張献忠 単語


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張献忠(1606~1646)とは、中国・明末清初の軍閥の1人。秦良玉最後の敵にして、中国殺人鬼である。

概要

陝西省出身。長年による政治腐敗と、清が勃する社会不安の中。農民反乱が相次ぐと、その領袖の1人として頭を現すようになる。
反乱軍が次第に自成に集約される中、彼だけが独自行動を取り、北から安徽かけて暴れまくった。1643年には武を奪取して大西王と名乗る。この頃は機敏にして果敢、勇猛にして義侠ありと英雄らしい格であり、暴虐性はでていない。
1644年、明の左良玉の攻撃を受けて北を出て、四に逃れてを制圧。今の四川省を支配するような形になったが、中央では自成が北京を制圧して明を滅ぼすが、清の攻撃に負けて北京から追い出されるといったことがおき、次代の勝者が決まった趨勢となっていた。
皇帝となる野望が砕け散ったと悟った張献忠はここで闇落ち。「どうせ奪われるものなら、破壊してしまえ」とばかりに四の人々を殺戮しまくった。どれだけ殺戮したのかといえば、当時300えていた四の人口が、虐殺後には2万程度に減ってしまうという虐殺ぶりで、現在の四方言北京方言に類似しているのも、張献忠の殺戮によって四の地元民が絶滅してしまって、他地域から流入したからだと言われている。
その2年後の1646年、清軍の攻撃にあって戦死。享年41歳。その死は出土した孔明の碑に予言されていた。

張献忠殺戮伝説

18世紀に書かれた「」という書物には張献忠殺戮伝説が多く載っている(ただし、死んでから年後に書かれている上、書かれた死者数を計算してみたら当時のの人口を上回るといった具合に誇されているので、みは危険)

  • に酔っている時は大人しいが、醒めると暴になり、一日でも人が殺されて血が流れるところを見ないとになるという人物だったらしい。
  • ある時、何もすることがなかったので、側近に命じて、妻や、更には一人息子も呼び出して皆殺しにさせた。翌日、その事をケロリと忘れて妻や息子たちを呼び出してみたがもでてこない。側近が「命によって殺しました」と報告すると「どうして止めてくれなかったのか」と激怒して、側近たちを皆殺しにした。
  • 張献忠の軍隊は殺戮がノルマ。数人殺して二等兵から官職に。
  • ある時、張献忠の前に頭明晰なイケメン科挙合格者が現われた。張献忠はその人物をいたく気に入って、色々と贈り物したが「わしはあいつがひどくかわいい。一見ただけで、可くてたまらなくなる。わしはあいつと会うのが怖い。おまえたち、わしのためにあいつをさっさと片付けくれ」と部下に命じて殺してしまった。ヤンデレか。
  • 張献忠は友達付き合いが大好きで、旧友に出会うと宴を開いて飲み明かし、お土産を山ほど持たせて帰らせるのが常だったが、帰り道に部下を待ちせさせて、その友達を殺し、その首を張献忠のもとに持ち帰るのも常だった。持ち帰った首は長持ちに入れて常に運搬。中で退屈になった時に、旧友たちの首を並べて、杯をもってその首を相手に酌をして回ったり、呼びかけるといった具合にママゴト宴会を楽しんでいた。

で、実際のところはどうだったの?

張献忠が大虐殺を行ったというのは事実であるが、誇が入っているというのが、大方の見方といったところである。
中国の文魯迅は張献忠の虐殺に対して論評している。

 張献忠は殺すことによって兵を収め、その兵を用いてまた殺した。自分はもうおしまいだ。だが、こうやってみなもろともに滅亡の末路に至ろうというわけである。我々だって他人のものや公共のものなど、あまり大切にしないではないか。
 だから、張献忠の行動は一見すると奇怪ではあるが、その実きわめ凡なものである。奇怪なのは、それらの殺された人々が、どうしていつも手をつかね首を伸ばして、彼に殺されるのを待っていたかということである。清の粛王が彼を射殺してくれて、やっと清の奴隷となって救われたのは、なぜか。
 しかも、これが予言通りで、昔から定められていたのだ、と言い出したのはなぜか。

支配している民衆はともかく、部下にまで手にかけるように危険なリーダーは存在できないと考えるのが普通である。殺されるかもしれないリーダーに怯えるくらいなら、寝首をかいて敵対勢力に投降したほうがいからだ。

また、対する清軍も綺麗な軍隊とはいえない。南明との戦いでの揚州戦は、抵抗されたという理由で揚州に住んでいた人たちを皆殺しにしたという実績があるので、でも同じようなことをしなかった訳がない。自分たちの殺戮も張献忠に押しつけたと考えるのが自然である。それに加えて、悪疫の流行などで人が大量に死んだというのが屠の実体というところなのだろう。

少なくても、清は張献忠が民衆教化のために立てた碑文

人は一物として、に与えるはなく
神は明明にして
自ら思い、自ら量るべし

を、七殺碑の伝説として流布しているからである。

は万物と人を生むのに
人は一物として、に与えない。
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ

中国のネットミーム化

2021年頃になってから、張献忠が大虐殺の由来というネットミームとして中国では使用されるようになり、コロナ対策を厳しく制限した中国政府への不満からか張献忠を出して批判するようになった。
2024年頃から中国内で差別殺傷事件が頻発すると
献忠」という単語が頻繁に使われるようになり、中国政府検閲として厳しく対処しているという。

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掲示板

  • 35 ななしのよっしん

    2024/11/20(水) 06:38:54 ID: HAuS3DoXZT

    姓名に忠→忠、朱全忠張献忠忠賢、文忠
    諡号が忠→曹仁夏侯惇、蔡斉、、撒改、諸葛亮(忠武とも武とも)等
    こう見ると諡に忠付く人は軒並み忠義に厚かった人多いな

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  • 36 ななしのよっしん

    2025/03/25(火) 00:32:00 ID: Fmc78/tbSf

    ふらりと読み返したが、やっぱりこの記事直したいなあ。
    要点
    歴史学流の見解に沿わない。中国文革的史観に間接的であれを受けているだろう。
    ・『』以外の史料、特に同時代の史料、清朝側に拠らない史料群を全に無視している。
    ・『七殺碑』を清朝が流布したというのは特に根拠がない。
    ・また、『』を否定しながら、『七殺碑』の元の碑文(諭碑)の根拠がまさに『』や、他の屠を伝える史料に拠ることを無視し、その文脈を読まず、「民衆教化のために立てた碑文」と素に扱っている。
    魯迅の言は『漫記』の引用と見えるが、その記述が引用後のにどう繋がるかは何も分からないし、魯迅は絶対にそんな意で言っていない。喊の序を読もう。
    ・「抵抗されたという理由で揚州に住んでいた人たちを皆殺しにしたという実績があるので、でも同じようなことをしなかった訳がない」は流石杜撰。揚州虐殺自体も皆殺しでは(恐らく)ない。

    は史料と拠には事欠かんし、その犯と因を張献忠と見るのは歴史学の基本的な見解
    (省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)

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  • 37 ななしのよっしん

    2025/07/28(月) 22:31:44 ID: CW7uHBQ5R8

    の最近の研究
    「屠に言及するほとんどの史料、後世のにじさんじ史料やから信じるに値せんやで。だから同時代史料洗い直したら定説とは違う真実が見えてくるんや。結論としては、張献忠万殺したでファイナルアンサーや」ってなるの終わり過ぎててすき

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