レイトン・ヒューイット(Lleyton Hewitt)とは、オーストラリアのテニス選手である。2016年全豪オープンを最後に引退。
概要
Lleyton Hewitt | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | オーストラリア |
出身地 | オーストラリア: アデレード |
生年月日 | 1981年2月24日 |
身長 体重 |
180cm 77kg |
選手情報 | |
利き手 | 右 |
バックハンド | 両手打ち |
デビュー年 | 1997年 |
引退年 | 2016年 |
テニス選手テンプレート |
ロジャー・フェデラーと同じ1981年生まれのテニス選手。いわゆるニューボールズ世代の中でもマラト・サフィンと並んで最も早くから活躍しはじめた選手の一人である。非常に早熟な選手でランキング1位の史上最年少記録を保持している。小柄な体格ながら闘志あふれるファイター(公称の身長はサバを読んでいるらしい)。なおwikipediaによると日本のジュニア選手の間で「カモン!」の掛け声がはやったのは彼の影響なんだとか。
タイプとしては芝・ハードなど高速系サーフェスに強いベースライナー。最近だとラファエル・ナダルやノバク・ジョコビッチが「これを返すのか!」というようなコートカバーを見せるが、2002年ごろはこのポジションにヒューイットがいた。リターン能力も高く、全盛期の頃には「世界一のリターナー」と呼ぶ人もいた(かつてはアンドレ・アガシがそう呼ばれていた)。また伝家の宝刀と言われるほどロブが上手い。最近のテニス界はベースラインからのストローク戦が主流になっているが、彼の全盛期にはサーブ&ボレーヤーがまだ上位に残っており、ウィンブルドンなどではネットプレーに対して絶妙のロブでかわすシーンがよく見られた。
2年連続で最終ランキング1位を確保した2002年の時点では、そのメンタルタフネスから数年間は天下が続くと予想する人も多かった。しかしディフェンディングチャンピオンとして迎えた2003年ウィンブルドンのオープニングマッチでは予選から勝ち上がってきたクロアチアのビッグサーバー、イボ・カルロビッチにまさかの1回戦負けを喫してしまう。結局2003年はTOP10陥落。2004年から2005年にかけてアンディ・ロディックと争うところまでランキングを戻したものの、既に1位に立っていたフェデラー、さらには2005年にランキングを一気に上げてきたナダルとの差はどんどん広がっていってしまった。2006年以降は散発的な活躍こそあるものの4大大会での決勝進出は無く、度重なる故障による離脱、ランキングも100位以下に落ちることが増え、かつての強さを知るものにはさびしい状態になってしまった。
リューマチと長年のプレイの影響で足の形が変形してしまい、2012年2月の手術では左足の親指の骨を切断して金属板とネジに差し替えているという。手術が4年間で5回と満身創痍での現役生活が続いており、2012年には一時期200位以下までランキングを落としていたが、2013年以降はTOP100内に戻してきている。2014年はブリスベン決勝でフェデラーを下して2010年ハーレ以来3年半ぶりの優勝を挙げたほか、ニューポートでは3年連続の決勝でようやく優勝、こちらは単複同時優勝となっている。
自国の後輩に多数の有力選手が出てきたことで決心が付いたのか、2015年全豪オープン期間中に自身20回目となる2016年全豪オープンを最後に現役を退く意向を発表。2015年はウィンブルドンとデビスカップに集中するとしていた。最後のウィンブルドンでは初戦で同じく引退を表明していたヤルコ・ニエミネンと対戦。勝てば次の相手がノバク・ジョコビッチだったのでセンターコートでプレイできるチャンスだったが、惜しくもフルセットで敗れてしまった。一方デ杯では準決勝カザフスタン戦で0勝2敗と追い込まれる中、まずサム・グロスと組んだダブルスで勝つと、2勝2敗で迎えたR5のシングルスにも勝って見事チームの救世主となった。ヒューイットは昔からデ杯に積極的な選手として有名だが、引退後はデ杯監督に就任することが決まっている。
最後の全豪オープンは1回戦で自国の後輩ダックワースを下して2回戦進出。この試合の最後は見事なロブで決めている。2回戦はダビド・フェレールとほぼ同世代の小柄対決となったが、ここで敗れたのがシングルス最後の試合となった。世代的には同世代だが自身のランキングがまだ低かった頃に小柄な体格で活躍していたためか、フェレールにとってヒューイットはアイドルだったという。グロスと組んでダブルスにも出場していたが3回戦で敗れたのが現役最後の試合となった。
・・・はずだったのだが。2016年デ杯アメリカ戦ではニック・キリオスが離脱したため、ダブルスで急遽「代打オレ」をすることに。その後もウィンブルドンのダブルスに登場しており「あなた引退したんですよね」と言いたくなる状況になっている。好意的に見るならよほどテニスが好きなんだろう、今後もスポットでの大会出場が見られるかもしれない。
フェデラー全盛期の被害者No2
かつて2003年終了時点ではフェデラーに対して7勝2敗と比較的得意にしていたのだが2004年に入ってから状況は一変、全く勝てなくなってしまった。2004年全米オープン決勝で6-0を2つつけられたのが有名だが、この年はそれまでに全豪オープン、ハンブルグ、ウィンブルドンでもそれぞれ6-0を1回ずつつけられており、前兆は既にあったといえる。結局2010年ハーレ決勝で勝つまで15連敗。この間4大大会決勝での敗戦が1回、準決勝が2回、それ以外の大会でも決勝が2回とロディックほどではないもののかなりの被害を受けている。全盛期の年間マッチ成績は3位に定着した頃のジョコビッチあたりと比べても、それほどそん色無いのだが、対フェデラーの連敗のせいか最近はロディックとともに過小評価されがちである。
なお引退に際してBIG4と後輩キリオスのメッセージを集めたビデオレターが公開されているが、最初に収録されているのがフェデラーだった。同世代のライバルだっただけにジンと来る人も多かったのではないだろうか。
日本とのつながり
日本のメーカーであるヨネックスのラケットを使用しており、来日の機会も男子トッププレイヤーの中では多い部類に入る。ジャパンオープンには5回出場しており2001年に優勝、それ以外でも毎回準々決勝まで勝ち残っている。過去には日清カップヌードルのCMに出演したこともある。2012年には東日本大震災復興チャリティのエキシビションマッチ「ドリームテニスARIAKE」にも出場している。
微妙なところではTVアニメ版「テニスの王子様」最終回にて、全米オープンで越前リョーマが対戦している相手だったりする。同アニメはスポンサーにヨネックスが付いていたのか、テニス用品は全てヨネックス製品で固めていたとのこと。放映時の2005年は既にフェデラーの天下だったにも関わらず彼が描かれたのはヨネックスユーザーで当時一番のビッグネームだったからだと思われる。(ちなみに内容的には越前に負けて「まだまだだね」とか言われる役…。これ考えたスタッフは怒られてもいいと思う)
主な実績
- ATPランキング1位(在位80週)
- 2001年全米オープン優勝
- 2002年ウィンブルドン優勝
- 2004年全米オープン準優勝
- 2005年全豪オープン準優勝
- マスターズカップ優勝2回(2001年、2002年)
- シングルス通算優勝回数 30回
- シングルス通算マッチ成績 616勝262敗
- 史上最年少でのATPランキング1位(20歳8ヶ月)
- 史上最低ランクでのATPツアー優勝(1998年アデレード、550位)
- 史上最年少での全豪オープン本選出場(1997年、15歳10ヶ月)
関連動画
関連商品
関連項目
- 1
- 0pt