セオドア・ブリュースター・テイラー(Theodore Brewster Taylor)とは、アメリカの誇るキ○ガイ技術者である。米本国ではテッド・テイラーのほうが通りがいいらしい。
歴史に出てくるまで
本人曰く、7歳で爆発のとりこになったんだとか。少年時代、母親から「ニトログリセリンだけは作らないでくれ」といわれていたのでそれ以外の火薬を合成して遊んでいたという。
海軍に従事していたとき、広島で原爆を使ったというニュースを聞く。テイラーは天啓と思い、軍を除隊すると母親を振り切り、妻子連れでロスアラモスに移住。核爆弾の設計・開発の仕事に就く。
ロスアラモス時代
その功績からは信じられないが、彼がロスアラモスにいた期間は1948年から53年と短い。その間、アメリカが開発した最大の原子爆弾“Mk18”の開発に係った後は核兵器の小型化・低出力化に取り組むようになる。
彼の代表作はデイビー・クロケット携帯核無反動砲の核弾頭“W54”だが、そのほかにもアトミックキャノンの核弾頭“W9”や“W19”、155mm榴弾砲用核弾頭“W48”、203mm榴弾砲用核弾頭“W33”が彼の作品。彼曰く、「やろうと思えばM60戦車の105mm砲で撃てる核砲弾だって設計できるぜ」。後で出てくる物理学者フリーマン・ダイソン[1]は彼の仕事をこう評している。
1952年の核実験では核の炎でタバコに火をつけるという暴挙を達成。ちなみにこのときのタバコはすぐ火を消して大切に保存してたとか。
ところが1953年、ロスアラモス研究所を退所してしまう。その後彼が何をしたかと言うと。
のである。
後半生
ロスアラモス退所後さっき出てきたダイソンと組んで核パルス推進宇宙船建造計画『オリオン計画』を進める、というよりオリオン計画のためにやめたっぽい。しかし部分的核実験禁止条約(1963年発効)により宇宙での核実験を禁止され頓挫してしまう。このときは相当悔しかったようだ。
また、原子炉操作の練習に使う学習用原子炉“TRIGA”(これもダイソンがリーダーになって設計していた)の開発にも係っている。TRIGAは大学や企業における原子炉操作練習用原子炉のベストセラーになり、全世界に300基以上が設置された。ちなみに日本でも武蔵工業大(現・東京都市大学)や立教大学に導入されたがどちらも現在は廃炉。
その後はIAEA(国際原子力委員会)のコンサルタントを務めたり国防総省で核軍縮のために働いたり、核の代賛エネルギーの相談を受け付ける会社を作ったりしている。本人曰く、
「あまりに簡単に核爆弾が作れるので、テロや精神異常者が核爆弾を作るかと思うと怖くなった」(※意訳)
そんなに簡単に作れるのはあんただけや!
1998年に離婚してしまい、晩年は少々さびしかったようだ。2004年、79歳で天寿を全う。最後に、彼と長い間ビジネスパートナーだった人物の言葉で締めさせてもらう。
「極少数の人だけがテイラー並みのひらめきを持って生まれてくる。彼は私の会った人間の中で、もっとも偉大な男である。そして彼のような人物は私の知る限り、歴史上にも存在しない」
関連動画
彼自身の動画はないけど、彼の作品についての動画はあるのでご覧ください。
代表作、デイビー・クロケット。
関連項目
脚注
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