ソ連崩壊 単語

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ソレンホウカイ

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ソ連崩壊とは、1991年ソビエト連邦が崩壊した歴史的出来事である。

概要

1985年3月書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、矛盾を深めるソ連を立て直すべくペレストロイカ(まさに『立て直し』の意味)と呼ばれる社会改革を断行した。INF(中距離核戦力)全条約を進めるなど軍縮を志向し、アジアでもウラジヴォストク宣言で中国和解アフガニスタンからの撤兵も決定する。思想の自由化や情報開も促進され(グラスノスチ)、スターリンの元で抑圧されていた人々の名誉回復も行われた。しかしこれらの改革でもチェルノブイリ原発事故の後始末のもあり、国家財政は逼迫していた。社会主義体制の合理化ではいかんともしがたく、ソ連では長年タブーとされてきた市場経済への移行が議論されるようになった。これが原因で政治も分裂し、モスクワ第一書記エリツィンペレストロイカの遅さを批判すると保守共産党第二書記のリガチョフがこれに反撃し、事態は紛糾した。

1988年に第十九回党協議会共産党国家との分離、共産党民主化、議会改革、法治国家建設など抜本的政治改革が課題となった。この会議で人民代議員大会と、最高会議という二段構えの議会を作ることが決定される。その後行われた選挙では共産党人気は低下し、急進的改革が勢いを得た。なかでもエリツィンモスクワで9割の票を得て当選しその力を知らしめた。第一回人民代議員大会でゴルバチョフは最高会議議長に選出されたが、エリツィンは地域間代議員集団という、共産党に対する野党となった。

中央政府の上からの改革に飽き足らなかったソビエト加盟の人民は続々と改革をめるがあげた。ロシアバルト三国などの共和が台頭し、連邦制危機が生じ始める。90年には共産党は一党支配体制を放棄し大統領制度に改められた。ゴルバチョフは初代(そして最後の)大統領になったが、その権威の凋落は明らかであった。ガスプロムなど企業の民営化も進み、政治権力と経済権力を削ぎ落とされた共産党の権限はますます弱まり、党内で分裂が発生。議席はないもののミニ政党が乱立し、ソ連議会の意義は低下し続けた。

3月ソ連加盟の一つリトアニア独立宣言し、ロシア共和でもエリツィン最高会議議長が、独立ではないが権宣言をするに至る。これらに倣って多くのソ連下の共和、自治共和権宣言を行い独立傾向を高めた。ソ連崩壊が現実的になったことで共産党も本格的にこれに対抗し、リトアニアに武力介入を行った。ゴルバチョフ中道を自認したがソ連を維持したい保守の台頭が続き、急進エリツィンと対立を深めた。ゴルバチョフは共和に譲歩した国家連邦を作る案を出したが、保守政治家・知識人達は非常事態の入を呼びかけた。

1991年にソ連崩壊のきっかけとなる八月クーデタが発生。クリミア休暇をとっていたゴルバチョフに対して副大統領のヤナーエフら保守が非常事態を敷くか、権限を一時的に副大統領に与えるよう要した。戦車まで出動する騒動となったこのクーデタはモスクワ市民際世論の支援が得られず砕けに終わる。しかしそのは絶大だった。ゴルバチョフソ連共産党の活動停止を示し、国家党としての歴史を終わらせた。代わりに民主ロシアなど共和勢力が政治力を高め、導権はゴルバチョフからエリツィンら共和に移った。

しかし共和内部にもロシア独立させるかソビエトを存続させるかの間で閥争いがあった。エリツィンロシア独立に傾き、ウクライナ独立したらロシアも脱ソの選択をしようと考えていた。その後ウクライナ投票で9割が独立を支持し、スラブ系三共和会談(ベロベジ会議)でソ連の崩壊は決定的となった。これに中央アジアの5つの共和も巻き込まれ、1991年12月25日ゴルバチョフ大統領辞任が表明され、ソビエト連邦は69年にわたる歴史ピリオドを打った。

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