庄司己吉(みきち[1])とは、明治期の北海道の警察官である。
職務中にヒグマと遭遇、槍や剣などを用いて[2]立ち向かうが重傷を負い、その傷のために死亡したという。北海道の警察で最初の殉職者とされる。
「北海道開拓使」内の警察部門[3]の巡査。山形県飽海郡出身で士族の三男[4]として生まれ、1875年に北海道に渡って北海道開拓使の羅卒(警察官)として働き始めたという。
「明治十三年[5]四月十三日改」の『開拓使職員錄』[6]に最下級の「四等巡査」[7]として「庄司己吉」の名があり、「山形縣士族」とある。
同じ年の数か月後である「明治十三年十二月八日御届」の『開拓使各廳職員錄』[8]では「三等巡査」となっており、明治十三年四月からこの十二月までの間に昇進していたものか?
後述するように明治十三年十月に近隣を荒らしていたヒグマと戦って殉職したため、この「三等巡査」が彼の最終階級となった。[9]
現在でも、北海道警察の岩内警察署の幹部らは住民の生活と安全を守る過程で殉職した庄司巡査の法要に出席し、地域を守る決意を新たにしているという[10]。
名前については、下記引用にもあるように「巳吉」と表記する書籍などもある。だが、上記の公的な名簿『開拓使職員錄』や現存する墓碑では「己吉」と表記されているため、本記事のタイトルは「庄司己吉」とした。
彼が岩内警察署に勤務していたころ、ヒグマがその付近の人里に出没して人や家畜に危害を与えたり農作物を荒らすようになったという。当時の『函館新聞』はこのように記している。
後志国岩内郡御峰内町、平民内田善兵衛という者が当日の朝、同国余市郡余市山道にて不意に暴れ熊に出会い、無惨にも片腕を喰い切られ、その他数ヶ所に傷を負ったが、幸い生命にかかるほどでもなく、ようやく虎口を逃れたが、右につき、即日午後四時頃、岩内警察分署より、三等巡査庄司己吉氏がクマ狩りとして余市山道に赴き(略)[11]
明治十三年十月、そのヒグマの駆除のために彼は森林を巡回していた。だがそこをヒグマに襲撃され、応戦するも重傷を負わされてしまう。そして同月の二十六日に没したとされる。
以下は1933年の書籍『全国警察官殉職史』や1949年の書籍『警察消防殉職録』内での、彼に関する短い記述である。
庄司巳吉巡査は岩内警察署に在勤。岩内郡老古美村には熊が出没して人畜に危害を興へたり農作物を荒すので、時の署長は熊征伐を決心し同巡査にそれを命じた。密林中に足跡を辿つて居た時、突如大熊が飛びかかつて來たので格闘したが遂に殪された。明治十三年十月二十六日である。[12]
明治十三年十月、岩内郡老古美村に熊が出沒して被害甚しく、村民より之が驅除方の請願があつたので、署長は除害の爲め部民と共に熊狩りを行うことゝした。氏は之が擔任者を命ぜられたので、村民と共に同月二十六日密林中に熊狩りを行つた際巨熊に出逢ひ之と大格闘を爲し遂に殪れた。[13]
以上では「明治13年10月26日に熊に遭遇して格闘戦となりそのまま殺害された」ともとれる記述となっている。
だが、1968年に刊行された『北海道警察史 第1 (明治・大正編)』においては更に詳細に記載されており、「明治13年10月10日に熊狩り中にヒグマに襲われ、槍や剣で反撃するも重傷を負う。その後病院で加療を受けていたが同月20日にそのヒグマが駆除されたことを知り快哉を叫んだ後、容体が急変して同月26日に亡くなった」ことが記されている。
明治十三年十月、岩内郡前田村はひ熊の被害に悩まされていた。冬眠前の栄養補給のため貪欲に食物をあさる習性をもつひ熊は、農作物はおろか民家近くに出没して家畜を襲い、果ては人間数人をも食い殺すに至ったのである。熊害の恐怖におののく村民の要請を受けた岩内分署長警部朝田定昌は、村民と協議を重ねた結果、総出で熊退治を行なうこととした。
十一月十日、集まった村民を四組に分け、各組長に巡査一名を配して予定どおりの熊狩りが開始された。このとき庄司巡査は第一組の長として、八、九人の村民を指揮しながら大谷地の山林内に分け入ったのである。山はすでに霜枯れているとはいえ熊笹が生い茂りつるがからみ合って、進む足を困難にさせていた。苦労しながら進むこと数時間にしてようやく熊の足跡を発見したので、その方向を見定め慎重に足跡をたどっていたとき、前方の大木の根元で笹が動くと見るや二メートルを越す大熊がうなり声をあげて立ちはだかった。その距離わずかに五メートルほど、最初の打ち合わせもどこへか、村民はくもの子を散らすように逃げ出してしまった。
庄司巡査は、単身槍を構えて熊に立ち向いしばし奮闘を続けていたが、不運にも笹に足を取られて転倒した。転びながらもとっさに剣を抜いて切りつけ格闘したのであるが、その攻撃を制止することはできず、全身に重傷を負って意識を失った。この時、その場を逃がれて遠くから見ていた村民が、鳴り物を打ち鳴らし、大声をあげて近づいて来たので、熊は恐れをなして逃げ出し木立ちの中へ消え去った。村民の介抱で山を下りた庄司巡査は、直ちに病院に収容され手厚い看護と加療によって翌日ようやく意識を取り戻した。
これに憤激した村人達は、近郷近在から多数のアイヌの応援を得て、連日にわたる熊狩りを行ない、同月二十日になってようやくこの大熊を仕止めることに成功した。この知らせを受けた庄司巡査は、重体を気づかう同僚の介添えで大熊を見届け、村民に感謝の意を申し述べたあと「万歳」と絶叫してその場に転倒したのである。その後容体が急変して意識を回復することができず。二十六日ついにその職に殉じた。
庄司巡査は、山形県飽海郡の生まれ、旧大泉藩士族の出で、明治八年渡道して邏卒となり、九年二月の官等改正により三等巡査に任命され、十一年十二月札幌警察署岩内分署が設置されると同時に、同分署在勤を命ぜられて勤務していたが、質実剛健にして責任感に徹し精励恪勤の人であって、部内外の信望を集めていただけに、その殉職は多くの人から惜しまれた。
村民は、庄司巡査の功績を永く後世に伝えるため、十三年忌にあたる二十六年十一月二十六日、岩内郡岩内町高台の光照寺の境内に墓碑を建立して冥魂を慰めた。ちなみにその碑文を訳記すれば次のとおりである。
氏は、庄内藩士庄司権四郎の三男で巳吉と称し、夙に武芸をたしなみ、岩内警察署に勤めしばしば殊功を奏した。
明治十三年秋、狂熊しばしば前田村近傍に出没して人畜之が為に傷害を被り命を落した者も数人に及んだ。ここに於いて庄司巡査は十一月、大駆して大谷地に至り抜剣挺身して人夫を指揮していたが、忽然猛熊に会い格闘数時重傷を負う、後いくばくもなく彼の熊は殺獲され、氏の宿所に担ぎ込まれるや、氏は起ってこれを見、席をたたいて三度快哉を叫び遂に瞑目した。之を聞く者、氏を知ると知らざるとに拘らず悼まないものはなかった。一意民害を除こうとして職務にたおれた氏の如きは、実に死を以って奉公したものと言わねばならない。明治二十六年十一月、有志の者相謀って碑を建立し、氏の偉業の顚末を銘して永遠に之を伝え、永く冥魂を慰む。
庄司巡査の殉職は、北海道警察の最初にして開拓使時代における唯一のものであるが、開拓初期の警察官が、一般的な執行務や特異事件のほかに、野獣などから住民の生活と生命の安全を守るためにも苦労していたことを物語るものである。[14]
ただし、この『北海道警察史 第1 (明治・大正編)』の記述では『函館新聞』の記事の上記引用部分には無かった「ヒグマは庄司巡査との闘い以前に既に人間数人を食い殺していた」という描写が入っていたりと、内容が全体的にドラマチック寄りとなっていることには留意。


」の記事より孫引き。


掲示板
1 ななしのよっしん
2025/08/17(日) 01:37:05 ID: G6fuIg98KQ
>庄司己吉(みきち)とは
名前だけ読みを併記するのは見慣れない。不自然。
①姓の「しょうじ」も記載する
②<rb>を使って名前の上だけにルビを振る
③併記しない
いずれかに変更したほうがいいと思うよ。
2 ななしのよっしん
2025/10/28(火) 12:29:24 ID: 79KRQK1Izh
名の振り仮名は関連リンクにある朝日新聞の記事で「庄司己吉(みきち)」とあるからそれをそのまま書いたと思われ
3 ななしのよっしん
2025/10/28(火) 13:06:33 ID: RLzOq2Eqkj
片腕になっても生還した内田って人もなかなかだな
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/05(金) 16:00
最終更新:2025/12/05(金) 16:00
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