富岡製糸場と絹産業遺産群とは、日本の世界遺産(文化遺産)である。2014年6月登録。
群馬県富岡市にある富岡製糸場を中心とした養蚕関連の文化財4件で構成される。
概要
明治政府による近代西欧技術の導入は、高品質な生糸の大量生産を実現するばかりでなく、日本国内での養蚕・製糸技術の発展につながった。この技術が世界各地に普及したことにより、世界の絹産業の発展や絹の大衆化に貢献した。
富岡製糸場は、器械製糸から自動繰糸器へと続いた製糸技術の発展を現代に伝えている。
このことが世界に評価され、2014年に世界遺産として登録された。
本件は富岡製糸場をはじめとする軽工業の近代化遺産群で構成されているのに対して、主に日本の重工業の発展を支えた近代化遺産群は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として2015年に登録されている。
登録までの経緯
富岡製糸場の歴史
明治政府が推進した「殖産興業」により、1872年(明治5年)に設立される。
当時の日本の最大の輸出品は生糸であったが、粗悪品が多く出回っていたため世界的に評判が悪くなっていた。政府は生糸の品質改善や生産向上、さらには技術者育成を目的として、洋式の器械を備えた工場を設立することとなる。
工場を設置する場所については養蚕の盛んな関東甲信地方の中から選ぶこととなり、「燃料となる石炭の産地(高崎市・金井炭鉱)が近いこと」や「外国人の指導に理解のある地域」などの理由から富岡が選ばれた。
富岡製糸場で作られた高品質の生糸は海外で好評を博した。設立の目的を果たしたのち、1893年(明治26年)に三井家に払い下げられ、1902年(明治35年)には原合名会社へ譲渡される。1936年(昭和11年)に過去最高の生産量を記録するも、第一次世界大戦や世界恐慌に見舞われるなど情勢が不安定となっていく。
1938年(昭和13年)に原合名会社より独立すると、翌年には片倉製紙紡績株式会社(現・片倉工業)に合併される。まもなく太平洋戦争が勃発すると、政府の事業統制を受けて軍需品(落下傘など)の生産に携わった。富岡製糸場は終戦に至るまで工場の廃止や用途転換が行われることはなく、また空襲による被害も皆無であった。
戦後は自動繰糸器の導入や工場の電化によって1974年(昭和49年)には史上最高の生産量を記録している。しかし、国内需要の減少や中国産の廉価な生糸が輸入されるなどで次第に生産量が減少し、1987年(昭和62年)をもって100年あまりに渡る操業の歴史に幕を下ろした。
世界遺産登録へ
片倉工業は閉業後の富岡製糸場について、「売らない、貸さない、壊さない」という方針を掲げて修復・保存してきた。敷地内の建築物は操業当時の工法で修復・復原されている。
2003年(平成15年)、当時の群馬県知事が「富岡製糸場の世界遺産登録を目指す」と公表し、これに富岡市と片倉工業が合意。2年後の2005年(平成17年)に富岡製糸場が富岡市へ寄贈された。
2007年(平成19年)に日本の世界遺産暫定リストに記載されると、2013年(平成25年)に世界遺産センターへ推薦、受理される。同年、国際記念物遺跡会議(ICOMOS)による視察で「登録」勧告が出され、翌年の世界遺産員会で正式に登録が決議された。
日本の産業遺産としては「石見銀山遺跡とその文化的景観」以来2例目、近代化遺産としては初めての世界遺産登録となった。
構成遺産の一覧・関連動画
全て群馬県に存在する。
名称 | 画像 | 所在地 | 概要 | 国指定文化財 |
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富岡製糸場 (とみおかせいしじょう) |
sm21972475 |
富岡市 | 1875年に設立された、官営の器械製糸工場。設立当時は世界最大級の規模を誇っており、第二次大戦の戦火を免れた建造物群は良好な状態で保存されている。 |
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田島弥平旧宅 (たじまやへいきゅうたく) |
画像募集中 | 伊勢崎市 | 1863年に田島弥平が建てた住居兼蚕室。養蚕で通風を重視していた田島は、屋根の上に換気用の越屋根を設ける構造を全国に広めた。 | |
高山社跡 (たかやましゃあと) |
画像募集中 | 藤岡市 | 1884年に高山長五郎が設立した養蚕の研究・教育機関。高山は通風と温度管理による養蚕技術を確立し、国内外へと広めていった。 |
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荒船風穴 (あらふねふうけつ) |
画像募集中 | 下仁田町 | 明治時代後期から大正時代にかけて造られた蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設。この施設により、当時年1回であった養蚕が複数回行えるようになった。 |
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関連項目
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