石見銀山遺跡とその文化的景観とは、日本の世界遺産(文化遺産)である。2007年6月登録。
石見国(島根県)に存在した日本最大の銀山である石見銀山(大森銀山)を中心とした建造物や遺構によって構成される。
かつて世界有数の銀山として日本に留まらず世界的に名前が知られていた。
最盛期の最盛期であった戦国時代から江戸時代にかけては、世界で産出する銀の約3分の1を占めたといわれている。
その規模に反して、銀の採掘や精錬に至るまでの作業は小規模で行われた。
これにより、かつての遺跡が良好に残っているほか、環境への配慮によって自然と人間が共生する文化的景観を形成している。
また、ここで生産された大量の銀は、アジアのみならずヨーロッパ諸国との経済的・文化的交流をもたらした。
このことが世界に評価され、2007年に世界遺産として登録された。
世界遺産に登録された鉱山遺跡としてはアジア初である。また、産業革命以前の産業遺産としても稀有な存在である。
元々自然との共存が図られていた上に明治期以降あまり開発が進まなかったため、江戸時代の採掘、精錬から流通に至る痕跡をいたる所で間近に見ることができる。
ただし深い山林に囲まれた坑道とその周辺なので、整備は進んでいるものの観光地としての華々しさとは程遠い。
そんな異界じみた佇まいも含めての世界遺産なのである。
石見銀山は鎌倉時代には既に発見されていた記録があるものの、当時は発掘、精錬技術が未発達だったため一旦廃れてしまったという。
1526年に博多の商人・神屋寿禎によって再度発見され、当時この地を支配していた大内氏により本格的に開発されて以来、約400年にわたって銀が採掘されてきた。ここで産出した銀の品質は非常に高く、最大で年間10000貫も算出された銀は石高にして100万石に匹敵したという。
その莫大な利益を狙って戦国時代には周辺を支配していた尼子、大内、毛利の各氏により熾烈な争奪戦が繰り広げられた。
最終的に中国地方を制した毛利氏が所有し、豊臣政権下で徳川、上杉に次ぐ大勢力となる原動力になった。
豊臣政権下では朝廷に「御料所」として献上することで秀吉に取られる事を防いでいたという。
しかし関ヶ原の戦いで形ばかりの西軍総大将となった毛利輝元が敗れ長州一国に大幅厳封されたため、徳川幕府の直轄領となった。
元禄時代頃から産出量が減りその後も細々と採掘を続けたものの、明治初期の大地震などで壊滅的な被害を受け、再開発の挑戦もむなしく大正時代に閉山し現在に至っている。
海外の鉱山では大規模な露天掘りがよく見られ、大量の鉱石を産出する一方で植生が失われるなどの環境問題が指摘されている。これに対し、石見銀山では坑道掘りが採用されたほか、森林は伐採した分だけ植林していたという。
登録直前の国際記念物遺跡会議(ICOMOS)の審査では「登録延期」勧告を受けていた石見銀山であったが、前述の通り「21世紀が必要としている環境への配慮」が既に行われていたことが反響を呼び、後の世界遺産委員会では満場一致での逆転登録に繋がった。
世界遺産の登録基準2、4、5に該当している。このうち、
5.ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
に該当する日本の世界遺産は、本件と「白川郷・五箇山の合掌造り集落」のみである。
登録対象は「銀山周辺の遺跡」、「銀を積み出した港」とそれらを結ぶ「街道」など。すべて大田市に存在する。
| 名称 | 画像 | 概要 |
|---|---|---|
| 銀山柵内 (ぎんざんさくのうち) |
sm9215017 ![]() |
採掘から精錬までを一貫して行った、銀鉱山遺跡の本体。銀生産のほか、操業に携わった人々の生活の様子も残っている。江戸時代初期に柵で厳重に囲まれたことから「柵内」と呼ばれる。 |
| 代官所跡 (だいかんしょあと) |
画像募集中 | 江戸時代に設置された、幕府代官所跡。石見銀山の支配に関する施設で、当時の正門と門長屋が残っている。 |
| 矢滝城跡 (やたきじょうあと) |
画像募集中 | 標高638mの矢滝城山山頂に築かれた山城跡。石見銀山防衛のための要衝として機能していた。 |
| 矢筈城跡 (やはずじょうあと) |
画像募集中 | 矢滝城と対峙する位置に築かれた山城跡。2つの山城の間の谷を温泉津沖泊道が通る。 |
| 石見城跡 (いわみじょうあと) |
画像募集中 | 標高153mの龍巌山山頂に築かれた山城跡。日本海に近い石見城は、仁摩方面を守備するための拠点として機能した。 |
| 大森銀山伝統的重要建造物群保存地区 (おおもりぎんざん―) |
sm18227888 ![]() |
鉱山とともに発展した幕府直轄地の御料の中心街。武家・商家の旧宅や社寺などが良好に残っている。1987年に国指定の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。 |
| 宮ノ前地区 (みやのまえちく) |
画像募集中 | 代官所跡の北東約100mの位置にある精錬所跡。小規模な建物ながら精錬用の炉を多数設置し、精錬の効率化と品質向上を図っていたものと考えられる。 |
| 熊谷家住宅 (くまがいけじゅうたく) |
画像募集中 | 石見銀山で栄えた商家の住宅で、鉱山業・酒造業・年貢銀の検査などを行っていた有力な商家の1つ。住宅は一般公開されており、有力商人の生活の変遷を垣間見ることができる。 |
|
羅漢寺五百羅漢 (らかんじごひゃくらかん) |
画像募集中 | 羅漢寺の向かい側に掘られた石窟に、501体の羅漢像が並ぶ。羅漢寺は銀山で亡くなった人々を供養するために建立された寺院である。 |
| 佐毘売山神社 (さひめやまじんじゃ) |
画像募集中 | 永享6年(1434年)の創建と伝わる、石見銀山の中に鎮座する神社。鉱山の守り神で、精錬の神「金山彦命」が祀られている。 |
| 名称 | 画像 | 概要 |
|---|---|---|
| 鞆ヶ浦道 (ともがうらどう) |
画像募集中 | 大森から鞆ヶ浦へ至る総延長7.5kmの道で、港までの最短ルート。精錬技術が導入される前は、銀鉱石のまま港まで運搬していた。 |
| 温泉津沖泊道 (ゆのつおきどまりどう) |
画像募集中 | 大森から温泉津・沖泊へ至る道で、総延長13.8km。毛利元就が整備したと伝わる道で、操業当時は難所であったという。現在は整備が進んでおり歩きやすい。 |
| 名称 | 画像 | 概要 |
|---|---|---|
| 鞆ヶ浦 (ともがうら) |
画像募集中 | 石見銀山から直線距離で6.5kmの位置にある港。銀山に最も近い港で、16世紀前半にはここから銀鉱石が積み出された。 |
| 沖泊 (おきどまり) |
画像募集中 | 16世紀後半に銀の積み出しで栄えた港。水深が深い天然の良港で、船を係留するために削られた岩が多く見られる。 |
|
温泉津重要伝統的建造物群保存地区 (ゆのつ―) |
sm17539959 ![]() |
銀の輸出港・物資供給基地として栄えたほか、温泉街としても知られる。2004年に国指定の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。 |
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/06(土) 09:00
最終更新:2025/12/06(土) 09:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。