斯波家長(?~1337)とは、南北朝時代の武将である。
なお、生年は『武衛系図』に享年17歳とあるため、結構な頻度で元応2年(1321年)とされるが、同時代史料からは全くわからない。
概要
斯波高経の長男…と一般的に言われている存在。若くして足利尊氏らが退いた後の関東一円を統括し、ある程度は形にしたが、北畠顕家の襲来でその命を散らせた…と一般的には言われているが、よくわからない。
斯波氏の祖とは、足利泰氏の長男・足利家氏である。この母親は北条氏の本来の嫡流だった北条朝時(名越朝時)の娘だったが、足利氏は執権北条氏の北条時氏の娘との子・足利頼氏が継いだ。とはいえ、足利家氏は中務権大輔・検非違使・尾張守を歴任し、尾張足利氏ともいうべき家を盛り立てていったのである。
かくして後の吉良氏、渋川氏とともに、足利氏の兄の家として、幼少の足利家時を補佐し、足利家氏は足利一門の代表格となった。
この息子が、石橋氏の祖である庶長子・足利義利(石橋義利)、足利貞数、足利宗家らで、三男の宗家が、おそらく母の出自のために、嫡子となった。この宗家からさらに(以後煩雑のため実態と異なり斯波表記にする)斯波家貞、斯波宗氏、斯波義真らが生まれたとされるが、小川信の研究によると、斯波家貞と斯波宗氏は同一人物であるとされ、実際に斯波宗氏の動向くらいしか確認されない。
そしてその斯波宗氏も早世し、元享3年(1323年)の北条貞時十三回忌には、斯波高経が出席している。なお、斯波高経の弟が、大崎氏や最上氏の祖である斯波家兼である。
この十三回忌には足利貞氏、吉良貞義、斯波高経の3人が足利氏から出席しており、嘉元3年(1305年)生まれという若輩ながらも、家格の高さから地位も高い存在だった。
その長男とされるのが、初代鎌倉府執事の斯波家長である。なお、生年のソースはよくわからず、「相馬岡田文書」の『相馬胤家代恵心申状案』から仮名が弥三郎ということしか分からない(『尊卑分脈』だと仮名は孫二郎だが、『武衛系図』等にある三郎の方が正しいようだ)。木下聡はどんなに年齢を高く見積もっても20歳前後の存在を家格だけで重要な地位に付けるか、という問題を見ており、斯波家長は斯波高経らと異なりこの当時から庶子家同様に斯波氏呼称されていること、名前の上側に家があることから、斯波高経の兄弟で養子・猶子だった可能性を想定している(あくまでも想定)。
まあ、この問題はともかく、斯波家長は斯波家兼らと同様に、当初は陸奥で陸奥将軍府のメンバーと交戦していた。しかし、足利尊氏上洛後に陸奥を発した北畠顕家を追撃し、ここで足利義詮と合流。初代鎌倉執事となった。
さらに、この斯波家長は北条泰家の蜂起などにあたり、関東の北朝の主力となっていたが、建武4年(1337年)12月25日の北畠顕家の2度目の上洛で敗死してしまった。
彼の息子が高水寺斯波氏の祖とされる斯波詮経であり、『常楽記』に死んだ斯波三郎がおそらく彼であるらしい。なお、系図には斯波詮経の子・斯波詮将が続くのだが、そちらは斯波家長の弟・斯波氏経の息子である斯波義高と混同されている可能性が高い。
関連項目
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