キューバ危機とは、下手をすれば世界的な核戦争が起こっていたかもしれない1962年の出来事である。
概要
アメリカ合衆国とソビエト連邦(ソ連)が中心となって資本主義国・社会主義国が対立する冷戦の時代に起こった出来事。
ソ連がアメリカ合衆国の南にある島国のキューバに、核ミサイルの発射基地を建設したことをめぐり「キューバ危機」が起こった。この基地から発射されるミサイルはアメリカ合衆国のニューヨークなどが射程圏内に入っており、万が一にもミサイルが発射されれば、両国が持っている核兵器を投入した大規模な核戦争が起こる可能性があった。
交渉の末にケネディ合衆国大統領はソ連と取引を行い、キューバから核ミサイルは撤去された。これ以降のアメリカとソ連の関係は「デタント」と呼ばれる、緊張が緩和した期間に入っていく。
キューバ危機の前(キューバ革命)
キューバ危機のときにはソ連との関係が強かったキューバだが、もともとキューバは1930年代から親米のバティスタによる独裁政権が続いていた。キューバ国内ではアメリカ資本によってサトウキビのプランテーション農園が作られた。さらに、サトウキビから生産された砂糖の利益はアメリカ資本が独占しており、農園労働者は貧しい生活を送っていた。
この状況を覆すために、1959年にフィデル・カストロやチェ・ゲバラらがキューバ革命を起こし、農園労働者を解放した。さらにキューバはソ連に接近し、社会主義国となった。これを受けアメリカ合衆国はキューバと対立し、1961年にはケネディ大統領(ジョン・F・ケネディ)により、キューバとの外交関係は断たれた。
当時、ソ連側は核兵器の数においてアメリカ合衆国と比べて劣勢であり、ソ連共産党第一書記のフルシチョフは、それを上回る手段として、キューバへの核兵器配備を検討し始めた。
危機の発生
CIAのミサイルに関する情報を受け、1962年10月16日にアメリカ軍の偵察機U-2がキューバに出向き、建設中の基地、ならびにミサイルを発見した。アメリカ合衆国政府の上層部は「空爆」「上陸侵攻」などを含む複数の手段を検討した。
結果としてキューバに入る貨物船に対して海上での監視・検問を行い、従わない場合は武力攻撃も行う「海上封鎖」がとられた。同時にキューバ周辺はアメリカ軍で増強され、一時は臨戦態勢に入り、緊張が一層高まった。26日にはデフコン2(アメリカの防衛準備態勢の上から2番目)となり、核戦争を懸念した多くのアメリカ人が食料と水を求めスーパーマーケットに集まった。
当時のアメリカとソ連の間の通信手段は主に書簡であり、すぐにリアルタイムに会話できる通信手段はなかった。電話は技術としては存在していたが、両国政府を直接結ぶ電話線はなかった。そのため、書簡でのやり取りをしている間に行き違いで、または何らかの出来事があってミサイルが発射される危険性もあった。例えば、
- キューバ上空のU-2が撃墜され、アメリカ軍による報復攻撃が検討(27日)
- ソ連の潜水艦に対して、実際にその潜水艦が核兵器を搭載していると知らずに爆雷を投下(27日)
- 誤って沖縄の米軍にソ連への核ミサイル発射命令が出される(28日未明/注:当時の沖縄はアメリカ領)
など、判断を誤って戦争になりうる局面がたびたびあった。いずれも現場の判断などにより回避されている。
このような相手が何を考えているのかわからない状況の中、両国の首脳は、相手がどう出るかを手探り状態でやり取りすることになった。
危機の回避
1962年10月27日、ケネディ大統領は弟のロバート・ケネディを通じてドブルイニン駐米ソ連大使に、これまでに提案した条件(アメリカはキューバへ侵攻しないという保証)に加え、トルコに配備されているジュピター・ミサイルを撤去する用意があると伝えた。もっとも、この取引そのものは秘密にされ、同盟国はおろかアメリカ議会にも知らされなかった。[1]
28日、フルシチョフがラジオ放送で「アメリカがキューバに軍事侵攻しない」という条件と引き換えに、キューバのミサイル撤去を決定したとアナウンスした。その後、11月にはミサイルが撤去され、キューバ危機は回避された。
その後の米ソはデタントと呼ばれる緊張緩和の関係に入り、万が一のときのために両国政府の間にはホットラインと呼ばれる電話線が設置された。
ただし、フルシチョフの姿勢が社会主義圏では「妥協」と解釈されることもあり、フルシチョフの失脚の一因となった、以前からあった中ソ対立が高まったとも言われる。特にキューバはフルシチョフのミサイル撤去の決定に関わることができなかったため、カストロやゲバラもソ連に対して不信感を持つようになった。
関連動画
関連項目
脚注
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