史記 単語

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史記(しき)とは 

中国史記録に残る最古の歴史であるの時代から、紀元前1世紀初めにあたる前漢時代の中期までを扱った歴史

著者は司馬遷(しばせん)。実際は、司馬遷にあたる司馬談(しばだん)が記載した部分も存在する。 

中国歴史書において、初めて、「紀伝体※(きでんたい)」で書かれた歴史書である。 

※君や各人の伝記を連ねて、歴史を述べる形式。「紀伝体」とは別に、年代ごとに記述する「編年体(へんねんたい)」がある。 

また、司馬遷子が個人的にまとめた歴史書であるにも関わらず国家から認められた正史の一つに数えられる。 

後世からは正史の起にして、最高傑作と呼ばれることも多い。

後世の中国歴史書にも大きなを与えた。 

日本でも江戸時代から翻訳され続け、読されている。

概要 

史記は、全部で130(書かれた当時は書いた簡の巻物の数で数えていたため、このような表記となる)からなる歴史書である。  

『史記』とは、「歴史記録」というより、「歴史記録」を意味している。司馬遷以前は一般的な年代記につけられていた。 

『史記』は当初はそこまで重要視されなかったが、「史学」が重要になり、「史学」が独立した学問として認められたため、その祖として重要な扱いを受けるようになった。 

そのため、「史学」の祖として名を得た司馬遷は、「経学」(儒教の思想に関する学問)の祖である孔子と、学問においては肩を並べる存在となっている。 

史記の内容 

130巻の内訳は、次の通りである。 

  • 【本紀】…12巻
  • 【表】 …10巻
  • 【書】 … 8巻
  • 【世】…30巻
  • 【列伝】…70巻 
【本紀】 
をはじめとした五からはじまり、、殷、周の各王帝王、それから、の王と始皇帝子、項羽皇帝(一名、皇后も含む)といった「下の」の記録である。 
年代順に書かれているため、本紀は「編年体」の形式をとっているものといえる。 
なお、本紀には、の王や項羽劉邦皇后であった呂雉(りょち、呂后)が含まれているため、後世に色々と議論がある。 
司馬遷は、当時の時代背景はありながらも、基本的に「下の」を自分の考えで自由奔放に定めて、記している。 
【表】 
史記の時代の年表。 
歴史を簡略にして分かりやすく説明するため、記されている。司馬遷の独創によるもののようで、それ以前はこういったものは見つかっていない。 
司馬遷の表は雑な部分もあり、色々と批判されているが、とても重な史料である。 
【書】 
政治に関する様々な題ごとに、特集して記事をまとめたものである。 
くないので余り読まれない。 
ただし、「準書」において司馬遷が、自分が仕えた皇帝である武帝の政策をボロクソ批判しているところは必見である。 
【世】 
中国地方を統治した「諸侯」や「諸王」たちの記録である。 
彼らは「下の」から世襲地方を統治することを認められており、「封建諸侯」と呼ばれる存在である。 
【世】とは、「世襲で統治することが認められた」という意味。 
なぜか、孔子が世に入っているが、これは学(しゅんじゅうくようがく)という儒教の学問をおさめた司馬遷価値観によるものである。 
定義があいまいだったせいか、後世の正史では【世】はなくなり、【列伝】に全て含まれるようになった。 
【列伝】 
中国古代市民たちの中でも特筆すべき人物たちの記録である。【列伝】という言葉は、司馬遷の独創による。 
漢王朝謀反を起こしたとされる韓信など、本来は【世】に含まれてもいい人物でも義的な問題で【列伝】に入っていることがある。 
なお、後世にべれば弱いとはいえ、司馬遷にも儒教的な中華思想が存在し、外の君は【列伝】に含まれる。 

史記が生まれた背景 

中国において、太古の「史官」(歴史)は、当初は国家儀式や大事件に関与し、記録する半宗教的な役職であった。後になって、詳しい年代記を担当する記録官になった。 

歴史を記したのは、道徳的な教訓にするため、また、政治事件に対する時の針とするためであった。また、侵略側が自分を正当化するためのスローガンを残すこともあった。 

太古の史官は、君の助言者や相談役として活躍した。歴史書に残った彼らの姿は、一種の預言者とさえなっている。 

孔子が記したという伝説がある『』という歴史書が世にでた頃にやっと、歴史上の出来事だけが書かれるようになった。『』は、時代の地方国家である「魯」の歴史書である。 

この『』が始皇帝による焚書(書物を焼いた始皇帝の政策)をまぬがれ、歴史書の原となった。 

』は、実際は孔子が記したものではないが、司馬遷の時代には、孔子によって記され、政治道徳針を明らかにした歴史書であると信じられていた。 

儒教の「学(くようがく)」を修めた司馬遷も同様に、それを信じていた。 

孔子が行ったと伝えられた『』に書かれた歴史的事件についての「政治的」、「倫理的」な解釈は、司馬遷に大きなを与えていた。 

ただし、司馬遷事実を正しく記録することを重視し、「政治的」、「倫理的」な判断をくだすことは論評だけにとどめ、歴史の史料を慎重に採用して記している。 

司馬遷、自身も『史記』と『』の関係を否定し、書いた動機を「武帝とその時代を賛美するため」と語っている。 

そのため、『史記』は、後世の知識人である揚雄(ようゆう)、班固(はんこ)、王充(おうじゅう)に「真実記録」と呼ばれた。 

『史記』は、『』と同じく過去の出来事を記した「歴史書」であることは共通しているが、『』に存在するといわれる「政治的・倫理的な意図による故意の粉飾や捏造」が入り込まない新たな歴史書として記された。 

そのため、司馬遷は『史記』は『』のような道徳的・教訓的意味はないと否定している。だが、「事実を記そうとした」という意味で、『史記』は『』と同じ性質を持って受け継がれた歴史書である。 

史記の編集方針 

古代中国では歴史を記す時には、以前に書かれた歴史書は「社会の共有物」とみなされていたため、その歴史書の内容を一切変えずに書き写すことを最高のとされていた。 

そのため、司馬遷は、史記を記すにあたって、文献を引用する時にも、その文献名を記すことはなく、「史記」としてまとめている。 

司馬遷自身、「私が書いた『史記』は、故事を述べて、伝わった伝記を整理して並べたのである。話を作ったわけではない」と述べている。 

司馬遷が、様々な種類の文書を整理して、一つの文章として『史記』に記したことによって、歴史を書く技術が大きく進み、内容は精密なものとなった。また、記す対もより複雑なものとなり、拡大している。 

そのため、『史記』において、歴史燥な年代記ではなくなり、魅力的で多様な物語がふくまれるようになった。さらに、色々な生活の面も歴史書に記されるようになり、様々な階層の人物が描写されるようになっている。 

史記の手法は中国の全ての正史にうけつがれる。そのため、司馬遷はすべての正史の祖と呼ばれるようになり、歴代の歴史の首位におかれるようになった。 

『史記』をのぞく他の「正史」は全て「皇帝の命によって」、「すでに滅びた特定の王のものの歴史」を編纂したものである。 

そのため、司馬談・司馬遷子が「自分たちの意思で記し」、「古代から自分たちの仕えた前漢時代の途中までを対とした」『史記』は、そういった意味では正史とは呼べないであろう。 

しかし、『史記』が「正史」の筆頭とされるのは、その編集方針が後世の「正史」にうけつがれたという理由によるものである。 

【史料の選択】 

史記では、『荘子』や『山経』に書かれているような神話に類する説話は歴史と認められず、採用されていない。 

司馬遷は基本的に矛盾がない合理的な内容のみを史記に採用している。司馬遷によって、司馬遷の生きていた時に近い時代は、かなりの真実性をもった記述が『史記』に記されている。 

しかし、同時に欠点も生まれている。神話に属するたちの記述も真実が含まれていると認めたものしか採用されなかったため、かえって、「ただの理想的な帝王」という現実性のない人物描写しか残らなくなってしまっている。 

司馬遷は史料に非常に実な歴史であり、ある事件について、いくつか異なる記述がある場合は、信頼できる場合はその全てを記した上で、どれが正しいか分からないと述べている。 

【史記の年代決定】 

司馬遷は、集めた史料によって、事件の年代を決定した。しかし、史料は必ずしも相互に全に合致するわけではなく、異なる部分も含めている。司馬遷としては、『史記』の編集方針から、自分の判断で、元の史料を変更することはできなかった。 

そのため、司馬遷は『史記』の全ての年代をつなぐため、総合した年表をつくって、史記の一部である【表】に残している。 

このため、『史記』では、【表】と、【本紀】、【世】、【書】、【列伝】それぞれの年代に、他の正史より多くの矛盾を生じている。 

このため、『史記』は、後世に批判をうけることになったが、かえって、実に史料を残してくれているため、より正確な年代の推計検討ができるとも考えられる。 

司馬遷は年代を、紀元前841年までしか遡(さかのぼ)れないものと判断し、それ以前は世代によって【表】をつくり、示している。 

中国史学でも、司馬遷の設定した、さかのぼれる限界年は意義なく受け入れられている。 

紀元前1世紀という司馬遷の時代においては、おどろくほど、史料をうたがい、信頼できるもののを採用した、司馬遷歴史としての確実性と実性がうかがえる。 

【記述に関する原則】

『史記』では、同じ出来事、同じ内容を複数の箇所で語ることはできるだけ避けられている。時には、関係する人物の記述を参照するように注意書きをしている。 

また、ある出来事を語る場合、その出来事に最も密接な関係があった人物、その事件によって最も強いを受けた人物の伝記を選んでいる。 

ある人間が十の美点と一つの過失をもつ場合、『史記』ではその過失はその人間の伝記では記されず、他のかの伝記に記されている。 

また、ある人間が十の過失と一つの功績をもっていると、司馬遷はその一つの功績をその人物の伝記に記すことに、特別な注意を払っている。当人の伝記では最も好意ある記述にしようとする試みがなされている。 

司馬遷はいいたいことを強調する効果があったため、前兆的な出来事にも関心をはらい、積極的に記述に採用している。 

文学としての史記 

『史記』は、中国だけでなく、日本朝鮮でよく読まれた。司馬遷は他の中国歴史較できないぐらい、文学センスを有していた。 

司馬遷は、文学人間の名を保ち、その名を後世に伝えるものである、と考えていた。 

また、文学としてのや歌を巧みに利用して、その人物の感情を表現している。この手法は、『史記』に文学としての特別な価値を与えた。 

また、歴史事実記録よりも、人間希望や野心、意思の記録に力が注がれている。特に、論争や説得の情の描写が優れており、その内容を史料から引き出し、できるだけ細かく書いている。原文の史料にないエピソードが書き加えられている時もあり、これについては出典が分からないものも多い。 

また、人物の個性や状況を明らかにするために、第三者の批評を利用している。その人物を賞賛した時でも、第三者の批評を利用して、その人物を失敗に追いやる性格上の欠点を摘した。これは孔子でさえ、例外ではなかった。 

ただし、司馬遷はあくまで歴史に残った人々が忘れられてはいけないという的で『史記』を記している、そのため、様々な史料を用いなければ、生き生きとした人間像を描くことはできなかったことは間違いない。 

司馬遷はできるだけ、史料から引き写すようにしていたが、その文章が古い言葉であった場合や難解であった場合、普通の言葉に置き換えるようにしていた。これは、意図的な創作ではなく、昔から行なわれている方法を司馬遷が踏襲したものである。 

ただし、『史記』では、その名と字、出身地を書き落とすことが多く、これは欠点としてあげられる。後の「正史」となった『書』からは、姓名、字、出身地は注意深く記載された。 

史記の文章そのものは、対句や喩、徴などの文学的手法は余りとられず、直接的な文章となっている。司馬遷自身は文学的素養をもっていたが、そういった手法は歴史を記述するためにふさわしくないとして、とられなかったと考えられる。 

史記の文体そのものは当時としても、独自のものであった。 

史記では、司馬遷が面物語好し、小説家としての才を有していたため、(極端に信憑性のないものは採用されなかった反面)、信憑性の薄い出来事も記された。そのため、史記は、歴史物語としても面くものになっている。 

史記における司馬遷の個人的論評は、「太史」の部分に限定される。この論評は後世の歴史べて、とても感情的で個性的であった。後世の歴史は感情を抑えたため、性を保てた面はあるが、面みや文学的効果は薄れている。 

史記の主な出典 

史記には多種多様な文献が出典として用いられている。 

ただし、代までの文献は始皇帝によって焚書され、項羽が咸陽(かんよう、の都)を焼いた時に焼失しているため、かなり少ない。 

史記のな出典としては、

などなどがあげられる。 

論語』や『非子』、『孫子』など思想書も出典として採用している。 

また、各地で司馬遷仕事中に調べてきた歴史に関する文献記録も反映されている。 

司馬遷は一般に流通していなかった書物からも『史記』に採用しているが、広く知られる価値があると判断したもののみを引用した。 

司馬遷は、ただ、広い時代を扱った歴史書を記そうとしただけではなく、「優れた徳行を世にとどめ、の功績をたてて、栄をあらわす」ために様々な文章を採用している。 

そのため、司馬遷に採用された多くの文章の傑作が、現在にまで伝わっている。 

史記のその後 

【司馬遷死後の史記】 

司馬遷の記した『史記』は、一部は隠され、一部は都である長安におかれた。 

『史記』はなかなか世にでることはなく、司馬遷の外孫(がいそん、直系ではない孫)である惲(よううん)の時になってやっと世に出された。皇帝武帝の孫である宣(せんてい)の時代となっていた。 

その時も、前漢時代はなかなか外部には漏らされないようにされていた。 

そのうちの10篇(当時は「巻」ではなく、「篇」)は失われてしまった。 

ただし、史記の記述の範囲の広さと分量、古さを考慮にいれると、おどろくほどよく保存されているものと考えることができる。 

【後世の正史への影響】 

『史記』のおおまかな体裁は、『書』をはじめとする「正史」に受け継がれたが、全に受け継がれることはなかった。 

『史記』の次に「正史」に認められることになる『書』は、史記とは違い、前漢時代のみに限定した。 

そして、『書』が模範となり、その後の全ての「正史」は、すでに滅びた一つの王の時代のみを記述の対とした「断片史」となった。 

だが、「断片史」の形式では、それより以前の王の「衰退の兆し」から、新しい王が生まれるまでの「勝利の過程」が十分に表現されなかった。 

そのため、代には司馬しばこう)たちが、歴史継続性を表現した「通史」として『資治通鑑(しじつがん)』を編集した。 

『資治通鑑』は1,300年以上を対とし、「通史」の最高の見本と呼ばれ、『史記』以後では最もよく読まれた歴史書となった。 

なお、『史記』の体裁の一つである【表】は、後世の「正史」において、記されることが少ない。『三国志』(もちろん正史の方)など14の「正史」には存在しない。 

また、【書】も、『書』の時に、【志】と名称を変えられ、その後の正史も【志】とし続けた。これも、『三国志』などの7つの「正史」には存在しない。 

司馬遷歴史としての後世の評価が高い理由が。お分かりいただけると思う。 

史記に関する有名な論説 

こちらに、歴史書である『史記』に関する「宮崎市定(みやざきいちさだ)」という、すでに故人であるが、日本の東洋史研究でおそらく最も有名な研究者の意見をのせる。 

ここにある意見をネットで聞いた場合、(これは宮崎という研究者の見解なんだな、ちゃんとソースがあるんだ)とは理解しておこう。 

絶対的に正しいと断言はしない。しかし、長い間、学会でも否定はされてはいない伝統的な意見である。 

【司馬遷への評価】 

  • 司馬遷は、優れた歴史であるが、書いたものには騙されやすい。また、国家については政治よりも戦争を、人物については事業よりも逸話を好むくせがある。 
  • 司馬遷儒教の経典である『』の考えをうけて、春秋戦国時代地方政権は全て、いずれかの時代に、周王天子命を得た君)によって、その土地を治めてもいいという封建の命を受けたと信じ込み、史記に書き込んだ。しかし、これは事実ではない。 
  • 司馬遷は自らつくった体裁や形式、名称にこだわらず、読者読みやすいように考えて、史記を記している。頭の固い後世の歴史とは違う。 
  • 司馬遷は、名が残ることによる人間の不滅を信じた。孔子の教えに従って行動し、陵(りりょう)に対する弁護など、後世の人からの理解を得ようとした。また、歴史として、できるだけ多くの史料を集め、大勢の人物の名とその業績を残そうとした。 
  • 司馬遷が、あたかも前で起こった事に対するかのような情熱をもって、過去を語ることができたのは、本来の自由人に立ち返り、現在を忘れて、後世の人に向かって語りかえようとしたからに他ならない。 

【司馬遷の歴史観】

  •  司馬遷は「対立抗争の中から新しい統一安定が生じる。そして、ある程度の安定期間をへて、また、新たな対立抗争が起きる。そこからさらに新しい統一安定が起こり、これを繰り返す」という歴史観を持っていた。 
  • 司馬遷漢王朝の統一後も、漢王朝が次々と起きる対抗勢力(劉邦に反乱した諸侯王、呂后の一族である呂氏、楚七など)を打倒して政権を維持していった時代とみている。 
  • 司馬遷は、以前の中国社会において封建制度の弊を実感されていた、と、とらえている。彼の時代には封建制度は時代遅れのものとなっていた。前漢は部分的に封建制度を採用した「制」から全て官僚によって統治される「県制」に移りかけている。

【史記について】

  •  史記にはあちこちに後世の歴史家よって、改竄されており、その証も残っている。
  • 代までの人物は、都市国家の伝統である自由の精神を失わずに、個性をめて行動した。代以降は、中国社会貴族制度・官僚制度が普及底していき、この多様性が失われた。『史記』の【列伝】が、後世の史書にべて、はるかに精に富み、人物が生き生きとして描写されているのは、このような理由による。
  • 当時、二人が一組となり、対話や舞踊によって、劇を演じ、議論をすすめたりする娯楽を「偶語(ぐうご)」と言い、宮廷や市場において演された。司馬遷は、しばしば、この芝居である「遇語劇」の内容を歴史の一部といて『史記』にとりいれた。そういうところほど、描写が生き生きとして、に迫っている。 

史記の有名な注釈

史記の記述は、理解はしやすいが、長い時代が過ぎていく間に、政治行政の制度、地理や官職などの正確な意味が分からなくなっていった。 

また、史記の記述は簡略すぎて意味が分からないことも多い。そのために、そういった用語の意味をはっきりさせる必要がある。 

そのため、時代とともに、史記には多くの注釈がなされ、特に優れた三つの注釈が史記とともに記されるようになっていった。 

その三つの注釈は、〈史記集解(しきしっかい)〉、〈史記索隠(しきさくいん)〉、〈史記正義(しきせいぎ)〉と呼ばれるものである。 

〈史記集解(しきしっかい)〉 

注釈者は裴駰(はいいん)。三国志の注釈で知られる評論おじさん裴松之(はいしょうし)の息子である。5世紀の後半に編集したと考えられる。 

史記の注釈を集めた。全80巻。力尽きたのか、途中から、注釈を簡略化したため、後世から批判されている。 

〈史記索隠(しきさくいん)〉 

注釈者は司馬貞(しばてい)。司馬遷の子孫とされる。唐代である8世紀の前半に注釈の編集を行った。全30巻。 

司馬貞は史記をからではなく、全な神話の時代である三皇(さんこう)からはじめるべきと考え、補ったが、歴史になんの根拠もないため、後世からは批判が強い。 

〈史記正義(しきせいぎ)〉 

注釈者は守節(ちょうしゅせつ)。737年に〈史記正義〉を発表した。地理的から見て、優れた注釈を行っている。全30巻。

関連書籍

「史記」再説 司馬遷の世界exit(中公文庫)加地伸行

『史記』と司馬遷について調べる場合、 

  • 較的、文章がよみやすい
  • 内容の分量が多くない、
  • 電子書籍が存在する  

ことから、こちらの書籍をまず、おすすめする。 

司馬遷人生について追うことで、『史記』の書かれた時代背景司馬遷が『史記』を書いた動機、『史記』に対する構成などの説明がなされている。 

『史記』と司馬遷に関する基本的な内容は、これを読めば把握できる。 

フロイトにからめて説明している部分については納得できない人は飛ばして読もう。

史記1 本紀exit(ちくま学芸文庫) 小竹文夫・小竹武夫 (翻訳)

史記の現代語翻訳に挑戦したい人は、こちらがおすすめ。電子書籍も存在する。全8巻。 

翻訳は古いが、現代でも多くの研究者から強い支持を受けている名訳である。 

ただ、初めて挑戦する人は、

  • 【本紀】は「項羽本紀」、「高祖本紀」から読む
  • 【列伝】は好きな人物か、はじめから読む 

という読み方をおすすめする。 

ただし、『史記』の【表】の部分は翻訳されていない。また、原文や書き下し文はない。

司馬遷と史記exit (新潮選書)エドゥアール・シャヴァンヌ、岩村忍(翻訳)

フランス研究者が書いた『史記』の研究書の日本語翻訳。 

なんと、原文は110年以上前に書かれたものであるが、いまだに色褪せない『史記』研究であり、現在に至る史記研究の基礎となる研究書である。 

翻訳されたこと自体が50年以上前であり、すでに絶版で、電子書籍もないが、アマゾンマーケットプレイスなら安価で手に入るので、『史記』を細かく知りたい方には是非、読んでほしい。内容は特別、難解というほどではない。 

この大百科記事の内容にかなり反映しており、「史記の編集方針」、「史記のな出典」、「史記のその後」、「史記の有名な注釈」は、この書籍をな出典としている。

史記を語るexit(岩波文庫) 宮崎市定

上でも書いたが、宮崎市定という、日本の東洋史研究でおそらく最も有名な研究者(故人)の『史記』研究書。1975年より以前に書かれている。 

電子書籍もなく、絶版であるが、文庫本であり、アマゾンマーケットプレイスなら安価で手に入る。 

かなり大胆な見解も多いが、特に学会研究でも強く否定されたことはない。 

この研究者の『史記』に関する意見について、賛同するかどうかは別にして、一つの見解として頭にいれておけば、『史記』について考えるための参考になる。現在でも強く支持する東洋史ファンは多い。 

この項でも、「史記の内容」、「史記に関する有名な論説」について、その内容を反映している。

司馬遷exit』(筑摩叢書) バートン・ワトソン  今鷹真(翻訳)

60年以上前に書かれたアメリカ研究者が書いた『史記』の研究書の日本語翻訳。 

翻訳した研究者は、多くの『史記』研究書の中で、最もすぐれた書物であると推している。 

これを書いた人も現在の段階でも、日本語で書かれたもの、翻訳されたものに限定すれば、史記研究書の中で最もすぐれた作品であると感じている。 

絶版電子書籍もなく、安価では手に入りにくいが、史記を本格的に調べるなら、本当におすすめの書籍である。 

これを熟読すれば、あなたより『史記』に詳しい人は、研究者を除けば、ほとんどいなくなるであろう。 

この項では補足的に少し反映したことと、「史記が生まれた背景」、「史記の編集方針」のうち【記述に関する原則】、「文学としての史記」について、その内容を反映させている。

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