坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとは、憎悪の極致である。
概要
袈裟とは、僧侶の羽織っている布状の衣装である。転じて、ある人(物、事象など)が憎いあまり、その人にかかわるもの全てに対して、嫌悪感を抱いてしまうことを意味する。
心理学には「ハロー効果」という似たような効果がある。これは本来、例えばテレビやネットニュースなどで見かけるような一線級の有名人を見かけた時に、さも人格に優れ、専門分野以外にも精通しているのだろうなどと思いこんでしまう事を指すものである。しかし、これを逆にしてみるとあら不思議、まさに坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと同じような事が起きてしまうという寸法である。
我々がしばしば陥りがちな、認知バイアスという誤認や偏見などの一種と考えられ、常に気をかけなければならないことでもある。
時代背景
しかしなぜ坊主(僧侶)なのだろうか? これを紐解くには江戸時代の檀家制度まで遡る必要がある。
元々僧侶とは、我が国においても世界の例にもれず、知識人階級を構成する職業の一種であり、室町の頃までは一休宗純をはじめとして、庶民からも基本的には敬愛される存在であった。当たり前だが字が読めなければお経は読めないし、厳しい修行と学を積まねば僧にはなれないからである。また行基をはじめとして、道の整備や池や堀の造成などの社会インフラ整備にも僧侶が深く関わっていたことも一因といえよう。
江戸時代に入ると、歴史の授業でも取り上げられるように我が国ではキリスト教への締付けが強くなり、キリスト教が広まってからの時代では世界史上でも稀にみるほどの大弾圧が加えられた。その一環として、キリシタン(キリスト教信者)ではない証として幕府は、寺請証文を民衆に求めるようになった。
寺請証文とは、寺院が「この人はうちの寺の檀家であり、仏様を信じていますよ」と証明する文書である。キリシタンではない証明として、仏教を信じていることを求めたわけで、紛れもない仏教への保護政策である。これが、いわゆる寺請制度のはじまりであったといわれている。
寺請制度は時代を下るとともに強化されていき、寺請証文が現代で言う身分証としての性格も帯びたことから利権化して、発行と引き換えに金銭を要求することも常態化するようになっていった。また、建前上では、檀家を受け持つ寺(菩提寺)は仏法を説いて教化する義務を持つわけだが、民衆は檀家にならなければ社会的に生きていけないのだから、真面目にそんなことをする理由がないため僧侶の堕落や増長が目立つようになっていった。
これでは民衆は僧侶に対して尊敬するわけがなく、かといって歯向かえば、寺を通じて幕府の役人から睨まれかねない。その面従腹背ともいえる民衆の本音を如実に体現して出来た言葉が、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざである。地獄の沙汰も金次第や坊主丸儲け、布施の分だけ経を読むなどといった僧に対する皮肉ともいえる言葉が次々うまれたのもこの頃であるといわれる。
明治時代になると、この200年以上に亘る寺院の増長が一気に跳ね返る、廃仏毀釈運動が発生し、国学者や神社などが主導して、民衆による怒りが向けられることになるが、それはまた別の話である。
関連項目
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