松本幸四郎とは、日本の歌舞伎役者の名跡である。屋号は高麗屋。
家柄としては市川團十郎家と縁が深く、初代は二代目團十郎の門弟であり、團十郎を名乗るまでの継ぎの名前として襲名したり、幸四郎家から團十郎家へ養子が入ったりと言った関係がある。幸四郎の前の名・染五郎の姓が市川であるのはそのためである。
現在では日本舞踊・松本流の宗家でもある。
歴代の松本幸四郎(初代から六代目)
松本幸四郎(初代)(1674~1730)は二代目市川團十郎の門弟から出世した。
松本幸四郎(二代目)(1711~1778)は初代の養子で、後に四代目市川團十郎、三代目市川海老蔵を襲名する。
團十郎を長男に譲った後、海老蔵を名乗るまでは「二代目松本幸四郎」に復していた。
松本幸四郎(三代目)(1741~1806)は二代目の長男。
後に五代目市川團十郎、市川鰕蔵。
詳細は市川團十郎の項目を参照。
松本幸四郎(四代目)(1737~1802)は二代目(四代目團十郎)の門人から出世。
東洲斎写楽の浮世絵で一度は見た事がある人は多いはず。
のちの七代目と同じく門閥外から幹部に出世した実力者。
二代目、三代目譲りの実事に加え和事の芸を得意とした。
だが、この人の最大の特徴はあまりにもアクが強い性格であった。
三代目に習って自分の息子(五代目幸四郎)を團十郎にしようとあちらこちらで五代目團十郎の女性関係を吹聴した。
そのせいで温厚な性格であった團十郎をキレさせてしまい、舞台で芝居の途中で團十郎がその事を暴露した…。
その為、幸四郎は当時出ていた中村座を退座(解雇)されるハメとなった(團十郎は森田座へ移籍)。
また、初代尾上菊五郎とも正面衝突し、菊五郎がブチギレて舞台で幸四郎に小道具の財布を投げつけた上に、
観客に芝居そっちのけで幸四郎への怒りをブチまけてしまった…。
それに対して幸四郎も応戦してしまい、菊五郎と取っ組み合いになり芝居は中止になった。
一体、幸四郎は菊五郎に何をやったのだろう?
松本幸四郎(五代目)(1764~1838)は四代目の子。
「鼻高幸四郎」の異名で呼ばれる程の大きな鼻が特徴的な人。
その容貌故に実父の芸よりもむしろ二代目と同様に実悪(悪役)の大名優として名を馳せた。
松本幸四郎(六代目)(1811~1849)は五代目の子。
父と同じく悪役をよくしたが38歳の若さで亡くなり、以後七代目が襲名するまで62年間に渡って途絶える事となる。
因みにこの記録は坂田藤十郎の復活(231年振り)までは記録が確かな空白期間では市川團十郎と中村歌右衛門の59年間を抜いて最長の空白期間であった。
(記録な不確かな物まで含めると片岡仁左衛門の73年という記録がある)
七代目松本幸四郎(1870~1949)
三重県で土建業(武家説もある)秦専治の三男として生まれる。
「大藤間」と呼ばれ明治時代の歌舞伎に多大な貢献を果たした振付師の二代目藤間勘右衛門の養子となる。
その縁から「劇聖」九代目市川團十郎の門弟となり、市川金太郎→四代目市川染五郎→八代目市川高麗蔵を経て六代目以降途絶えていた名跡を明治44年(1911)に62年ぶりに七代目松本幸四郎を襲名する。
現在幸四郎家の家の芸である「勧進帳」を1600回以上勤め上げた。
その一方でシェイクスピアの「オセロ」や「ジュリアス・シーザー」も演じるなど息子の八代目松本幸四郎や孫である九代目松本幸四郎に受け継がれる「新しいもの好き」な一面も兼ね備えていた。
因みに三男の二代目尾上松緑によると
「親父はモテにモテて愛人との間に十数人の認知していない子供がいた」との事…。
曾孫に当たる十一代目市川海老蔵(2002年に隠し子発覚)や七代目市川染五郎(18歳の時に隠し子発覚)の
スキャンダルなんて可愛く感じられる程の凄まじいまでの絶倫ぶりだった…。
下半身の事に関しても子孫にしっかり(?)受け継がれている…かな?
「花の海老様」と呼ばれた十一代目市川團十郎は長男(九代目團十郎の娘婿である五代目市川三升の養子)、次男は八代目松本幸四郎、三男に二代目尾上松緑がいる他、娘が大女形・四代目中村雀右衛門に嫁いでおり、若き頃立役であった彼を女方に据えた。
八代目松本幸四郎(1910~1982)
七代目の次男。
兄が十一代目市川團十郎、弟が二代目尾上松緑。四代目中村雀右衛門は義弟にあたる。
他の兄弟と異なり、当初は歌舞伎俳優になるつもりがなく、画家を目指していた。
(本人はその後趣味で継続しており、長男の九代目幸四郎と次男の二代目吉右衛門も父の影響で絵を得意としている)
しかし、関東大震災によって家が経済的な打撃を受けた事から役者になる事を決意した。
その為、16歳で初舞台を踏んだので子役を一切演じていない異色の役者でもあった。
その後、父の薦めもあって初代中村吉右衛門の門下に入り五代目市川染五郎を襲名する。
父の死後から8ヶ月後に八代目松本幸四郎を襲名した。
しかし、初代中村吉右衛門の死後、娘婿の立場から必然的に吉右衛門劇団の後継者となった為か、周囲の嫉妬や妬みも酷く一時松竹から東宝に一門・複数の役者と共に移籍した。
しかし、東宝側と幸四郎側の思惑の違いから軋轢や衝突も相次ぎ後に松竹に復帰した。
その後、息子の染五郎と孫の金太郎と共に三代同時襲名を行い初代「松本白鸚」を襲名した。
しかし、襲名披露公演前に既にガンを患っており、病を抱えつつ襲名を終わらせた直後の1982年に死去した。
初代中村吉右衛門の娘を妻として、長男に九代目松本幸四郎、次男に二代目中村吉右衛門(初代の養子)がいる。
父譲りの重厚な風格・岳父譲りの貫禄と演技力を備えており、これは次男・二代目中村吉右衛門に受け継がれた。
また父である七代目同様にシェークスピアなどの翻訳劇への挑戦も積極的に行い、これは長男・九代目松本幸四郎にも受け継がれた。(藤間流は弟の松緑が四代目を継承した)
テレビドラマ「鬼平犯科帳」の初代長谷川平蔵はこの八代目幸四郎であり、原作の池波正太郎が平蔵をイメージする際に幸四郎をモデルにしたとも言われている為、当り役として評判となった。
後に平蔵を演じる二代目中村吉右衛門は、この時に平蔵の嫡男・辰蔵の役を演じている。
九代目松本幸四郎(1942~)
1942年8月19日、八代目松本幸四郎の長男として生まれる。
1949年、7歳の時に六代目市川染五郎を襲名。
1981年に父が初代松本白鸚を号するのにあたり、九代目松本幸四郎の名跡を襲名する。
人間国宝で「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵役でも有名な弟の二代目中村吉右衛門や、息子の七代目市川染五郎も歌舞伎役者として活躍している他、娘の松本紀保・松たか子も女優として活躍している。
また、十二代目市川團十郎と、初代尾上辰之助は従弟である。
歌舞伎では「勧進帳」の武蔵坊弁慶など豪快な荒事から、知的な役柄まで芸風が幅広い。
また、歌舞伎にとどまらず、ミュージカル「ラ・マンチャの男」や大河ドラマ「黄金の日日」、三谷幸喜脚本「王様のレストラン」など、広いジャンルで活躍している。
更に、九代琴松名義で舞台の演出も行っており、恐らく現在の日本で最も忙しい歌舞伎役者と思われる。
2018年1月に二代目松本白鸚を襲名。七代目市川染五郎が十代目松本幸四郎を襲名した。
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