「介子推」(かい・しすい ? ~ BC636)とは、中国の春秋時代の覇王となる重耳(晋文公)の19年に渡る流浪生活を支えた陪臣の一人であり、重耳が晋の王となった際に、天命により王になるまでを支えた誇りを栄誉として、恩賞も俸禄もうけとらずに隠棲した忠臣。
名は「介推」で「介之推」とも書く。また中国では忠節と志の高さに対する尊敬の念から「介子」と言う尊称でも呼ばれる。
概要
介子推は、重耳が父・献公の寵姫である驪姫が自らの子を太子にすべく暗躍して兄を自決させた際に、家督争いを避けて19年間もの放浪生活を送る際の、スタート時から仕えた5人の賢人
には含まれておらず、いつのころより重耳に仕えたかも解っていない。
「十八史略」では、流浪の旅の途中で飢えた重耳に、自らの腿の肉を切り取ってスープにして食べさせた逸話が書かれているが、それ以外に流浪の旅の最中にどういったことを行っていたかの詳細は残っていない。
※宮城谷昌光の小説「介子推」では、棒術の達人で、実弟の恵公から重耳の元に送られた暗殺者と戦って守り通す武人として登場する。
19年の放浪生活の後に、晋の王として帰国する事になった重耳が晋に入ろうとした時に、重臣の狐偃(咎犯)が、
私の役目はここで終りです。
今まで私が犯した無礼の数々をお詫びしここで去ります。
と言って暇乞いを願い出たが、重耳は、
もし国に帰って遠ざけるようなことがあったら黄河の神が御照覧あろう。
と、即位後も流浪時代の家臣を重用する誓いを黄河に璧を投げ込んで立てた。
その様子を見ていた介子推は、重耳が王になったのは天意であり、自分達はその天意を19年間支え続けてきたに過ぎないのに、狐偃(咎犯)はまだ晋に入ってもいない時から恩賞をせびっているのは、天意を否定する恥ずべき行為であり、
私は彼らと同じ席に名を連ねる事は出来ない。
として、19年間の放浪生活を支えたと言う誇りを胸に、密かに重耳の一行より離れ、老母と共に山に隠棲した。
晋に帰国して正式に王となった重耳は、功臣達に恩賞を与えたり、政務におわれて介子推が去ったことに気づかず、無論、介子推には恩賞が与えられず、その事について意思表示をしないのかとする老母に対して介子推は、
人の事を貶めておきながら、今更自分もそれに従う様な罪深い事は出来ないし、自分から言い出した事なので禄をいただく事は出来ない。
と答えた。
しかし、介子推の従者を務めていた人物がこの状況を哀れみ、
龍欲上天 (龍は天に上らんと欲し)
五蛇為輔 (五蛇は為を輔す)
龍已升雲 (龍はすでに雲に昇り)
四蛇各入其宇 (四蛇は各々自らの宇に入る)
一蛇獨怨 (一蛇はひとり恨み)
終不見處所 (その居所を見ず)
龍は天を望み5匹の蛇がそれを助けた。
今龍は天に上ることができ、4匹の蛇もそれぞれいるべき所にいる。
だが、1匹の蛇だけひとり恨みいるべき所もない。
との書札を宮門にかけ、これを見た重耳は介子推を忘れていた事を思い出した。
介子推に恩賞を与えようとした重耳だったが、すでに介子推は山に籠もって隠者の生活を送っており、山から二度と出てくることはなかった。
重耳は、介子推が隠遁生活を送る山を所領として与え、山の名を介山と改め、
我が過ちを銘記し、善人を表彰する
ことにして介子推を讃えると共に、忠臣に去られる過ちを繰り返さぬよう心にした。
※その他「介子推」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
「東周列国志」や「十八史略」では、介子推にどうしても会いたくなった重耳が、逃げ道ひとつを残して介子推の籠もる山に火を放つと言う「ちょ、おま・・・」な行為に走った。
※そういえば三国志でも諸葛亮の草庵を訪ねた張る飛が火をつけようとしてたっけ。
逃げ道から介子推が現れる事を待ちわびた重耳 だったが、3日3晩の間燃え続けても介子推は現れず、後に、古木の中で老母と抱き合って焼死している介子推の遺体が発見された。
重耳は愚行を恥じ、人々は自らの信義を貫いた介子推を讃えて清明節の前日に火を使わずに冷たい食事のみをとった事が寒食節になったと言われている。
※なお、この放火野郎の重耳が、後に斉の恒公と並ぶ春秋戦国時代の二大覇王となる晋の文公その人だったりする。
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▼宮城谷昌光仕様の棒術の達人として登場する架空戦記「春秋戦国三国志」
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