドイツ駐日海軍武官パウル・ヴェネッガー大将は東南アジアの全Uボートに暗号信号「リューベック」を送信。これはドイツが降伏して連合国とのあらゆる敵対行為が停止した事を意味する。
翌6日に第10方面艦隊司令の福留繁中将が第101工作部を訪れ、U-181とU-862の乗組員に対し、ドイツが降伏した事とこれから抑留する事を告げ、乗組員がエニグマ暗号機2台を海中投棄した。同日16時にはU-181に日本の軍艦旗が掲げられる。
そして5月8日ドイツが正式に降伏。ヴェネッガー大将は「リューベック協定が発効した」旨を東南アジアのドイツ軍部隊に送信、この協定は、一方の国が降伏して残った国が戦闘を続行した場合、前者は後者に軍需品を提供するという内容である。日独間の取り決めにより5月10日にU-181は日本海軍が接収。
戦えなくなったドイツ人乗組員たちはバトゥ・パハトの収容所に送られる。が、ドイツ側はモンスーン戦隊司令ドメス中佐、U-181艦長クルト・フライヴァルト少佐、水雷長デェアリング中尉、機関長ヒレー少尉などを立てて日本側と交渉、速やかに締結された紳士協定によって、対日協力を義務付ける代わりに収容所から解放されてチコポの休憩所が与えられた。ドイツ人乗組員の自発的な申し出を受けて日独協同でU-181の修理作業を続行。
6月から7月にかけて、シンガポール沖でドイツ人乗組員がシュノーケルを使った潜航試験を実施。
東南アジアのUボートは日本本土でも噂になっており、乗組希望者も相当数いた模様。本土決戦が秒読み段階に入る中、大本営としては一刻も早く内地に回航したい思惑があり、各潜水艦より抽出された乗組員は回航要員と何ら変わりが無かった。6月中旬頃U-181とU-862に割り当てられた乗組員が佐世保に集結、6月22日、伊351に便乗して佐世保を出港、7月11日にシンガポールへ入港して無事上陸を果たした。
艦長に佐藤清輝少佐、水雷長に幸田正仁大尉、機関長に本房義光大尉、航海長に岡嶋英李中尉、軍医長に峯英二軍医中尉が着任。第6艦隊はU-181を便宜的に1番艦と命名し入籍のための準備を始めた。
1945年7月15日付で伊501と改称して日本海軍籍に編入、呉鎮守府第1南遣艦隊に部署するとともに、乗組員に対する正式乗組も発令された。伊351で来た幹部以外の人員は東南アジア方面からかき集めたとか。早速パシールパンジャン沖の桟橋で日独協同訓練が開始。ドイツ人約30名が操艦方法を教え、日本人乗組員が運用する。
上層部も接収したUボートに期待を寄せていたようで、各艦にマレー人運転手付き乗用車を配車、艦との往復、セレター司令部への訓練状況報告、特別根拠地隊との連絡業務などに使用され、能率を大幅に上げられたという。シンガポール自体が燃料集積拠点なので燃料不足の心配も要らなかった。
8月1日、艦隊司令部の肝入りで、パシールパンジャンの丘にあるタイガーパームガーデンにて日独交歓パーティーが開かれた。その後、商港にある三菱重工ドックで、日独双方の乗員が整備及び艦底清掃を実施、セレターの第101工作部も夜通しの作業に協力してくれた。作業を通じて日独乗員は互いに親睦を深める。
シンガポール南側に水深約50mの海域があり、そこを訓練海域に定めて潜航・浮上の操作を行う。
Uボートは伊号潜水艦よりも技術が進んでいた。日本潜水艦では何本もの伝声管を使って艦内令達を行うところを、伊501はマイク1本による艦内放送だけで済み、たった一言発するだけで艦全体に命令を伝える事が可能だった。おかげで砲術科の先任下士官は役割を奪われて常に手持無沙汰だったらしい。ツリム計算なども設計段階の時点で各タンクへの出入量が極めて容易に計算出来るようになっており、日本側より計算が楽だったと伝わる。水雷長デュアリング中尉から「ドイツ海軍の襲撃戦法について説明したい」との申し出があり、佐藤艦長以下幹部数名が通訳を通して傾聴、群狼戦法のいろはを学んだ。
通訳が2人いたおかげで日独将校間の意思疎通にはさほど困らなかったものの、不慣れな作業ゆえに失敗も多く、一度だけ急速潜航中に前傾姿勢から起き上がれず、海岸に艦首部分をぶつける事故が起きたり、日本側の誤操作で37mm砲が暴発して民家を木っ端みじんにしてしまう一幕もあった。
それでも8月上旬には急速潜航にも自信が持てるほど各部操作に習熟。これに伴い訓練海域を洋上に移した。8月5日20時5分に第10方面艦隊参謀が送った電文によると「伊501の艤装作業は完了、月末までには訓練を終えて出撃準備が整う予定。各潜水艦は魚雷16本搭載する」との事。
ある日、20mm機銃の試射を行おうとした時、突如警報が鳴り響き、商港直上にP-38数機が低空で侵入、佐藤艦長とフライヴァルト元艦長がそれぞれ日本語とドイツ語で対空射撃を命じ、これを標的とした。やがて1機に命中弾を与えて薄い煙を引きながら墜落。伊501初の撃墜戦果だが司令部には報告しなかった。もし報告すれば、敗戦により「一般人」となったドイツ人が戦闘に参加した証拠となってしまうからだと推測される。
訓練は順調に進み、そろそろ日独協同訓練も終わりにしようかとの意見が出始めた8月11日午前、各級指揮官が艦隊司令部に集められ、「今後敵の攻撃に対しては反撃するが、敵を見てもこちらからは攻撃しない」方針が伝えられる。8月14日ドイツ人との協同訓練が終了。3週間後の戦力化を目指して猛訓練を行う。
伊501戦力化後は補給が途絶えて孤立しているアンダマン諸島への輸送任務に投入し、魚雷発射管を日本式に改める予定だったという。
1945年8月15日に終戦を迎える。しかしシンガポールでは終戦の報せがハッキリと伝わっておらず、朧気ながら「ポツダム宣言を受諾した」との噂が広がり、いつしかドイツ人乗組員たちも姿を見せなくなった。何やら様子がおかしいと思った佐藤艦長は、いつでも出撃出来るよう戦闘準備を行う事とし、燃料・糧食・魚雷を満載して、翌16日までに作業を完了させる。
シンガポール在中の戦力で自由に動けるのは航空部隊と潜水艦のみで、特に潜水艦は内地帰投能力を有していた事から、勝手に動くと他部隊に動揺が広がるとして、艦隊参謀からポツダム宣言受諾の説明と待機命令が下された。今さら徹底抗戦を叫んでも意味が無いので伊501乗組員は素直に命令に従った。
伊501と伊502の両艦はシンガポール残留が決定。司令部の指示でセレターに回航し、接岸係留中の重巡洋艦妙高の右舷に横付けする。その後乗組員たちはバトゥ・パハトに移送。9月に進駐してきたイギリス軍が伊501を接収し、イギリス軍監視の下、ドイツ人乗組員が伊501から全ての貴重品を取り外して海中に投棄。彼らは捕虜として一旦ウェールズに収容された後、ドイツに帰国するが、一部はソ連に逮捕されるのを恐れてウェールズに永住している。
11月30日除籍。
ドイツのポツダムにて、アメリカ・イギリス・ソ連は拿捕したドイツ艦船の分配を目的とする三国海軍委員会を設立。ドイツ降伏時ヨーロッパにいた艦艇は戦勝国に分配されたが、東南アジアにいて分配を免れた伊501、伊502、伊505、伊506の4隻は1946年2月15日までに全て処分する事に。
1946年1月24日14時11分、イギリス海軍本部は東インド方面軍司令クレメント・ムーディ中将に電報を送り、シンガポールとジャワに停泊中のUボート4隻を2月15日までに破壊するよう促した。2月14日、伊501はタグボートアシデュアスに曳航されてシンガポールを出発、2月16日午前5時45分マラッカ海峡でフリケード艦ロック・グレンドゥの砲撃を受けて海没処分となる。
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