ジョン・フォン・ノイマン(英:John von Neumann, 洪: Neumann János Lajos, 独:Johannes Ludwig von Neumann)(1903年12月28日 - 1957年2月8日)とは、ハンガリー出身の数学者である。
恐らく人類史上最高の天才の一人であり、本業の数学のほかに物理学・計算機科学・気象学・経済学・心理学・政治学などに影響を与えた。驚異的な計算能力と特異な思考能力から、「火星人」「悪魔の頭脳」などと評されることもある。
概要
1903年12月28日にユダヤ系ドイツ人の銀行家の息子として生まれる。
幼少期より語学と暗算の才能を発揮し、英才教育を受ける。数学分野では6歳で8桁の割り算を行い、8歳で微分積分をマスターし、語学においては6歳でギリシャ語を話せたとのこと。また、12歳の頃には関数論の教科書を読破した。因みに、関数論は大学の1年生や2年生がうんうん唸りながら読むような本である。
1914年にギムナジウム(日本で言うところの中高一貫校のようなもの)に入学し、1921年に首席で卒業。ギムナジウムの先生から「数学の才能があるので数学科に進学してはどうか」と言われた一方で、父からは「数学より儲かる学問を勉強させたい」との意向があった。色々あった結果、ブダペスト大学の数学科に進学しつつベルリン大学とチューリヒ連邦工科大学を掛け持ちして化学工学を学ぶことになった。授業を欠席してはいたものの試験の成績は非常に良く、23歳で数学・実験物理・化学の博士号を同時に授与された。
ヒルベルトに論文が認められるなどして、1927年に最年少でベルリン大学の私講師となるが、1930年にアメリカへ移住。プリンストン高等研究所のメンバーとなり1933年以降同研究所教授を務めた。因みに、当時のプリンストン高等研究所のメンバーは4人だったが、フォン・ノイマン以外のメンバーは、設立を企画したエイブラハム・フレクスナーと相対性理論で有名なアルバート・アインシュタイン、及び不完全性定理で有名なクルト・ゲーデルであった。尚、エイブラハム・フレクスナーは物の本ではよく「4人のうち2人はアインシュタインとゲーデルだった」と書かれたり、兄のサイモンが野口英世と共同研究をしていたため日本での知名度では兄に負けているなど、なんとも不遇な人である。
また、マンハッタン計画にも参加しており、1950年代以降は空軍のコンサルティングやアメリカ政府の相談役を努めた。1957年2月8日に癌で死去。マンハッタン計画や核実験見学などの際に浴びた放射線が原因とされる。
主な業績
数学ではゲーム理論の基礎を確立し、ミニマックス定理を証明した。また、ゲーデルとは独立に第二不完全性定理を発見した。その他には、公理的集合論の正則性公理を提案した。
物理学では量子力学に数学的基礎付けを与え、コペンハーゲン解釈の確立に多大な影響を与えた。
計算機科学ではEDVAC開発チームのジョン・エッカートとジョン・モークリーの発想したストアードプログラム方式に数学的基礎を与えたため、ストアードプログラム方式の考案者の一人とされる。今日この方式は「ノイマン型コンピュータ」と呼ばれている。また、セルオートマトンを考案し、方眼紙とペンだけで自己増殖の事例を示した。マージソートの発案者ともされている。その他としては、数値流体力学の分野で「人工粘性」という概念を発明し、精度の高いコンピュータシミュレーションの実現に貢献した。
気象学では気象力学の草分け的存在の一人であり、気象予測に数理モデルとコンピュータを利用する手法を持ち込んだ。
逸話
- IQ300以上だったのではないかという疑惑がある。
- 電話帳のページを適当に開いてほぼ一瞬で数の総和を計算する遊びをしていた
- ある日、水爆の効率概算の計算で、フォン・ノイマンはフェルミ、ファインマンと計算の速さを競った。その際フェルミは大型の計算尺を使い、ファインマンは卓上計算機を使い、フォン・ノイマンは天井を向いて暗算した。結果、ノイマンが最も早く正確な値を出した。
- ENIACとも計算の速さを競い、ENIACに勝利した。「俺の次に計算の早い奴が出来た」と喜んだとか。
- ノーベル賞を受賞することはなかったが、フォン・ノイマンが発案したゲーム理論は経済学分野で多くのノーベル賞受賞者を生んだ。また、「フォン・ノイマンがノーベル賞を受賞できなかったのは、ノーベル賞の受賞資格に「人間であること」とあったからだろう」というジョークが作られた。
- とある大学の数学者がとある問題を3ヶ月苦心して解いた。狂喜乱舞した数学者は、フォン・ノイマンに聞いて貰おうと、フォン・ノイマンの家へ飛んで行った。フォン・ノイマンが扉を開けるなり数学者は問題をフォン・ノイマンに説明したが、暫くしてフォン・ノイマンはそれを遮って考え込んだ。数分後、フォン・ノイマンは数学者に「君が出した結論は…(中略)かい?」と尋ねた。フォン・ノイマンが数分で出した結論は、数学者が3ヶ月の苦心の末に出した結論そのものであった。
- マンハッタン計画に参加し、爆縮レンズの設計に従事した。また、原爆投下に際し、京都への原爆投下を進言したことでも知られている。これらのエピソードから、スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』の登場人物の一人のモデルとされることがある。
- 極端な暴食をすることがあり、「計算は出来るのにカロリーだけは計算できない」と評された。
- 興味が無いものには全く無関心で、数十年住んだ家の食器の位置も、昨日あった人の名前すらも覚えていなかった。
- 後にノーベル経済学賞を受賞したジョン・ナッシュのナッシュ均衡に関する論文を一目見て、「くだらない。不動点定理の応用ではないか」と評した。
- クルト・ゲーデルの不完全性定理を、ゲーデルの次に理解した人物とされる。ゲーデルについては例外的に尊敬して居り、高く評価していた。また、アインシュタインについては「私のことを天才という人がいるが、周知の真の天才がいる。それはアインシュタインである」と評している。
- 下品なジョークを好み、女性の脚をしつこく眺めるのが好きであった。
- 晩年には癌が脳にまで転移し、3+4の計算すら出来なくなっていた。
- あまりの天才振りに、死後「彼は人間の振りをするのが非常に巧い悪魔だったが、余りに上手過ぎて自分を人間だと思い込んでしまった」というジョークが口にされた。
関連動画
関連項目
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