わかりにくいが、ローマ帝国と西ローマ帝国あるいは東ローマ帝国は別の国家というわけではなく、これらは全てローマ帝国と名乗っていたことに注意を要する。つまり、日本の西部地域と東部地域が東日本と西日本であるように、ローマ帝国の西部地域と東部地域が西ローマ帝国と東ローマ帝国なのであって、これらは当初、統治者も領民も別々の国であるという意識はなかった。
なのだが、時代が進むにつれて、地中海全域を覆った版図が、すべて合わせて一つのローマ帝国であるという意識が失われた結果、西ローマ領域において、東ローマ帝国と対比しうる「西ローマ帝国」なる帝国、帝権があるかのように見做されるようになる。
西ローマ帝国は一つの国として見れば476年あるいは480年に滅亡したが、元老院などの諸要素は6世紀まで存続していた。西ローマ皇帝位もまた形式上存続しており、こちらの歴史については『東ローマ帝国』や『フランク王国』、および『神聖ローマ帝国』を参照。
概要
ローマ帝国はその統治領域が広大になるにつれ、遠隔地の統治や敵の侵入に対処できないという問題が起こった。このため、属州は属州総督が統治していた。
然し、一属州総督では、ゲルマン民族やパルティアと言った強大な敵に対し十分な手を打つことは出来なかった。また、これら国境の属州には大兵力が用意されており、これらは政治的に強い意味合いを持つようになった。つまり、ローマ皇帝は西方、東方の二方面の軍隊を統御して、双方の国境を安定する必要があった。勿論、一人の人間が二箇所に同時にいることは出来ないので、歴代の統治者達はこの問題に頭を悩ませた。
結果としてローマ帝国は、複数の皇帝による共同統治という体制を敷くようになった。また、ローマは政治的動乱の度に、分割統治と統合を繰り返した。これは上記に理由に加え、統治者達の政治的駆け引きや内乱の混乱からも引き起こされたものだった。
395年、ローマ皇帝テオドシウスが自身の死に際し、2人の息子(アルカディウスとホノリウス)をローマ帝国の東部地域を担当する東ローマ皇帝と西部地域を担当する西ローマ皇帝とに配置したのも、幾度となく繰り返されたローマ帝国の分割の歴史の一齣に過ぎない、はずだった。
西ローマ帝国は統一時代から既に帝国東方に比して経済、即ち農業生産が振るわず、高級作物への転換が為されていたが、この結果、主食である小麦は属州に依存することとなる。然し、帝国末期には蛮族が属州はおろかイタリア本土、ヴァンダル族には地中海への侵入を許すこととなる。さらにはおよそ800年ぶりにローマが略奪される状況に至り、農場は次々に放棄され、西ローマ帝国の財政は一気に悪化した。それに応じて、軍事や統治はますます困難となった。西ローマ帝国内には、結果として蛮族による王国が相次いで乱立することとなった。
475年、西ローマ帝国の将軍オレステスが西ローマ皇帝ユリウス・ネポスを追放し、息子のロムルス・アウグストゥルスを西ローマ皇帝として即位させる事件が発生した。これに対しローマ帝国の共同統治者であった東ローマ皇帝ゼノンはロムルス・アウグストゥルスを西ローマ皇帝として認めず、ユリウス・ネポスこそが真の西ローマ皇帝であるとしてネポスの活動を全面的に支援した。
将軍オレステスは翌476年に東ゴート族の傭兵隊長オドアケルによって殺害され、オドアケルはロムルス・アウグストゥルスに西ローマ帝国の帝冠を東ローマ皇帝ゼノンへ返上させた。オレステスを討伐したオドアケルは、ゼノンが支援する西ローマ皇帝ユリウス・ネポスに忠誠を誓い、ローマ帝国のイタリア王に任命された。
しかし、このユリウス・ネポスも480年には暗殺されてしまい、イタリア本国は東ゴート王国に専有される形となった(一応、同王国は名目上はローマ帝国の一員であった)。西ローマ皇帝の位は東ローマ皇帝ゼノンが有する形となり、ここに、古代ローマ帝国から連続する西ローマ帝国は、国や勢力としては完全に滅亡した。一般に「西ローマ帝国の歴史」とされるのはここまでである。
諸要素の存続
しかし、西ローマ帝国のいくらかの構成要素はその後も残存し続けた。
これ以降もイタリアはローマ帝国の一部として、帝国が任命するイタリア王が統治するという形式をとった。また、西ローマ帝国の元老院や、西ローマ帝国の名目上の国家元首である執政官も依然として存在していた。加えて、東ローマ帝国が東西ローマ皇帝位の双方を保持する立場をとったため、西ローマ皇帝の位もまた名目上は存続した。それ故、仮にこれらの点を西ローマ帝国の国体として見るならば、6世紀前半においても、西ローマ帝国は存在したことになる。
その後
しかし、541年に東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が共和制ローマ時代から続いた執政官制度を廃止すると、東ローマ皇帝の選出に大きな発言力を持っていた西ローマの元老院も、その発言力を急速に失っていく。
ユスティニアヌスはまた、イタリアの東ゴート王国と西北アフリカのヴァンダル王国を滅ぼすなどして、6世紀半ばまでに旧西ローマ帝国領域を奪還するが、特にローマ市を強引に陥落させたため、同地はことごとく荒廃した。一説には当時のローマ市の人口は500人ほどにまで減少したとされ、ローマ再興に期待していた人々は東ローマ帝国に大いに幻滅したという。ここに共和制ローマ時代から続く元老院とローマの市民という社会は完全に崩壊し、西ローマ帝国は名実ともに滅んでしまった。
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関連項目
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- 世界史
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- ローマ帝国
- 東ローマ帝国
- アングロサクソン七王国
- ヴァンダル王国
- ブルグント王国
- オドアケルの王国
- スエビ王国/スエボス王国/ガリシア王国
- 西ゴート王国
- 東ゴート王国
- フランク王国
- カール大帝
- 神聖ローマ帝国
- 現存しない国の一覧
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