「樗里疾」(ちょり・しつ ? ~ BC300)とは、中国戦国時代の秦の恵文王の異母弟であり、秦の人々からは、
と呼ばれて、秦武王より甘茂と共に秦国初の左右の丞相に任命されたもっと評価されるべき知将。
姓諱は「嬴疾(えいしつ)」で、渭南の陰郷の樗里に居を構えていた事と、軍事・政治両面で秦に貢献し、官民共に尊敬された人物である事から、「樗里子」との尊称で呼ばれている。
秦の宰相としては五指に入る人物ながら、同時期に張儀・蘇秦・楽毅・田単・藺相如・廉頗らがいたが為に、いまいち目立たない。
秦の孝公の子に生まれる。兄は、後に秦で初の王号を名のった恵文王「嬴駟(えいし)」で、秦を法治国家へと発展させた商鞅を、個人的な恨みから濡れ衣を着せて殺害した上に死体を車裂きしておきながらも、法治制度は維持した酷薄な人物として知られている。
そんな恵文王に仕えた樗里疾は、
といった功績をあげて秦の勢力を拡大していったが、口先三寸で国を動かす程度の能力を持つ縦横家「張儀」による国家単位での勢力争いの方が目立った為、樗里疾の名は功績と共に埋もれてしまった。
兄の恵文王が没すると、秦のボ帝ビルこと武王が即位し、武王と不仲だった張儀や魏章が放逐された為、樗里疾は、亡き恵文王に自分が推挙した甘茂と共に、
西周室をおびやかして天下に号令できるなら、死んでも悔いはない。
と言う秦武王の為に、自ら魏の国への派遣を願い出て諜報活動の後に帰国した甘茂の進言により、秦軍は甘茂を総大将として韓の宜陽を攻めた為、樗里疾は韓を出て、戦車100輌を率いて周(西周)へと入り、政務を執り行った。
甘茂が5ヶ月たっても宜陽を攻略できなかった為、樗里疾は公孫衍(犀首)と共に甘茂を非難したものの、秦武王は甘茂が出陣する前に二人の言を信じないという約束をしていた為、甘茂は更迭されず、宜陽攻略は秦の全軍を動員する規模のものとなった。
やっとのことで甘茂が宜陽を抜き、首級6万を斬る成果を挙げた為、秦武王が鼎の軽重を周王室に問おうとする直前、秦武王が趣味の鼎のリフトアップ勝負を行っていた際に脛骨を折って、即位後4年の短さで死んでしまった。
後継者が決まっていないまま突然王が亡くなった秦では、後継者争いが発生した為、一応王族なので継承権はあるものの、自分が王になると簒奪者とそしられるだろうと思った樗里疾は、亡き秦武王から預かっていた精兵を魏冄(魏ゼン)に与えて鎮圧にあたらせ、「季君の乱」と呼ばれた政変が決着するまでの時間を稼ぐように、秦の国外で意図的な小競り合いを行った。
魏冄(魏ゼン)が「季君の乱」の混乱をおさめて昭襄王が即位すると、間接的に即位に協力した樗里疾は、昭襄王からの信頼を得た。
※逆に甘茂は秦を出奔した。
代替わりの際に起きる前王の功臣の粛清や、後継者争いに巻き込まぬよう見事に立ち回った樗里疾は、
百年後、ここに天子の宮殿が出来、私の墓を挟むことになるだろう
秦が中原を統一し、劉邦によって漢が興ると、遺言通り樗里疾の廟の東に長楽宮が、西に未央宮が建ち、墓の真上に武器庫が造られた。
※その他「樗里疾」の詳細についてはWikipediaの・・・・記事はまだないようです。
▼秦始皇帝軍で甘茂と仲良く喧嘩している架空戦記「春秋戦国三国志」
関連項目 |
関連コミュニティ |
|
|
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/06(土) 23:00
最終更新:2025/12/06(土) 23:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。