星野伸之 単語

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ホシノノブユキ

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星野伸之(ほしの のぶゆき1966年1月31日-)とは、北海道出身の元プロ野球選手投手)である。

愛称は『王子』。日本ハムファイターズ西崎幸広近鉄バファローズ阿波野秀幸西武ライオンズ渡辺久信をあわせて『レンディエース』とも呼ばれた。他にその球速から『遅球王』と呼ばれることもある。

概要

高校時代は旭川工業高等学校に在籍。甲子園出場はわず、当時から体格的に非常に華奢だったため、プロ入りは理と思われていたが、最終的にその独特な投球が評価され、1983年ドラフト5位で当時の阪急ブレーブスから名を受け入団した。

阪急・オリックス時代

1984年(1年)こそ二軍シーズンを終えたが、1985年7月に一軍初出場を果たすと、以降はメキメキと頭を現す。


1987年にはパ・リーグトップとなるシーズン6完封記録。同時に、2桁勝利1997年までの11年間も記録し続け、1989年1996年には最高勝率タイトルも獲得。

球団のリーグ連覇(1995年1996年)にも貢献し、先発投手の一として、不動の地位を築き上げた。

阪神時代

1999年オフFA宣言し、阪神タイガースに移籍した。

2000年先発軸として期待され、開幕投手にも名されたが、最終成績は5勝10敗、防御率4.40、とで負け越した。

2001年も同じく開幕投手を務めたが、同年に病気(頻脈)を患い、シーズンの多くを棒に振った。

病気はその後も改善されなかったため、2002年に36歳で現役を引退した。

引退後

野球解説者評論家を経て、プロ野球マスターリーグに参加した。2006年にかつて在籍していた阪神二軍投手コーチ名され入閣。若手選手等の育成に務めた。

その手腕が評価され、2010年オリックス・バファローズの一軍投手コーチに就任するが、同年6月には自律神経失調症により入院。退院後は体調面の不安から二軍コーチを担当している。

2012年より、小林宏との入れ替えで一軍投手コーチに復帰。

2016年からは二軍育成コーチとなったが、4月中に一軍投手コーチへ配置転換される。

2017年も引き続き一軍を担当していたが6月に体調を崩し一時休養。休んでいたのは一週間ほどであったが以降は二軍を担当し、シーズン終了をもって退団した。

2018年からはテレビ放送の野球解説者スポーツ新聞での野球評論家として活動している。

人物像

華奢な身体つき

少年時代から非常に身体つきが華奢であり、プロ入り前から「(痩せ過ぎて)体格的にプロではやっていけない」と酷評されていたと言う。ちなみに阪急への入団当初は、身長180cm台に対して体重が60kg台前半~中盤しかなく、このヒョロ長い体格が故に(書籍の登場人物にちなんで)『王子様』という愛称が付けられたとも言われている。

なお、現在でこそ身長183cmに対し体重約70kgまで増えたが、それでも標準体重未満(※)である。

※標準体重(kg)=身長(m)×身長(m)×22として計算。ちなみに身長183cmの標準体重は約73.67kgとなる。

謎の高スタミナ

その身体つきからは想像もできないが、実は先発完投投手であり、スタミナ異常なほど高いことで有名である。「シーズン完投16」「通算完投129」という数値を記録しており、これは近年の完投投手である黒田博樹ニューヨーク・ヤンキース)よりも多い。また、現役時代は「キャンプ1日300500球もの投げ込みを行っていた」という逸話も残っている。

これについては体力は元より、星野自身の投球フォーム・球筋等に対する工夫によるところが大きいと考えられる。

奥さんは元ミス・ユニバース日本代表

名前は美穂(旧姓:坂口)。1988年ミスユニバース世界大会に出場し、総合第4位に入賞。翌年星野結婚する。2人と息子1人の5人家族奥さんの縁もあって(伸之の)芸能人との交流は深く、毎年正月には浜田雅功ら複数の芸能人夫妻と共に、グアム旅行に行っている。

シーズン中、星野に対し「あんな遅い球、アタシでも打てる」語したことがある。

投球スタイル

前述とおり、立先発完投投手である。投球スタイルは軟投・技巧と呼ばれる部類に属する。だがこのタイプにしてはしく、星野コントロールがあまりよくなく(※)、防御率も常に3点台以上であった。

球種は約130km/hのストレート、約120km/hのフォーク、約90km/hのスローカーブメインとして用いた。特に星野の代名詞であるスローカーブは落差がしく、打者の頭付近からヒザ下までボールが落ちる。

ストレートとの速度差は最大で50km/h近くにも達し、この緩急で多くの打者を翻弄した。その為、一部打者からは「星野ストレートは速い」「伊良部よりも速かった」「一番打ちづらいストレート」と評されていた。ちなみに決め球はスローカーブではなく、フォークボールとのこと(本人談)。

全般的に球の速度は遅かったが、前述した緩急ある球種のほかにも球の握り・腕の振りをかなり意識して投げることで、球伸びが非常に良かったと言われている。また、少ない球種に関しては、リリースポイントを極力隠しながら投球するフォームを身につけることで、相手に球種を悟られないようにしていた。更に身体へあまり力を入れず投球することでスタミナ持ちを良くする等、球種以外の様々な部分でも星野独自の技巧を凝らしていた。

小学生でもプロ野球選手を打取る事ができる可性がある。」

これは星野が自著に記した言葉であるが、この投手を最も徴するものであり、またそのスタイルを裏付ける理念であると言えるだろう。

星野(通算投球回2669 1/3)の通算与四死球は963、通算暴投は74である。同じく軟投である山本昌(同3262 2/3)の通算与四死球は970、暴投は42(2012年まで)。

有名なエピソード

中嶋「急に球が反れたので、咄嗟に…」

捕手素手で捕られるほど球が遅い」

星野の球の遅さを語る際、よく引き合いに出されるエピソードである。

ベンチに下がった後、星野中嶋に対し素手で捕るなよ」と怒りをあらわにしたという。ちなみに、公式戦の投球練習中やキャンプ中にも、素手で捕られたことがある。 

落合うそ!?三盗だぞwww 別の番組にて(1:20頃~)

「(最晩年、43歳の)足の遅い落合博満に三塁への盗塁を許すほど球が遅い」
「むしろ捕手中嶋送球の方が、星野の投球よりも速い(※)」

こちらも星野の球の遅さを語る際、よく引き合いに出されるエピソードである。

以下余談になるが、走者の落合は当時から相手を観察するのが非常に上手く、盗塁も数が少ないながら、ほぼ100%成功させていた。この三盗バッテリーだったのを突いて、行ったものである。

また星野自身も牽制やクイックモーションが非常にうまく、捕手中嶋が強肩だったこともあり、むしろ盗塁されにくい投手であったことも付け加えておく。

非公式だが、2006年スピードガンコンテスト146km/hを記録したことがある。最盛期は150km/hをえていたとも…。

成績

通算投手成績

通算:18年 登板 先発 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 427 384 129 29 176 140 2 0 .557 2669.1 927 2041 1191 1079 3.64

タイトル・表彰・その他

タイトル
最高勝率 2回 1989年1996年
MVP 1回 1989年9月
その他
オールスターゲーム出場 7回 1987年-1989年1991年1995年-1997年

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