夕張保険金殺人事件(ゆうばりほけんきんさつじんじけん)とは、1984年に発生した放火殺人事件・保険金殺人事件である。
概要
まだかつて夕張市が炭鉱町として賑わっていた時代……。
犯人夫妻は炭鉱の作業員を斡旋していたが、事故が起きて突然大量の保険金が手に入る。
無計画にその金を使い果たした夫婦は、再び保険金を手に入れようと企み、放火事件を起こした。
一審で死刑判決が下されると控訴するが、突然控訴を取り下げるという異例の行動に出る。
その目的とは……?
事件詳細
出会い
夫の日高安政は1943年生まれ。幼くして父を亡くすと非行を繰り返し、やがて17歳の頃には暴力団員となっていた。妻の日高信子は1946年生まれ。高校時代は不良として名を馳せ、暴力団員と結婚したが先立たれていた。1972年、ふたりは結婚した(安政は既婚者だったが、当時の妻と離婚して信子と結婚した)。
1970年頃より、ふたりは夕張で炭鉱夫を斡旋する手配師を営むようになり「日高興業」を興した。ところがふたりとも別の男女と浮気して、夕張から駆け落ちしたため会社は一度倒産。だがふたりとも浮気相手と破局したため、結局復縁した上で再起業し「鹿島興業」を営んだ。
その一方で安政は暴力団「初代誠友会日高組」組長を名乗り、金融業や水商売でも金を稼ぐようになった。だが1978年に覚醒剤や銃刀法などの罪で安政は逮捕され、懲役2年6か月の判決が下された。
残った信子は一人で手配師を営むが、会社は一旦倒産。だが再び「日高興業」を興すと、女手一人で会社を仕切った。
事件前夜
そのような中で1981年10月に「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」が発生し、93人の死者が出る大惨事となった。このとき日高興業(安政はまだ服役中)は事故現場に作業員を送り込んでおり、7名が事故に巻き込まれて死亡した。その為大量の保険金が発生し、遺族に支払ってもなお1億円前後の大金が手元に残った。
安政が出所すると、新たな自宅兼事務所を建てて社名も「日高商事」と改める。思いがけない大金が手に入った事で日高夫妻は興奮し、豪遊・浪費を繰り返した結果、たったの2年ほどで保険金を使い切ってしまう。それでも豪遊生活が忘れられなかったのか借金を重ねる有様であった。
一方で夕張の炭鉱業は先述の事故で衰退へと向かっていたため、ふたりは新たに札幌でデートクラブを開業しようと考え、その資本金を手に入れるために保険金殺人を計画し始める。
事件発生
1984年5月5日、大夕張にあった日高商事の社員寮から火が出て、建物は全焼した。作業員4人と子供2人がこれに巻き込まれて死亡し、消防士も1人が殉職。唯一、2階から飛び降りた新人作業員・石川清だけが両足骨折するも生き残った。
警察と消防署の調査の結果、当日は新人の歓迎会が行われていて、それに使った焼き肉プレートか、あるいは石油ストーブの不始末かで火災が発生したもので、事件性はないと考えられた。この結果、火災保険と死亡保険を合わせて、日高商事に約1億4千万円の保険金が支払われた。なお日高夫妻は全く学習しておらず、わずか1ヶ月程度で金を使い切ったという。
それから2か月経った7月。骨折で入院していた石川が突如身をくらます。そして翌8月、自分が放火の実行犯である事、放火は日高夫妻の保険金目的での指示である事を電話で夕張署に自首した。当時石川が潜んでいた青森で任意同行されると経緯を自白した。
石川の正体は安政率いる暴力団日高組の組員で、新人作業員を装って宿舎に入っていた。そして自ら歓迎会を提案した上で作業員たちを酔いつぶれさせると建物に火を放って脱出していたのだった。ところが、本来は日高夫妻から石川に500万円の報酬が約束されていたにも拘らず、実際には75万円しか支払われなかったことで夫妻に不信感を抱き、このままでは自分もいずれ口封じのために殺されるのではないか、と考えた末に自首したと語った。また寮母の子である、保険金とは無関係な子供2人までも死亡した事も悔いていた。8月16日、石川は逮捕された。
そして石川の供述に基づき、8月19日、日高夫妻が逮捕された。
裁判へ
日高夫妻は火災保険金だけが目的で、石川に対して作業員たちが逃げられるように火を放てと命令したのであって、殺人の意志を否定した。しかし検察は酒を飲ませるなどの行為は明らかに殺害目的だと主張し、死刑を求刑した。
1987年3月、実行犯の石川は自首で事件が明らかになった事なども考慮されたのか無期懲役、日高安政・日高信子夫妻は殺人の首謀者と認定されて死刑判決を言い渡した。日高夫妻は控訴したが石川は控訴しなかった。
ところが翌1988年10月、日高夫妻は突然自ら控訴を取り下げたため、死刑が確定した。
これは当時、昭和天皇の病状が重篤に陥っていた事が背景にある。当時を知る1980年以前の生まれの方であればお分かりであろうが、半年近く病状が連日テレビで伝えられる状況であった。そして以前、天皇が崩御した際には恩赦が下されて刑が軽減された。だが裁判中の人物には恩赦は下らない。そんな非常に不謹慎な理由で刑を確定させたのであった。ところが翌1989年1月、昭和天皇が崩御した際には一切恩赦は行われなかった。ほかにも新天皇即位や皇太子結婚などにも期待したが、やはり恩赦が行われることは無かった。
なお明治天皇・大正天皇の崩御の際には確かに殺人で死刑の者も無期懲役に減刑されているのだが、強盗殺人や放火殺人の場合は恩赦の対象外とされていた。よって、日高夫妻に恩赦が行われる可能性は最初からほぼゼロだったのである。
1996年5月、日高夫妻は「死刑判決で精神的に不安定となったため、法律の知識がないのに誤って恩赦に期待した」というこじつけた理由で控訴審の実施を求めたが、言うまでもなく却下された。
その後
日高商事は経営者ふたりが逮捕されたことで倒産。その建物は廃墟と化した夕張に主のいないまま残されており、廃墟マニアにとっては恰好の対象と化している。またGoogleMapのストリートビューでも見ることが出来る。事件現場となった大夕張は夕張シューパロダムの建設で湖の底に沈んだ。
類似する事件
恩赦を期待して控訴や上告を取り下げたのは日高夫妻だけではなかった。死刑判決だけでも銀座社交クラブママ殺害事件の平田光成(共犯の野口悟は恩赦に期待せず上告したが死刑判決確定)、昭和石油元重役殺害事件の今井義人が上告を取り下げている。
また、控訴や上告を取り下げてはいないが、名古屋女子大生誘拐殺人事件の木村修治、名古屋保険金殺人事件の長谷川敏彦が恩赦を出願していた。
関連項目
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