チェスター・ニミッツ 単語

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チェスターニミッツ

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チェスター・ニミッツ(Chester William Nimitz、1885年2月24日 - 1966年2月20日享年80歳)とは、アメリカ海軍の軍人である。最終階級は元帥
太平洋戦争アメリカ太平洋艦隊長官として日本軍と戦った。
自称東郷平八郎子。

歴史

1885年、テキサス州フレデリックバーグでドイツ移民の子として産まれた。
少年時代の頃、祖が経営する民宿の手伝いしていた。その庭で、祖からユーモアに話す方法や、人を見る、動かし方を学んだ。これらの経験は彼にとって大きな財産になった。
15歳になった時ホテルに泊まった若い少尉との出会いをきっかけに軍人を志すようになったが、陸軍士官学校への推薦く、代わりにアナポリス海軍学校が余っていたのでこれを受け1901年1月入学。1905年1月アナポリス卒業。成績は114人中7位という優秀な成績であった。(ちなみに学生時代はビールをひそかに持ち込んで同級生と飲むということもやってのけてる)

東郷平八郎との出会い

東郷平八郎とは1905年(明治38年)5月東京で対面している。当時少尉補生として戦艦オハイオに乗艦していた彼は日本海戦の戦勝祝賀会に招待された。東郷の胴上げに参加したのち東郷を自分達のテーブルに招いて10分程会話した(何を話したか覚えてないらしいと自伝に記載されている)。気さくで流暢にイギリス英語を喋る東郷に感銘を受けている。東郷は3年後に後の心であるハルゼー、スプルーアンスの両名と出会っている。

卒業後~第一次世界大戦~真珠湾攻撃まで

1906年9月から巡洋艦ボルチモアの乗艦から駆逐艦潜水艦に乗艦して経験を積んだ。
特に多く乗艦したのが潜水艦であり、第三潜戦隊にまで就任している。
この経験から1912年1月海軍大学校で『潜水艦の攻撃と防衛作戦』の題の講演を行った。
1913年4月には妻キャサリン結婚子供らによれば喧嘩するのを見たことがい程の仲まじい夫婦だったと言われている。二人の間には1男3女に恵まれている。
結婚後の翌5月には潜水艦ディーゼルエンジン研究の為にドイツベルギー派遣され帰後はニューヨーク海軍所属となった。そこで得た造の経験があのミッドウェー海戦におけるヨークタウンの修復に役立っている。
第一次世界大戦勃発後の1916年に少佐に昇進。翌17年には大西洋艦隊潜水艦サミュエル・S・ロビンソン少将の参謀に昇進、さらに翌年参謀長に昇進している。18年には欧州潜水艦視察の為欧州派遣されている。終結後も順調に出世していった。
彼自身上層部からも高く評価されており、フランクリン・D・ルーズベルトは彼の観察眼を、ウィリアム・リーヒ大将海軍トップ補の一人に彼の名を挙げている。真珠湾攻撃責任を取らされることになるハズバンドキンメル太平洋艦隊就任にはニミッツも就任を打診されていたが、「若輩だから」という理由で辞退している。

1918年 中佐昇進、海軍作戦部の潜水艦設計委員会員
1919 戦艦「サウスカライナ」の副長。
1920年 真珠湾の潜水艦基地建設主任
1922年 海軍大学入学
卒業 合衆艦隊戦闘艦隊の先任参謀。合衆艦隊先任参謀。
1926年 カリフォルニア大学バークレー校で海軍予備士官訓練隊創設に従事、教官を務める。
1927年 大佐昇進
1929年 第20潜水艦戦隊
1933年 アジア艦隊旗艦の重巡洋艦オーガスタ」艦長
1934年 2度日本訪問 東郷平八郎国葬に参列
1935年 海軍省航局次長
1938年 少将に昇進。合衆艦隊第二巡洋艦戦隊官。合衆艦隊戦艦戦隊官を歴任
1939年 海軍省航局長就任

太平洋戦争

1941年12月8日ワシントンの自宅のラジオ真珠湾攻撃を知る。政府からキンメル大将の後任に太平洋艦隊長官になるよう言われ、彼は臨時長官のウィリアムバイ中将を後任に勧めたが却下されている。その年の大晦日潜水艦グレイリング」上で太平洋艦隊長官就任式を行った。同時に少将から大将に昇進した。マッカーサー率いる南西太平洋方面以外の揮権持つことになった。

就任後は「真珠湾の悪夢の身にも起こり得た事だ」と論して必要以上の処罰を避けキンメルパイの幕僚をほぼ丸々引き継いだ。汚名返上チャンスを手に入れた将兵は奮い立った。

日本軍の軍部は彼が就任した際に、海軍軍人であった高松宮宣仁王は「米国潜水艦屋をもってきた、潜水艦戦に当分は出るのであろう」と記している。しかし皮にも日本アメリカとの潜水艦戦で大敗し、ニミッツは古今東西戦争史において、要な兵器がそのの潜在威力を把握理解されずに使用されたという希有の例をめるとすれば、それはまさに第二次大戦における日本潜水艦の場合であろう」と言い残している。

富岡定俊は「彼こそは寐(むび)にも忘れぬ敵将であった」と記している。

真珠湾攻撃を逃れたハルゼー率いる第16任務部隊太平洋々への奇襲任務にあたらせた。
暗号解読にも力を入れ万全の態勢で迎撃しポートモレスビーへの攻撃を阻んだ(珊瑚海海戦)。

ミッドウェー海戦では病気で入院する事となったハルゼーの意見を取り入れ重巡出身で名の一少将であるスプルーアンスを第16任務部隊に就任させた。日本海軍の大艦隊の標がミッドウェーであることを暗号解読で知ると、ミッドウェーに可な限りの戦力を集め、珊瑚海海戦で損傷した空母ヨークタウン」の修理3かから3日に済ませて出港しながら修理し、空母サラトガ」の艦載機を一部交代させるという剛腕で復帰させた。
ミッドウェーを巡る攻防では出来る限り行った準備と指揮官の好揮と奇跡も重なり日本軍空母全滅という大戦果を得た。彼はこの戦いを「奇襲を試みようとして、日本軍自身が奇襲を受けた」と総括している。

アクの強い上官で「ニトログリセリン」の異名を持つキング提督や、先輩の”ブル(猛)”・ハルゼーや、”テリブル)”・ターナー、”ホーリング・マッド(える狂犬)”・スミスと言った部下に挟まれながらも上手くコントロールしていった。
な人柄のせいかマスコミ受けが悪く、マッカーサーアイゼンハワーの陰に隠れがちであった。

ミッドウェー海戦以降、陸方面担当でフィリピンでの辱をらす事に燃えるマッカーサーとは何度も対日戦の方針で対立していた(マッカーサーは彼を「ニーミッツ」と言ったり、ニミッツはワザと執務室にマッカーサー写真を貼る程)、ルーズベルト大統領から2方面同時に展開する案を示しこれに同意した。しかし陸海軍が互いに援軍を断ったり、両軍が合流したレイテ沖海戦ではニミッツ揮下ハルゼー大将率いる第3艦隊とマッカーサー揮下キンケイド中将率いる第7艦隊の連携が取れないことが問題になっている。

1944年12月には3人海軍元帥に昇進。皇居への攻撃は絶対に行わない事を部下に厳命している。他にも沖縄戦後の治世に深く関わる「ニミッツ布告」を布している。

45年8月原爆投下について「正から外れており妥当な戦法でない」と評価する一方で「ソ連仲介による無条件の緩和」という日本の都合の良い考えに苛立ってもいた。
8月15日揮下の全部隊に、(日本人に)れしくする事、虐待する事、毒舌を吐く事を禁じる通達を出した。15日後の30日には横須賀港に入港、後の横須賀海軍施設として接収される横須賀鎮守府を視察している(視察途中にガス欠で立ち往生したというエピソードがある)。

1945年9月2日戦艦ミズーリで行われた降調印式に出席しアメリカ合衆国代表として署名を行った。
これはマッカーサーに手柄を独占されまいとする海軍省の意向との事。

終戦後は太平洋艦隊官の任期が満了した後は海軍作戦部長ポスト希望した、不仲の海軍長官ジェームズフォレスタルから反対されながらも海軍作戦部長ポストに収まった。仮想敵であった日本海軍は壊滅し、整備と維持に多額の予算が必要である海軍への当たりは厳しかったがニミッツは淡々と仕事をこなした。1947年12月、任期終了とともに引退

ちなみに昨年46年には「大衆の海軍航空兵力への関心を維持しておく事」を的としたアクロバットチームブルーエンジェルス」の組織を示している。

引退後

1948年-56年の間には海軍予備士官訓練隊の教官を務めた事もあるカリフォルニア大学の理事に就任。
40年代後半に起きた「提督たちの反乱」事件では事態の収拾を政府から打診されるが断っている。
カシミール紛争の調停で国連使節任命されかかったが実現しなかった。
1960年には回顧録『ニミッツの太平洋戦史(The Great Sea War)』をE.B.ポッターと共同で執筆。この本の印税はポッターの快諾を得て、アメリカ海軍の名で東郷神社再建奉賛会に寄贈された。
1965年卒中、それに加え炎も発症した。闘病生活の後、1966年2月20日に自宅で妻に看取られ死去、80歳であった。
遺体ゴールデンゲート国立墓地元帥の五つと他の埋葬者と同一規格の墓石の下に埋葬された。隣にはかつての部下”テリブル”・ターナー埋葬されており、数年後ニミッツの隣にはスプルーアンスも埋葬されることになる。
逝去後彼の名は以下の形で引き継がれている。

戦艦三笠とニミッツ

ニミッツと東郷と語った戦艦三笠終戦後心ない兵によって艦内のぼしい記念品は持ち去られ艦マスト、、煙突は撤去された後、民間に払い下げられダンスホールと化し、朝鮮戦争勃発時には艦内の、鍮等、ぼしいものはんど売却されるという散々なに遭っていた。

この事を知ったニミッツは激怒し、1958年文芸春秋に「三笠と私」という題の一文を寄せ、原稿料の全額を私の名で寄付させてほしいと訴えた。これがキッカケで「三笠」保存の機運上昇に繋がり、保存費用として個人的に当時の金額で二万円を寄付した他、アメリカ海軍揚陸艦艦一隻のスクラップ材代約三千万円を充てさせた。

1961年昭和36年5月27日事「三笠」の復元完成開艦式が行われた際アメリカ海軍代表のトーリ少将は、「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、子であるニミッツ」と書かれたニミッツの肖像写真を持参し、三笠公園の一をニミッツの名前で植している。

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