藤本定義(ふじもと さだよし)とは、元プロ野球コーチ・監督である。故人。
OB | |
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藤本定義 | |
基本情報 | |
出身地 | 愛媛県松山市 |
生年月日 | 1904年12月20日 |
没年月日 | 1981年2月18日 |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
松山商業学校に進学。主に投手としてプレーし、全国中等学校優勝野球大会(現:夏の甲子園大会)に4大会連続で出場している。
1924年、早稲田大学に進学。カーブを武器に早稲田大学のエース格として活躍した。
卒業後、大阪鉄道局吹田を経て、東京鉄道局の監督に就任。1935年、アメリカ遠征を終えて巡業試合を行っていた東京巨人軍相手に2勝を挙げて見せた。その手腕が評価され、1936年、二度目のアメリカ遠征を終えた巨人軍の監督として招聘された。
就任直後、エリート意識が芽生え天狗となっていた選手たちの根性を叩き直すべく群馬県の茂林寺でキャンプを敢行。所謂「茂林寺の特訓」と呼ばれた猛練習で、文字通り血反吐を吐くくらい徹底的にしごきあげ、技術面だけでなく精神面から鍛え直した。
特訓の成果が実り、1936年秋シーズンに優勝すると、その後9シーズンで7度の優勝を遂げるなど黄金時代を築いた。
ただ、一部フロントとの確執や太平洋戦争の激化もあり、1942年限りで監督を辞任。
退団後、朝日軍(後のパシフィック、松竹ロビンス)のオーナーを務める田村駒治郎の秘書として活動。実業家へ道を歩むことを計画していたのだが、終戦後の1946年に田村からの要望もありパシフィックの監督に就任。
パシフィック・太陽監督時代は2年で7位2度と成績は振るわなかったが、選手たちの待遇改善のために「日本野球選手会」を発足させ、初代会長として活動した。
1948年からは金星スターズ(大映スターズ)の監督に就任。9シーズン務めて3度の3位が最高成績であった。1957年からは阪急ブレーブスの監督に就任し、ここで日本で初めて「先発ローテーション制」を確立したが、1958年の3位が最高成績であった。1959年限りで退任。
1960年、大阪タイガースの投手コーチ兼ヘッドコーチに就任。翌1961年シーズン途中、金田正泰監督解任に伴い監督に昇格。藤本の指導や策により巨人に対しコンプレックスを持っていた選手達の意識面の改善に成功。1962年と1964年の2度リーグ優勝に導き、1968年までの8シーズンでAクラス7度とチームの建て直しを成功させた。
NPB歴代最長の29年間の長きに渡り様々な球団で監督を務めた名将。この他5球団での指揮経験もプロ野球歴代最多タイ記録である。ライバル球団である巨人・阪神双方で監督を務めた唯一の人物でもある。
若い頃は「土佐犬」とあだ名されるほど熱い人物であり、「茂林寺の特訓」に代表されるようにスパルタ特訓でチームを強化したが、戦後は「伊予の古狸」と呼ばれるように知略を全面に出した采配で勝負に挑んだ。
当時としては一般的であったエース投手の多投に異を唱え「先発ローテーション制」を確立。「30勝投手を出すのは監督の恥」と語っていた。
人心掌握術に長け、戦地で肩を負傷して帰国した沢村栄治の面倒を見たり、冷遇されることも多かったヴィクトル・スタルヒンを常に庇うなど人望の厚さを伺わせるエピソードも多い。
三原脩・水原茂・川上哲治ら名将たちを育てた人物でもあり、彼らにとって頭の上がらない人物でもあった。
最後の愛弟子である江夏豊を孫のように可愛がり、江夏が広島で初めて優勝した際には杖を突きながら涙を流して祝福していた。
通算:29年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
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NPB | 3482 | 1768 | 1613 | 101 | .523 | Aクラス20回、Bクラス9回 |
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最終更新:2024/12/18(水) 23:00
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