ラコニア号事件 単語

ラコニアゴウジケン

3.8千文字の記事

ラコニア号事件とは、第二次世界大戦中の1942年9月16日に発生した事件である。アメリカ軍国際法違反であったが、当事者たちは全く裁かれなかった。

概要

発生までの経緯

ドイツ海軍が放ったUボートは、大西洋に浮かぶアゾレスを新たな狩り場としていた。ここはイギリス軍の牙ジブラルタル圏外であり、Uボート々と敵商を沈め続けていた。

1942年9月12日22時ハルテンシュタイ少佐率いるU-156は西アフリカ沿を航行していたラコニアを発見。同はケープタウンからフリータウンに向かっている途中で、463名の乗組員及びイギリス軍人268名とその家族休暇で乗していた。加えて1793名のイタリア人捕虜が収容されており、警備兵のポーランド103名も便乗。ラコニアは軍人を乗せていたうえ武装も施されていたので、U-156警告で雷撃。被雷したラコニア22時22分に潜水艦から攻撃を受けた事を意味する「SSS」を連打したが、どの連合軍艦にも届かなかった。

沈没の際、イタリア人捕虜は倉に閉じ込められたままで、舷窓を破ってどうにか脱出。しかし少ない救命ボートを巡ってイギリス人とイタリア人捕虜との間で諍いが起き、数名の捕虜がポーランド兵に刺殺されている。U-156が浮上してみると、そこには面を漂う2000名以上の生存者がいた。またイタリア人が流した血によってサメが集まり、何人かが喰われている。たまらずU-156側は赤十字を掲げ、救助活動を開始。ボートからイタリア語が聞こえたため、同盟イタリア人を優先して救助した。やがて片っ端から漂流者を引き上げる事になり、イタリア人以外にも100名のイギリス人が助けられた。23時23分、ラコニア沈没していった。

翌13日午前1時25分、U-156カール・デーニッツ提督電報を打っている。この事を知ったデーニッツ提督はU-506、U-507、U-459に救助を命じて応援に向かわせた。同時にヴィシーフランスイタリアにも連絡を取り、イタリア海軍潜水艦コマンダンテ・カッペリーニが現場へと急行した。U-156の艦内にはぎっしりと生存者が詰め込まれ、その中には婦女子子供の姿もあった。それでも入りきらなかった者は救命ボートに乗せた上で航。報告を受けたヴィシーフランスの艦艇がダカールより出発、U-156は合流ポイントへと向かった。この時、ハルテンシュタイ少佐は「ラコニア員と乗客を救助しに来る船舶に対しては、危を加えない限り攻撃しない」という電報英語で、かつ文で1時間おきに打って連合軍の船舶に呼びかけた。しかしどの船舶も現れる事はかった。フリータウンイギリス軍はこの電報を傍受していたが、何かのと勘繰って無視した。

9月15日午前11時30分、急されたU-506が合流。数時間後にコマンダンテ・カッペリーニとU-507が到着し、生存者の引き渡しが行われた。潜水艦4隻はアフリカ海岸に向かって航行し、ヴィシーフランスの艦艇群と合流を果たした。この日の、救助活動のため4隻は別行動し、U-156は再び単独になった。

B-24の襲撃

ここで招かれざる襲撃者が現れた。9月16日午前11時25分、たまたま域をしていたアメリカ陸軍B-24が、U-156へ機掃射を仕掛けてきたのである。運がかった者は撃ち抜かれ、物言わぬ塊となってしまった。ハルテンシュタイ少佐は艦を守るため、艦内の生存者を救命ボートへと移乗させた。そして即席で作った赤十字旗を6名の兵で掲げつつ、モールス信号英語の通信でB-24に援助をめた。これを見たB-24の機長ジェームズ・D・ハーデン中尉は一度域を去り、基地の上級将校に示を請うた。すると返ってきたのは「潜水艦を撃沈せよ」という非情な命だった。

再びB-24が戻ってきて、徐々に高度を下げながらU-156を威圧。このままではまた攻撃されかねない。そこで、救助されていたイギリス軍の士官が「連合軍の暗号を使ってB-24に呼びかけよう」と提案。ハルテンシュタイ少佐はすぐに決断し、士官に線機を貸し与えた。まもなく連合軍の暗号で「U-156にはイギリス軍人、子供女性民間人が乗っている」「近くに連合軍の船舶はいるか?」と打電した。

しかし、これに対する回答は爆弾2発の投下であった。午後12時32分の事である。幸いU-156や救命ボートには命中しなかったが、こうなっては人命救助どころではない。ハルテンシュタイ少佐は潜航のため救命ボートを繋ぐ綱の切断を命じた。そこへ二度の投弾があり、救命ボートに直撃。乗っていたイタリア人とイギリス人が犠牲となってしまう。投弾は続き、今度はU-156付近に着弾。全に沈める気である。生き残っていたイギリス人及びイタリア人に救命具を付けさせ、断腸の思い上へ置き去りにしていった。去り際、ハルテンシュタイ少佐は「ヴィシーフランスの艦艇が救助に来るから、現場に留まれ」と示したが、2隻の救命ボートはそれを無視してアフリカ海岸した。これが地獄への入り口だった。1隻は27日後にアフリカ海岸へ到着したが、68名いた生存者は16名にまで減していた。もう1隻は40日間の漂流のすえ、イギリスの漁に救助された。こちらも52名中4名しか生き残れなかった。

一方、攻撃に気づかなかったU-506、U-507、コマンダンテ・カッペリーニは救助活動を続けていた。U-506は9名の女性子供を含む151名を救助、U-507は女性15名と子供16名を含む491名を救い上げた。9月17日、「ヴィシーフランスの艦艇が到着するまで対対潜警を厳にせよ」とのが届いたが、同時にU-156が攻撃された報復として「イギリス人とポーランド人を全員漂流させよ」というトンデモない命も添えられていた。だがこれは艦長の独断によって実行されなかった。午後、B-25がラコニアの救命ボートを発見し、位置を通報。すっ飛んできたB-24がU-506を発見し、攻撃を仕掛けてきた。もちろんU-506には151名の救助者が乗っていた。投弾は二回行われたが、いずれも命中しなかった。その頃、ダカールから3隻のヴィシーフランスの艦が出港。これを枢軸軍の反攻の予兆と考えたイギリス軍は潜水艦狩りを中止させ、迎撃の準備に取り掛かった。こうしてUボート連合軍の攻撃から解放された。

9月17日14時、U-506とU-507のもとへヴィシーフランス艦艇が合流。生存者は全て移乗し、ダカールを経てカサブランカへと移送された。コマンダンテ・カッペリーニは合流に失敗したため、別の合流ポイント定されて移動。9月20日ヴィシーフランスの小艦デュモン・デュルビルと会合し、生存者を引き渡した。ラコニアの乗員2732名中、生存者は1113名だった。亡くなった1619名のうち1420名がイタリア人捕虜だったという。

U-156事生還し、ハルテンシュタイ少佐騎士十字勲章を授与された。しかし約半年後に因縁のアメリカ軍機に爆撃され、念の戦死を遂げている。またB-24乗員もU-156撃沈(実際は救命ボート2隻)の功績でメダルが授与されている。

その後

的救助をしていたUボートに対して攻撃を加えた連合軍の所業は鬼畜の一語に尽きた。当然デーニッツ提督激怒し、9月16日深夜に「撃沈した船舶の乗員を救助したり、食糧やを供給するのは禁止する」というラコニアを全Uボートに発した(事件を知ったヒトラー総統が怒ったため、デーニッツ提督が命を発せざるを得なかったとも)。当時は大西洋の片隅で起きた小さな事件だったため、認知度は低かった。攻撃を加えたB-24の乗員もお咎めしであった。

世間一般にも知られるようになったのは、戦後ニュルンベルク裁判の事だった。ラコニア生存者の積極的殺を推進したとして、検事がデーニッツ元提督を追及した。弁護人のクランツビューラーB-24の違法性をして無罪を訴えたが、もともと不満載の裁判なのでデーニッツ元提督眼視された。が、クランツビューラーアメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督に「対日戦において、作戦に支障が出たり自軍の艦が危険に曝されそうな時は警告で撃沈し、救助活動をしなかった」という(責任を追及したい連合軍にとって)致命的な言をさせてしまった。つまりドイツアメリカも同じ事をしていた訳である。ドイツを追及すればするほど自の品位が傷つくので、アメリカ代表はデーニッツ元提督の減刑に応じたという。またラコニア=故意の殺ともならなかった。この事がきっかけで事件の全容が開され、アメリカ民に困惑が広がったという。

2010年合作でラコニア号事件を扱った映画「ラコニア号 知られざる戦火の奇跡」、「Uボート156 たちの決断」が開された。スマホゲーム戦艦少女R」ではU-156キャラクターとして実装されており、説明文でラコニア号事件の事が触れられている。艦擬人化ゲームの中では一の例である。

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