ユリアヌス / フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(331~363)とは、ローマ皇帝である。
概要
ガリア周辺を取りまとめ西ローマ帝国を再編しようとしたコンスタンティヌス家の最後の輝き。とはいえもはや現在では背教者が最初に来てしまう人物である。
コンスタンティヌスの後継者たち
コンスタンティヌス帝の死後、残された3人の息子のコンスタンティヌス2世、コンスタンス1世、コンスタンティウス2世はそろって正帝となった。とはいえ、皇帝の空位期間中にコンスタンティノープルで反乱がおき、コンスタンティヌスの甥・デルマティウスとハンニバリアヌスが殺されているなど、決してスムーズなものではなかった。
コンスタンティヌス2世がブリタニア、ガリア、スペイン、コンスタンスがその他のヨーロッパ、コンスタンティウス2世が東部におおよそ分かれ、これで万事がうまくいくはずだった。
ところが340年という3年もたたないうちに、コンスタンティヌス2世がイタリアに侵攻し、敗死するという事態が起きる。さらに350年にコンスタンスが政争の余波で殺され、マグネンティウスが簒奪を行う。これに対しコンスタンティウス2世が反撃に出、再度帝国は統一されたのであった。
正帝・ユリアヌスの即位
コンスタンティウス2世はこの事態に政権共有者を求め、又従弟・ユリアヌスを355年にアテネ留学から呼びつれ、ガリア州とライン川流域を任せる。これに対しユリアヌスは防衛どころか税制改革まで見事にやってのけ、人気を博してしまったのである。コンスタンティウス2世はこれに驚き、ユリアヌスの力をそごうとするが、軍隊がユリアヌスを正帝につける。かくしてコンスタンティウス2世とユリアヌスの決戦かと思いきや、コンスタンティウス2世はあっけなく亡くなり、ユリアヌスが単独皇帝になったのである。
以後のユリアヌスの治世は本人とマルケリヌスがよくまとめている。帝国の変容に柔軟に対応し、ガリア地域を中心に新たな機構を整えようとしていく。一方でローマの伝統的な信仰を復活させたが、別にキリスト教を弾圧させたわけではないのは注意である。
かくして行政改革を進めていったユリアヌスであったが、363年のメソポタミア侵攻中に傷を負ったのかあっけなく亡くなってしまう。コンスタンティヌス家の治世は終わり、司令官のヨウィアヌスが皇帝になるとササン朝と講和して退却した。
西ローマ帝国の終焉
ウァレンティニアヌス家の治世
ところが、このヨウィアヌスも帰還中にあっけなく死ぬ。枢密会議の結果、ウァレンティニアヌス1世というパンノニア人の士官が皇帝となり、東部は弟のウァレンスが任された。彼らはキリスト教びいきの知識人嫌いだったとされ、同郷人ばかり取り立てたといわれている。
ところが、375年に使者との謁見中にウァレンティニアヌス1世は憤死する。長男のグラティアヌスが後を継ぐが、実務能力が怪しかったので異母弟のウァレンティニアヌス2世も皇帝となった。378年にはウァレンスが西ゴート族、東ゴート族の連合軍に敗死し、東方はフラウィウス・テオドシウスが皇帝テオドシウス1世に任じられた。テオドシウス1世はキリスト教のみに傾倒し、またゲルマン民族と折り合いをつけて彼らを軍事力に取り込んだのであった。
西方ではグラティアヌスの不人気からブリタニア軍が383年にマグヌス・マクシムスを皇帝にし、グラティアヌスは殺されてしまう。しかし結局マグヌス・マクシムスも殺され、西方はウァレンティニアヌス2世のものとなったのである。
ところが、392年にそのウァレンティニアヌス2世もアルボガストに殺され、ウァレンティニアヌス家は断絶した。アルボガストもエウゲニウスを皇帝にしたが、テオドシウス1世に敗れたのであった。
テオドシウス朝の動揺
395年にテオドシウス1世が亡くなると、東方をアルカディウス、西方をホノリウスに分割した。ホノリウスの帝国にはアラリックに率いられた西ゴート族が襲い、これにスティリコが対処する。アルカディウスの宮廷はラヴェンナにあったが、ローマの陥落は一大事件であった。すでに帝国にはブリタニア・ガリアのコンスタンティヌス3世、イベリアのマクシムス、イタリアのアッタロスといった自称皇帝が多数現れるガタガタ具合であった。
一方東方のアルカディウスも408年にあっけなく死に、息子のテオドシウス2世の姉プルケリアと妻のエウドクシアが政争をくり広げていた。プルケリアがこれに勝利した一方で、テオドシウス2世はテオドシウス法典とテオドシウス帝の城壁を残した。
こんな状況で、423年にホノリウスが死ぬ。西にも進出しようとするテオドシウス2世が動こうとするが、ホノリウスの甥・ウァレンティニアヌス3世とその母親・ガラ・プラキディアが彼を説得する。幼児だったウァレンティニアヌス3世は母親と将軍・アエティウスに支えられるが、成長したウァレンティニアヌス3世はアエティウスを暗殺。しかしウァレンティニアヌス3世も455年にその逆襲を受け逆に殺されてしまった。テオドシウス2世も450年に落馬で亡くなっており、王朝が再び断絶したのであった。
かくして滅亡へ
ウァレンティニアヌス3世の後を継いだのは、資産家のペトロニウス・マクシムスという男であった。ところがヴァンダル族の攻撃であっけなく死に、ガリアでアウィトゥスが皇帝となった。彼は西ゴート族のテオドリック2世の友人で、彼の力で皇帝となったのである。しかし456年にリキメルの反乱で死に至ってしまう。
リキメルはマヨリアヌスを東ローマ帝国のレオ1世に皇帝に認めさせるが、マヨリアヌスの強大化を見たリキメルがこれを殺し、リビウス・セウェルスをセウェルス3世として即位させる。しかしもはやゲルマン民族の侵攻にすら対処できず、セウェルス3世の死後レオ1世はアンテミウスを皇帝にさせるが、ヴァンダル族との戦いに勝てなかった彼はリキメルに処刑された。
リキメルは新たにオリブリウスを皇帝にするが、472年についにリキメルが死に、オリブリウスも死んだ。跡目にはブルグンド族のグンドバッドがグリケリウスを付けたものの、東ローマ帝国のゼノン1世がユリウス・ネポスを担いでローマに侵攻し、これを皇帝にする。
ところが475年に司令官オレステスが皇帝になり、息子のロムルス・アウグストゥルスを共同皇帝にする。とはいえもはや彼らに実権はなく、オドアケルがオレステスを追い出し、ロムルス・アウグストゥルスは476年に退位し、もはやいつ死んだかも定かではない。これが最後の西ローマ皇帝であった。
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