基本データ | |
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正式名称 | 大清帝国 大淸帝國 |
国歌 | 鞏金甌 |
公用語 | 満州語、漢語 |
首都 | 北京 |
面積 | 1380万km² |
人口 | 3億1972万人 |
通貨 | 銀両 |
建国 | 1636年 |
崩壊 | 1912年2月12日 |
同王朝による帝国の国名は大清帝国(だいしんていこく、Great Qing)であるが、一般的には清国(しんこく、Qing Empire)と呼ばれることが多い。
1636年にヌルハチの後金を受けてホンタイジが満州において建国した王朝。その後、李自成の乱をきっかけに北京に入城し、数々の外征を経て中国を統一し、それから1912年に辛亥革命で滅びるまで大陸を支配した最後の王朝である。漢民族の王朝ではないが、文化的にも領土的にも現在の中国の原型になった。
17世紀の初頭、満州(現在の東北地方)に住む女真族のヌルハチが勢力を伸ばしていた。ヌルハチは1616年に全女真族を統一し、その後、清王朝の前身となる金(アイシン)を建国[1]。1619年のサルフの戦いでは20万(諸説あり)の明の大軍を撃破したものの、さらに7年後の寧遠城(ねいおんじょう)の戦いで負傷しそれがもとで亡くなった。後を継いだホンタイジはその後、モンゴル平原にも支配地域を増やし、1636年に満州国、モンゴル国、漢人の後押しを受けて皇帝位に就き、金を大清(ダイチン)と改名。女真族の民族名を満州族とした。
一方の明は度重なる戦乱と飢饉、重税に堪え兼ねた農民の反乱が相次ぎ、1644年には李自成が北京を占領し、最後の皇帝祟禎帝が自殺したことによって滅亡してしまった。明軍の将軍呉三桂は李自成討伐の為に清と手を結び、それに応じた三代皇帝順治帝は北京に入城してこれを首都と定めた。順治帝はまだ幼かったため、先代皇帝ホンタイジの弟ドルゴンが摂政となり政治の実権を握った。清朝はいまだ政情不安定な南部を治める為に、功績のあった3人の漢人、呉三桂(ごさんけい)、尚可喜(しょうかき)、耿仲明(こうちゅうめい)に領地(藩)を与えて統治させた。
当時の清政権はまだ脆く、南部を中心に明朝の後継を名乗る独立勢力が乱立し(南京に福王の弘光政権、福州に唐王の隆武政権、紹興に魯王の監国政権、広東に桂王の永歴政権など)、清朝は呉三桂らの力を借りて、これらの征伐に取り組まなければならなくなった。また武人だけでなく、黄宗羲(こうそうぎ)や顧炎武(こえんぶ)、王夫之(おうふうし)などの儒者達も明朝と漢民族の正当性を主張し清朝に抵抗した。黄宗羲は『明異待訪録(めいいたいほうろく)』、顧炎武は『日知録』、王夫之は『読通鑑論(どくつがんろん)』などを著し、その後に続く多くの思想家に影響を与えた。
一方で清朝は1645年には辮髪(べんぱつ)令を出して、すべての(僧とハゲを除く)男子に満州族と同じように辮髪にすることを命じた。辮髪とは髪を全て後ろに纏めた満州族独特の髪型である。言葉で説明するより、画像検索してもらえば「ああこれか」となるはずである。これは満州族の中国支配を目で見えるようにするのが狙いだったとされる。辮髪令は反対もありながら政府によって強行されていった。
清への有力な抵抗勢力の一人に鄭成功という人物がいた。廈門(あもい)では鄭成功は台湾と対峙する金門の港を抑え、清朝の水軍を度々打ち破った。清はドルゴン死後、政治を司ったオボイの提案で廈門を海上封鎖する戦略にでる。さらに1661年には遷界令を発し、鄭成功の活動地域に船を出す事を禁じ、浙江、福建、広東の海岸住民を20キロ内陸に移住させるなどの徹底的な封鎖戦術で鄭成功を追いつめた。
水も食料も届かなくなった鄭成功は、当時オランダが統治していた台湾を拠点とすべく、オランダのゼーランディア城を攻撃し、これを陥落させた。鄭成功は台湾を中心に貿易で利益をあげ、清と戦う準備をしたが台湾攻略からわずか5ヶ月後、鄭成功は39歳の若さで逝去する。鄭成功は日本人とのハーフであったため、日本でも人気が高く、近松門左衛門の作った人形浄瑠璃の演目に鄭成功を主人公にした『国性爺合戦』というのもあった。(鄭成功は明皇帝から朱という皇帝の姓を与えられていたので国姓爺と呼ばれていた。テストでは姓と性を間違えやすい)
1661年には順治帝が亡くなり、その後わずか8歳の康煕帝が即位する。またもや幼い皇帝であったので、オボイ、ソニン、スクサハ、エビルンら輔政大臣が政治を執り、康煕帝は祖母の孝荘仁太皇太后の元で英才教育を受けることになった。彼は勉強熱心で、質素な食事で朝早くから夜遅くまで、時に血を吐くまで勉学に励んだと伝えられる。4人の大臣は皇帝を侮り権力争いを繰り広げ、最終的にオボイが独裁的な権力を得たが、康煕帝14歳の時にオボイを退け親政を開始した。康煕帝は財政改革にも熱心で、宦官や女官のリストラを敢行。宮廷費も節約し減税をしたので、国の人口はどんどんと増えていった。また漢字の大辞典『康煕字典』を編纂するなど文化事業にも熱心であった。
一方で清の対抗勢力(鄭成功の子の鄭経や北方のジュンガル)は残存しており、さらに呉三桂ら三藩の影響も無視できなくなってきた。そこで康煕帝は三藩に領土の相続を許さないという、三藩に対する事実上の宣戦布告を行った。これに応じた呉三桂ら三藩は挙兵し、ここに三藩の乱が勃発する。三藩の乱は各地の抵抗勢力を巻き込み大規模な戦線に発展した。呉三桂以外の二藩は戦争開始から3年で降伏したが、呉三桂だけは根強く抵抗を続け、康熙帝も宮廷費から軍事費を捻出するなど総力戦となった。しかしその後、呉三桂が病死し、後を継いだ孫の呉世璠が1681年に降伏し、9年続いた三藩の乱は鎮圧された。1683年には台湾の鄭氏が白旗を上げたため、建国以来47年、ここに清朝は中国を統一する。
1687年には清領に侵入してきたピョートル1世配下のロシア軍とアムール川(黒龍江)のアルバジンで衝突し、激しい戦闘の後に講和条約であるネルチンスク条約を結ぶ。これはロシアと中国の国境を定めた条約であったが、文明が起こって以来中華思想の下、国境という概念を持たなかった中国が初めて国境を法的に認めたものであった。また、後の南京条約や北京条約と異なり、ネルチンスク条約はお互い対等の平等条約であった。その後、康煕帝はチベットも領土に加え、ここに現在の中国の領土が完成する。
康煕帝の後を継いだ雍正帝は軍機処を設置し、軍の命令を内閣を通さずに秘密裏にかつ迅速に伝えるなどの改革を行うなど、康煕帝に劣らぬ名君として威名を誇った。雍正帝の後に皇帝になった乾隆帝もこれまた優れた皇帝であり、数々の遠征(金川王の反乱の鎮圧、チベット遠征、ジュンガルの拠点イリの攻略、東トルキスタンのヤルカンド平定、ビルマ・ベトナム遠征)を行いそのすべてに勝利したことにより十全老人(十度の遠征全てに勝利した老人)と自称した。乾隆帝は天山山脈の南北を新疆(新しい土地の意)と名付け、ここで清王朝は、全中国王朝で最も広い領土を持つに至った。
文化事業ではイタリアの宣教師カスティリオーネ(中国名 郎世寧(ろうせいねい))を招き円名園などの西洋房子(洋館)を建てたり、儒教、歴史、思想、文学の4部門の書籍を集めた四庫全書を設置するなどした。
康煕、雍正、乾隆の3代の治世により清朝は全盛期を迎える。アメリカ大陸からの新作物(トウモロコシや落花生など)もあり、人口は10年で1億人から2億人に増加した。この時点で清は欧州や中東を含めて世界最大最強の国家であった。その自負もあり、広州以外にも貿易港を開いて欲しいというイギリスの特派員マカートニーやアマーストの要求を拒否するという出来事もあった。
乾隆帝の死後は既に皇位についていた嘉慶帝が親政を始めた。嘉慶帝は乾隆帝の庇護の下で汚職を繰り返していた和珅を逮捕し、没収した国家予算10年分以上とも言われる和珅の財産を用いて白蓮教徒の鎮圧に乗り出した。
この時期には文化的にも多くの優れた作品が排出された。怪奇短編小説『聊斎志異(りゅうさいしい)』。大ヒットラブストーリー『紅楼夢』。社会風刺小説『儒林外史』、ペキンオペラと呼ばれた『京劇』などなど。しかし一方で都会と農村部との経済格差が広がるなどの社会問題もあった。
しかしこの頃、欧州では市民革命が発生し、産業革命と帝国主義の種が既に見え始めていた。全盛期を謳歌する清朝も以後、徐々にだが衰退の道を辿っていく。その先駆けとなるのがかの有名なアヘン戦争である。
アヘン戦争のきっかけは清英の貿易摩擦にあった。二カ国の貿易は清が一方的にイギリスに輸出をするだけで、イギリスは銀が流出する一方であった。そこでイギリスは植民地のインドで採れたアヘンを清に輸出し、貿易赤字を解消しようとした。それにより清ではアヘン中毒者が続出し、時の統治者、道光帝から欽差大臣(全権委任大使)に任命された林則徐がアヘン取り締まりに乗り出す事になった。これに激怒したイギリスは艦隊を極東に差し向けここにアヘン戦争が勃発する。近代化されたイギリス海軍は清朝水軍を敵せず、天津を制圧する。道光帝は琦善(きぜん)を交渉人とするもまとまらず、再び戦火が開いてしまう。イギリスは南京にまで迫り、とうとう清朝は南京条約という不平等条約を結ばされてしまう。その内容は
その後、イギリスに習ったアメリカと望厦条約、フランスと黄埔条約を結ぶ。両方とも領事裁判権(治外法権)と関税自主権の喪失を認める不平等条約であった。林則徐は都から遠く離れた新疆に左遷されてしまい、これ以後、清朝はどんどんと帝国主義国の食い物にされていく。
多額の賠償金を支払う為に農民に重税を強いた結果、キリストの弟を名乗る洪秀全が武昌を攻め落とし、さらに1853年には南京を占領し天京と名を改め独立政権を建ててしまった。その騒ぎに乗じてイギリスが、「清の官憲が、イギリス船籍の清人海賊船アロー号を拿捕する際にイギリス国旗を侮辱した」との因縁をつけてアロー戦争を仕掛けた。道光帝の次の皇帝、咸豊帝(かんぽうてい)は広東省と広西省の知事を兼任する両広総督の葉名琛を派遣するもイギリスの捕虜になってしまった。1856年イギリスは広州を攻撃、翌年にはフランスも参戦して広州を占領し、清朝と天津条約を結んだ。その内容は、
ここで話がまとまりそうだったのだが、条約批准の為の大使を乗せた英仏船を清朝のサンゴリンチンが攻撃してしまったことにより、戦争は再開。英仏軍は北京に侵入し、清朝の栄華の象徴であった円名園は炎上滅却してしまった。これにより清朝は天津条約よりもさらに譲歩を認める北京条約を英仏と結ぶ。その内容は、
もはやかつての大国清は帝国主義国のされるがままであった。しかし、アヘン戦争とアロー戦争は一般的なイメージのようにワンサイドゲームという訳ではなく清朝もそこそこ善戦したため、清は眠れる獅子としてまだ各国にも遠慮というものがあった。
1861年に咸豊帝が(遊びほうけて)31歳で亡くなるとわずか3歳の同治帝が後を継いだ。お約束だが皇帝が幼いので、咸豊帝の皇后である東太后と同治帝の生母、西太后、さらに咸豊帝の弟の恭親王が政治を執った。恭親王は先代咸豊帝と帝位を争った切れ者であったが、西太后は前漢の呂后や唐の武則天と並び中国三大悪女にカウントされる傾国の女性であった。西太后は太平天国を討伐するために、この時代に絶対にやってはいけないことをしてしまった。それは外国の軍隊の力を借りることである。外国の軍隊を自国に入れてしまえば軍事制圧まではあっという間になってしまう。
一方で清朝も軍隊の近代化を進める政策をとった。洋務運動の始まりである。政府は湖南省で地元の義勇軍「湘軍」を組織していた漢人の曾国藩(そうこくはん)に太平天国討伐を命じた。曾国藩は門弟の李鴻章に湘軍にならった淮軍を組織させ、外国軍の協力を得て最初の洋式軍事工場である安慶内軍械所を建てて、軍隊の近代化を図った。曾国藩と李鴻章はイギリス公使ウォード(戦死後はゴードン)率いる常勝軍の助けを借りて太平天国を追いつめていった。この戦いを長州藩の高杉晋作が見ており、日本の近代化の必要性を感じたとされる。結局1864年に太平天国の首都天京(南京)は陥落し、14年にも及んだ太平天国の乱は集結した。
その後清朝は外国語学校の設立や鉱山開発、西洋式軍艦による北洋海軍の編隊など洋務運動を進めた。この頃は西欧諸国の進出も一段落し、同治の中興と呼ばれる安定期に入った。しかし、これ以後100年ほど中国は混乱と戦争の激動の時代に突入していく。
1870年代頃には帝国主義国がアジア全土を続々と侵略しており、ロシア、ドイツ、イギリス、フランス、そして日本が、朝鮮を含めた極東地域を植民地にしようと画策していた。朝鮮半島にはアメリカが、インドシナ(ベトナム)にはフランスが軍隊を送るなど、アジア情勢は余談を許さない状況にあった。ベトナムは冊封国であったため、清は海軍を派遣するが敗北。天津条約によりベトナムの宗主権の放棄とフランスの保護国化、さらに中国南部での通商と鉄道建設の権利を認めさせられてしまった。さらにビルマをイギリスに、マカオをポルトガルに奪われボロボロの状態にあった。
しかしそんな喫緊の状況にも関わらず同治帝の後を継いだ光緒帝は西太后の傀儡皇帝であった。西太后は独裁権力を持ってはいたが、国際感覚に乏しく、国家存亡の時であるにも関わらず頤和園と名付けられた庭園を作ったり、自分の還暦祝いを盛大に行おうとするなど、国家よりも自らの優美な生活を守ることに固執した。
その後朝鮮では東学党の乱をきっかけに日清戦争が勃発するも、同じアジアの国を相手にまさかの大苦戦。日本軍は陸では平壌を落とし、海上では黄海会戦で清が誇る北洋艦隊を崩壊(経遠、致遠、超勇、楊威は撃沈、残りは降伏)させた。さらに遼東半島の旅順を陥落させ、とうとう敗戦に至った。講和条約の下関条約では、
を認めさせられた。
これに激怒した清国民はいよいよもって国家の近代化を目指して運動を始めた。1894年にはハワイで革命を目指して興中会を結成した孫文が香港に帰国。1895年には康有為は弟子の梁啓超とともに変法自強運動を訴えた。しかし孫文は弾圧され日本に亡命し、康有為は、変法自強運動により自分の領域を犯されると察した袁世凱や西太后のクーデターにあい(戊戌の政変)、梁啓超と共にやはり日本へ亡命した。
これらの戦争による清朝の負担はすべて国民に押し付けられ、それに堪え兼ねた国民たちは義和団と呼ばれる白蓮教系の秘密結社を中心に1899年とうとう武力蜂起する。彼らは扶清滅洋を唱えキリスト教会を焼きはらった。しかしこれが清朝の致命傷となる。在清国民救出の名目で、日本とロシアを中心としてイギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、イタリア、オーストリアの8カ国連合が北京を取り囲み、義和団を打ち破るも、そのまま軍を駐留させる。西太后はなぜか連合国に宣戦布告をしてしまっていたため、北京の光緒帝と西太后を脱出し西安に逃れた。(西太后はそこで贅沢にふけっていた)清朝は連合国と北京議定書を結び、4億5000万両の賠償金と北京に外国の軍隊を置く事を受諾せざるをえなかった。
1905年には孫文が清の国内外の革命勢力を結集し、東京で中国同盟会を結成。機関誌『民報』を通じて革命の宣伝に勤めた。その頃には西太后と光緒帝が相次いで亡くなり、後を継いだのは3歳の宣統帝(溥儀)であった。その後、外国の賠償金を支払うために発した鉄道国有令をきっかけに四川で暴動が発生。武昌でも革命勢力が蜂起し、ここに辛亥革命が起こった。1911年には上海に孫文が帰国。翌年に南京で中華民国臨時大総統に就任し、中華民国の建国を宣言した。これはアジア最初の共和国であった。
その後、清朝の大黒柱であった袁世凱から「大統領の座を譲るならば清皇帝を退位させる」という密文章が届き、孫文はこれを受け入れる。こうして1912年、宣統帝は退位させられ、ここに清朝とともに秦の始皇帝以来2000年続いた中国の皇帝政治が終わった。
掲示板
92 ななしのよっしん
2024/09/29(日) 17:56:03 ID: k5BgMVPMMT
>>61
元の失敗を知っていたから、とか?
93 ななしのよっしん
2024/10/15(火) 00:34:00 ID: wUXExdfKa6
「2000年以上の間、欧州から中国、インドに金、銀が流れていたが、産業革命以降、欧州国家は中国から貴金属を取り返そうとした」
って解説してる動画を観たな。それが本当なら、列強が清(中国)にこだわったのもわかる気もするかも…。
94 ななしのよっしん
2024/11/09(土) 14:27:12 ID: Phhr1P0Ou3
インドと中国の金銀ブラックホールは歴史の謎
ヌルハチというのも相当重要な人だと思うけど目立たないよねえ…
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/01(日) 10:00
最終更新:2024/12/01(日) 10:00
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