U-847とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2型Uボートの1隻である。1943年1月23日竣工。臨時の潜水タンカーとして活動中の8月27日、サルガッソ海にて、音響魚雷を受けて沈没。
IXD2型とは作戦範囲の拡大を目指した長距離航洋型Uボートである。
これまでのIX型とは全く違う船体と設計を持ち、排水量も1600トン以上と、日本海軍の海大型に迫る巨躯を誇る。生産性を優先し、前級IXD1型に搭載したメルセデス製魚雷艇用エンジンが使い物にならない事が判明したため、IXC型と同じM9V40/46 ターボチャージドエンジン2基へ戻し、更に低速巡航用のMWM社製RS34/5Sディーゼル2基を搭載。IXC型より船体を10m延伸して燃料搭載量を増大させた。これにより水上航続距離がIXC/40型の2万1113kmから4万3893kmにまで増加、水上航行中に補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で、最大速力も18.3ノットから19.2ノットに増加するなど、全体的に性能が向上している。大型航洋型Uボートの完成形とも言えるIXD2型は計28隻が量産され、南アフリカ沖やインド洋における通商破壊で戦果を挙げた。
諸元は排水量1616トン、全長87.6m、全幅7.5m、最大速力19.2ノット(水上)/6.9ノット(水中)、燃料搭載量389トン。兵装は21インチ艦首魚雷発射管4門、同艦尾魚雷発射管2門、魚雷29本、45口径10.5cm単装砲1門、37mm連装機関砲1基、20mm連装機関砲3基。U-172の報告書によるとフォッケ・アハゲリス Fa330を搭載していたという。
1941年1月20日、ヴェーザー社のブレーメン造船所へ発注、11月23日にヤード番号1053の仮称で起工、1942年9月5日進水、そして1943年1月23日に無事竣工を果たした。初代艦長には、英空母アークロイヤルを撃沈し、騎士十字章を授与されたU-81の元艦長、フリードリヒ・グッゲンベルガー少佐が着任。訓練部隊の第4潜水隊群へ編入され、バルト海にて慣熟訓練を行う。
だがU-847は呪われていた。まずMG-15型機関銃の射撃訓練中に2名が死亡し、少尉1名が負傷する事故が発生、グッゲンベルガー艦長は責任を取る形でU-513に異動となった。2月1日、二代目艦長にヨスト・メッツラー少佐が着任するが、Fa330のローターブレードで、乗組員の頭部が切断される事故が起き、彼自身もバルト海での試験航海中に胃腸障害を発病し、6月30日に退艦を強いられている。
7月1日、第12潜水隊群へ転属とともに三代目艦長のヘルベルト・クピッシュ少佐が着任。ちなみにU-847に着任した艦長は全員騎士十字章の受勲経験を持つベテランばかりであった。
1943年7月6日、クピッシュ艦長指揮のもとキールを出撃。U-847は同盟国日本が占領する東南アジアのペナン基地に向かい、同地を拠点とするモンスーン戦隊と合流する任を帯びていた。合流後クピッシュ艦長がモンスーン戦隊の初代司令になる予定だったという。
ノルウェー西岸を北上し、デンマーク海峡の突破を試みた際、7月17日に氷塊と衝突してブリッジプレートを損傷、更にD/Fギア及び全周ダイポール故障の被害を受けたため、急遽7月20日にベルゲンへ帰投して応急修理。
7月29日にベルゲンを出港、アイスランド・フェロー諸島間を通って北大西洋に進出する。
5月のブラック・メイ以降、大西洋における連合軍の対潜哨戒は激化かつ巧妙化の一途を辿っていた。7月に入ると護衛空母コアとサンテーがそれぞれ護衛駆逐艦3隻を伴ってアゾレス諸島近海に出現、ボーグと合流した。去る7月13日、東南アジアに向かうUボートに給油を施していたU-487が中部大西洋で撃沈され、やむなく直前に給油を受けたU-160や付近のU-155が潜水タンカーに指定されるも、翌14日にU-160が、8月7日には給油艦U-117が撃沈されてしまい、東南アジア行きのUボート11隻は給油を受けられない事態に陥った。
8月14日、パリのBdU(Uボート司令部)はU-129、U-516、U-523、U-760を臨時の潜水タンカーに指定。当初U-847は極東行き任務のため潜水タンカー転用は認められなかった。
8月16日20時45分、U-66との合流地点に到着し、ポール・フレックス艦長と給油の時間について協議、日付が変わるまで潜航して過ごす事に。翌17日午前0時2分より午前5時2分までU-66に給油、それが終わると食糧5日分を補給した。U-66からは淡水ポンプが贈られた。午前5時40分に2隻は分離。8月18日、U-525喪失に伴い、9隻のUボートに対する給油任務を引き継いだ事で正式に潜水タンカーへと転用された。
まず8月22日午前10時、アゾレス諸島南西800海里の補給地点にてU-653、U-634、U-230と合流。22時10分までに燃料、潤滑油、食糧10日分の補給作業を完了する。23日、ギニア湾から帰投するU-257に燃料、潤滑油、食糧10日分を、24日にアフリカ西岸からロリアンに帰投するU-508に燃料と食糧7日分を補給。この日はU-185にも補給を施す予定だったが、補給地点を目指して北上中、U-185は米護衛空母コアの艦載機に襲われて撃沈される。
8月25日午前9時32分、U-847とU-508が横付けしているところにU-172が現れて識別信号を交換、すかさず送油ホースと接続し、午前11時より給油を開始する。15時25分に燃料30トンの補給作業完了。16時15分、U-172は水平線の向こう側へと消えていった。作戦完了後U-847はBdUに補給内容を報告。
補給を受けたU-172のエメルマン艦長やU-230の第一当直士官ヘルベルト・ヴェルナーは、U-847の敵機撃退準備が不十分だと考えていたという。また最初の戦闘航海ゆえ乗組員の経験不足が顕著で、作業員が無線機を過度に使用していると各艦長が異口同音に報告、そしてその懸念通り、Uボートとの頻繁な無線通信は敵を招き寄せてしまった。連合軍の無線諜報部は数日前から補給地点を特定、刺客を送り込む。
1943年8月27日朝、サルガッソ海にて、米護衛空母カードから飛び立ったワイルドキャット戦闘機2機とTBFアヴェンジャー雷撃機1機がU-847を発見、ワイルドキャットが低空で機銃掃射を仕掛けてきたため潜航退避を強いられる。潜航後の渦潮を狙ってアヴェンジャーが音響魚雷ファイドを投下、すると2回の爆発音が聞こえ、油膜と残骸が海面に広がった。これがU-847の最期であった。乗組員62名全員死亡。クピッシュ艦長戦死に伴い、U-178のヴィルヘルム・ドメス少佐がモンスーン戦隊の初代司令となる。
その後、しばらくしてエメルマン艦長がU-847に何度も呼びかけたが、応答が無かったので、U-172ではU-847が行方不明になったと信じられていたとか。
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