概要
ディズニー映画「バンビ」を見て衝撃を受け、アニメ業界入りを決意。しかし、どうすれば業界に行けるのか分からず、中学3年生の時に取り敢えず漫画家うしおそうじに弟子入り。
1958年になって親類に東映動画(現・東映アニメーション)の求人を紹介され、弱冠17歳で入社。長編アニメーション「白蛇伝」では大塚康生の下でアニメーターとして参加。だが、同時に大塚の仕事ぶりを見て『まぎれもない一つの挫折(本人談)』を感じる。
当時社内で流行っていた労働組合運動にも嫌気が差し、1961年に東映を退社。すると手塚治虫がアニメーションスタジオを作るという話を聞き虫プロダクションに参加。1963年から放送された日本初の本格TVアニメ「鉄腕アトム」に演出の中心スタッフとして関わる。この時、同じく中軸として活躍したスタッフには富野由悠季やりんたろうが居る。
その後、1967年に出崎統、奥田誠治、吉川惣司らとアートフレッシュ、1969年にはグループ・タックと複数のアニメスタジオを設立し、手塚治虫原作作品を中心に監督業を開始。
1974年には「まんが日本昔ばなし」の製作立ち上げに関わるが、これを最後に突如放浪の絵売りに転身。本人曰く「成り行き任せの業界が嫌になった」とのこと。ただ、この間にも家族の生活費のために東京と連絡を取りつつ少しだけ演出業をしている。
1983年にあだち充原作の「ナイン」で本格復帰。放浪中にあだち充の漫画を読んでいたのが切っ掛けだという。
続いて1985年から監督した同じくあだち充原作の「タッチ」は記録的大ヒット作品となる。
また、「ルパン三世」のアニメ化の立案者であり、1969年の『パイロットフィルム』では作画を担当。しかし、1971年から始まったテレビ1stシーズン(所謂緑ジャケ)には参加せず、その後のシリーズにも関わらなかったが、四半世紀を経た1996年にTVスペシャル『トワイライト☆ジェミニの秘密』で監督を務めた。
主な監督作品
関連動画
関連項目
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