ヌルハチ 単語

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ヌルハチ

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ヌルハチとは、清王朝太祖である。後に270年続く清の礎を築いた人。

フルネームはアイシンギョロ・ヌルハチ。漢字で書くと新覚羅・児哈爾哈斉)。

概要

後々に大清帝国の始祖となるヌルハチであるが、彼が挙兵した当初は周りは敵だらけであった。明やモンゴルはもちろん女族も複数の部族(西女や野人女直)に分かれており、更にはヌルハチの所属する建州女族ですらほとんどがヌルハチに敵対する存在であった。ヌルハチは長い闘争を経てこれらを順番に征伐していく。

挙兵とマンジュ国

ヌルハチは女族の新覚羅氏のタクシの第四子として産まれた(諸説あり)。ヌルハチ=スレ=バトゥル(ヌルハチのこと)は、幼少の頃より徳を示す子供であったが、ヌルハチが10歳の時に生が亡くなり、が再婚すると継との折り合いが合わず苦労が多くなったとされる。ヌルハチが分独立)するときにも継に言いくるめられた父親余り財産を分けてもらえず、ヌルハチは商いをするなど、ほぼ独で生計をたてていかなければいけなかった。

ヌルハチ25歳の時には祖オチャンガとタクシが明の将軍成梁に殺されるという事件が起きた。ことの経緯はこうである。1583年、明の万暦帝治世下、グレという地にいたアタイジャンギンを明の広寧の総司令官成梁が包囲した。しかし中々攻め落とすことが出来なかった成梁は、兵士に「アタイを殺した者はこのエジェン(長官)にするぞ」と籠絡作戦に出る。この作戦は上手くいったのだが、この時ニカンワイランという名のアンバン(大守)が、アタイを救出しようとしたギオチャンガとタクシを殺すように成梁にけしかけたため、成梁は二人を殺する。

この事件を機にヌルハチは挙兵する。ヌルハチの長い長い覇権闘争の幕開けであった。

当初のヌルハチは一族の支持すら得られない状態であった。と祖と殺した成梁は、これは失策であったと認めヌルハチに謝罪と賠償の品を送ってきた。しかしヌルハチはこれを認めず、明の清河堡を攻撃し、成梁をそそのかしたニカンワイランの引き渡しをめた。これに怒った明側はギヤマンの地にを築き、それをニカンワイランに与え彼をマンジュのハン(王)と認めると宣言した。この時、一族のほとんどはニカンワイランの味方をし、ヌルハチは孤立してしまう。

その後ヌルハチはニカンワイランとの戦いに勝利し、建州5部を統合しマンジュを建する。マンジュは数ある北方民族の中の一つである女族の更に建州女にすぎなかったが、マンジュ立は他の女族やモンゴル世界に大きなを与える事となった。1587年には最初の居である旧老(フェ=アラ)を築き、1589年に明から建州衛都督僉事(せんじ)を授与されたヌルハチは、明との取引によって富を蓄えると武器を買い入れて軍備を増強していった。ヌルハチ勢伸びる事に危機感を覚えた西女の4部(ハダ、イェラ、ホイファ、ウラ)は1593年に、内モンゴルハルハ5部の一つコルチン部と共に3万の連合軍を集め、ヌルハチを攻撃した。ヌルハチは西女の4部を各個撃破し、順に吸収。モンゴルのコルチンは、ハルハ5部と共にモンゴル族としてはじめてヌルハチに使者を送り、通好を開始した。

アイシン(後金)の建国

西女族を吸収しさらに勢いに乗るヌルハチは1603年に居(ヘトゥ=アラ)に移した。1606年にはモンゴルハルハ5部はヌルハチにスレ=クンドゥレン(恭敬なるという意味)=ハン称号を送り、マンジュ国王として承認した。ここまできて流石にヌルハチを無視できなくなった明政府は、女族で一残ったイェへを支援し、ヌルハチを圧迫した。ヌルハチも女族統合のために大明との戦いを覚悟し、イェへを除く女族のベイレらからスレ=ゲンギェン(英明なるという意味)=ハン称号を送られてハン位についた。ここにおいてヌルハチはアイシン(後)を建することになった。マンジュの際は同一部族での権闘争の性格があったが、アイシンの場合は独立の統合という覇権闘争であった。そのためアイシンは他民族国家としての特色が強く、それを端的に示すのが八旗制である。

八旗制とはヌルハチが他民族の統合と、それぞれの伝統の保存を両立しながら勢を拡大するために用いた軍事制度である。ヌルハチは軍団を鑲・正・正・鑲・正・鑲・正・鑲の8つのグサ(旗の意)に分け統轄した。当初のグサは、成人男子300人で1ニル。5ニルで1ジャラン、5ジャランで1グサで編成されていた。この八旗は時代を経て数や人種を増やしていき、二代皇帝ホンタイジの治世で八旗古、八旗軍などというものもできた。八旗には様々な特権が与えられ、民間人とは明確に区別されていた。各旗は独立として存在し、旗人はその旗王の命のみを聞くという独特な社会制度であった。

サルフの戦い

アイシンと建て、八旗を整備したヌルハチは1618年、七大恨を発し、明と本格的な戦争に突入する。七大恨の内容は、

  1. 理由もなくわがや祖を殺した事
  2. 互いにえないという約束を破った事
  3. 約束を破った越境者を処刑した報復に、の使者を殺し威嚇した事
  4. とイェへ部族のとの結婚をさまたげ、そのモンゴルに与えた事
  5. 近くでわが女族がつくった穀物を穫らせず、追い払った事
  6. 悪辣なイェへ部族を信用して、われらを侮辱したこと
  7. な裁きに背き、悪を善、善を悪として不をおかした事

以上を見ると、2、3、5のように領土的、経済的な要因も含まれており、ヌルハチが安定した経済基盤確保に興味を持っていた事が伺える。ヌルハチの軍事的の一つには常に豊かな農耕地を確保することにより、経済基盤を安定させることが入っていたことは押させておきたい。

明に対して戦争状態に入ったヌルハチはまず、明の護を受けていたイェへ周辺の明の諸を次々の攻め落とした。これに対して明は大軍をおこし、ヌルハチの居である(ヘトゥ=アラ)に侵攻した。まともにぶつかっては勝ちはないと見たヌルハチはサルフ山に出を築き、明の軍を待ちせた。明はこれを包囲して対抗するが、軍の連携が乏しくヌルハチに各個撃破され大敗を喫する。これをサルフの戦いと呼ぶ。明に大勝したヌルハチはイェへを統合し、悲願であった全女族の統一に成功した。25歳で挙兵してから36年。ヌルハチは既に還暦えていた。しかしヌルハチの前進は止まらない。

明に勝ったことにより、半島と南の明土に進出する契機を得たヌルハチの次の敵は明の他には、モンゴルであった。アイシンは南に領土を広げることにより、元王朝の血を引き継ぎ明から歳幣(援助)を受けて内モンゴルの統合を進めていたチャハル部のリンダン=ハンとの戦いも余儀なくされる。しかしヌルハチは1626年の寧遠(ねいおんじょう)の戦いの後に死亡する。一説には明軍が用いたポルトガル大砲で負傷しそれがもとで亡くなったとされる。

ヌルハチの死後は、子のホンタイジが後を継いた。


清帝国へののり

  1. 初代ヌルハチによる建州女の統一(マンジュの建
  2. 初代ヌルハチによる女族の統一(アイシン、後の建)   ←いまここ
  3. 二代ホンタイジによる皇帝即位(清王朝の成立)
  4. 三代目順治帝による北京(このちょっと前に明滅亡)
  5. 四代目康煕による中国統一
  6. 五代雍正、六代による領土拡大

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