高野宏一とは、日本のカメラマン・特技監督・演出家である。日本映画監督協会会員。
概要
1935年8月28日、東京府に生まれる。成城学園高等学校卒。
円谷英二の次男である円谷皐と小学校の同級生だった縁で、1954年に東宝と契約し、1955年『ゴジラの逆襲』にて円谷の元で撮影助手を務める。
この時、ゴジラとアンギラスの格闘シーンの撮影速度を「高速度(スローモーション)」ではなく「微速度(コマ落とし)」に設定してしまったが、その失敗に気付いたのは撮影終了後であった。その責任の重さに思わず号泣したそうであるが、円谷は編集でこの動きを面白がり、怪我の功名として同作では怪獣のアクションに「コマ落とし」が採り入れられたという有名なエピソードがある。
1960年頃にフリーとなり、フジテレビに入社。その後、円谷英二直々に声を掛けられ、1963年設立の円谷特技プロダクションに入社。
1964年、『太平洋ひとりぼっち』で特撮カメラマンデビュー。
『ウルトラQ』の特撮カメラマンを経て、1966年『ウルトラマン』にて特技監督デビュー。昭和の円谷プロ作品では、全監督中最多数の特撮を演出。現在なお語り継がれるテレビシリーズにおける特撮を生み出した。
1970年、円谷プロを辞めて日本現代企画に参加。 1972年に中野稔、飯塚定雄と共にデン・フィルム・エフェクトを設立するが1978年に離脱してフリーに。
1970代末、円谷プロに復帰。1981年に円谷プロの取締役に就任し、1990年代以降の同社作品では、かつての円谷英二と同様監修・スーパーバイザーを務めた。
穏やかな性格で、危険と隣り合わせである過酷な特撮現場では常にスタッフを気遣う人柄だったという。
『ウルトラマン』にてウルトラマンのスーツアクターを務めた古谷敏は高野を「撮影中でも終わった後も、いつも微笑を浮かべて周囲に気配りをしている人だった。特撮はチームワークだと口癖のように言っていて、いつも真剣に話をする映画に対して心熱い人だ」と評している。
八木毅曰く、「とてもオシャレな人」。
『ウルトラマン』の10話・30話、『怪奇大作戦』の13話、『ウルトラマンティガ』の32話では俳優として出演している。
2003年、同社の経営不振と内紛により、他の6人の取締役とともに専務取締役を退任。円谷プロとは裁判沙汰となった。
2008年11月30日、肺疾患のために逝去。73歳没。
主な作品
テレビ
- ウルトラQ(特撮班撮影)
- ウルトラマン(特殊技術)
- ウルトラセブン(特殊技術)
- 怪奇大作戦(特殊技術)
- 帰ってきたウルトラマン(特殊技術)
- ミラーマン(特殊技術)
- ウルトラマンA(特殊技術)
- アイアンキング(特殊技術)
- ジャンボーグA(特殊技術)
- スーパーロボット レッドバロン(監督)
- ウルトラマンタロウ(特殊技術)
- ウルトラマンレオ(特撮技術)
- スーパーロボット マッハバロン(監督)
- 日本沈没(特殊技術)
- それ行け!カッチン(特撮監督)
- 恐竜探険隊ボーンフリー(監督)
- ふしぎ犬トントン(特殊技術)
- 西遊記(特撮監督)
- メガロマン(特撮監督)
- ウルトラマン80(特撮監督)
- アンドロメロス(特撮スーパーバイザー)
- 電光超人グリッドマン(特撮監修)
- ウルトラマンティガ(監修・特技監督)
- ウルトラマンダイナ(監修)
- ウルトラマンガイア(監修)
- ウルトラマンコスモス(監修)
映画
- ゴジラの逆襲(撮影助手)
- 地球防衛軍(撮影助手)
- キングコング対ゴジラ(ゴジラとコング、大ダコの人形アニメート)
- 太平洋ひとりぼっち(撮影)
- ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団(監督)
- ウルトラマン物語(監督)
- 甦れ!ウルトラマン(オリジナル特撮監督)
- ウルトラマンゼアス(監修)
- ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち(監修)
- ウルトラマンティガ・ウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦(監修)
- ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY(監修)
- ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT(監修)
- ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET(監修)
- ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET ムサシ(13才)少年編(監修)
ビデオ
関連チャンネル
関連商品
関連項目
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