中山恭子とは日本の政治家。前参議院議員。自由民主党、日本のこころ、希望の党などに所属した。
第25回参議院議員通常選挙(2019年7月21日実施)に出馬せず、政界引退。
概要
群馬県立前橋女子高等学校を経て東京大学文学部仏文学科を卒業。大学卒業後、一年間の研究生活を送る。一時外務省に勤務したが、東京大学法学部へ学士入学する。1965年国家公務員採用上級甲種試験(経済職)に合格し1966年に大蔵省に入省。のちに夫となる中山成彬は大蔵省時代の同期である(他に武藤敏郎、中島義雄、長野庬士(元大蔵省証券局長)などがいる)。なお、東京大学法学部は中退している。
国際通貨基金派遣職員、大蔵省大臣官房調査企画課、大臣官房企画官、東京税関成田税関支署長を経て、1989年6月に大蔵省初の女性課長(理財局国有財産第二課長)に就任。1991年6月には女性初の地方支分部局長として四国財務局長に就任し約2年間を高松で過ごす。女性官僚の草分け的存在になるも、大臣官房参事官兼大臣官房審議官を最後に1993年9月退官。
退官後、国際交流基金常務理事を経て、1999年7月、特命全権大使(在ウズベキスタン及び在タジキスタン)に就任。その直後の1999年8月23日、隣国キルギスの南西部オシェ州で日本人鉱山技師4人を含む7人がIMU(ウズベキスタン・イスラム運動)と見られるウズベキスタン反政府武装グループに拉致される事件が発生する。キルギス政府に交渉を一任せよとの外務省の方針に背き、救出劇の先頭に立った。武装グループに対して影響力を持つタジキスタン政府や関係者を通じて交渉・説得を行い、人質の解放に成功する。
大使退任直後の2002年9月拉致被害者家族担当の内閣官房参与に就任、翌月北朝鮮に拉致被害者5人を出迎えた。それ以降も拉致問題に尽力し、安倍晋三と並び拉致被害者家族会の信頼は最も厚かったが、2004年9月に任務を果たし終えたとして辞任した。
2006年9月26日、第1次安倍内閣の内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に任命される。同時期に政府に設置された拉致問題対策本部の事務局長に就任。
2007年7月に第21回参議院議員通常選挙へ自由民主党から比例区で立候補し、385,909票を獲得して党内得票数第3位で当選した。同年8月27日に発足した第1次安倍改造内閣で留任、同年9月7日に拉致問題対策本部事務局長職を離任した。同年9月26日に発足した福田内閣でも内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に再任。11月15日、町村派に入会。
2008年、福田康夫改造内閣にて、内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)として初入閣を果たした。さらに、福田康夫改造内閣では、特命事項として拉致問題担当と公文書管理担当が発令され、国務大臣として同時に兼任することとなった。以降は大臣として拉致問題の解決を担当したが、およそ1ヶ月後の内閣総辞職にともない内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)および拉致問題担当、公文書管理担当を退任した。
同年9月24日に発足した麻生内閣では中山の入閣は見送られ、拉致問題担当の特命事項は内閣官房長官の河村建夫が兼任することになった。拉致問題担当の国務大臣に中山を任命しなかったことに対して総理大臣官邸に批判が殺到したため、中山は内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に再任された。
2009年、夫である中山成彬が第45回衆議院議員総選挙にて宮崎県第1区から立候補した。成彬は以前引退を表明していたことから、自由民主党宮崎県支部連合会は上杉光弘の擁立を決定しており、両者とも党本部の公認が得られぬまま激しい選挙戦が展開された。恭子は選挙対策総本部長に就任しサポートしたが成彬は落選し、さらに恭子の秘書2名が公職選挙法違反容疑で書類送検された。
2010年6月18日、夫・成彬が同年7月におこなわれる予定の第22回参議院議員通常選挙にたちあがれ日本から出馬することが確実になったことを受け、「夫を支援するため」として、自民党に離党届を提出し、6月21日、夫と共にたちあがれ日本へ入党した。
2012年11月、たちあがれ日本が太陽の党と改称し、さらに日本維新の会へ合流したことにともない日本維新の会所属となった。
2013年7月に第23回参議院議員通常選挙へ比例区で立候補し、306,341票を獲得して党内得票数第2位で2回目の当選。
2014年8月に日本維新の会が分党し、次世代の党所属となる。
2015年10月に次世代の党代表となり、同年12月には党名を日本のこころを大切にする党、2017年2月には日本のこころに改称した。
2017年9月には、無投票で代表に再任されたが、同月、夫・成彬とともに希望の党への参加を表明した。
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