市川團十郎とは、歌舞伎役者の名跡である。
江戸時代中期に市川團十郎(初代)が名乗って以来十二代に渡り江戸歌舞伎、引いては歌舞伎界を代表する役者として最も権威のある名とみなされている。
因みに市川團十郎を襲名する前に名乗る名(江戸時代は主に引退後)に「市川海老蔵」という名跡があり、
歴代の團十郎の内、9人がこの名跡を襲名するなど深い関係にある。
また、海老蔵の前に名乗る名に「市川新之助」という名跡もあるが、こちらは歴代の團十郎で名乗ったのが
4人しかおらず定着しているかは不明である。
歴代の市川團十郎
昭和初期に発見された系図によれば先祖は武田家の家臣だったとか。
因みに有名な歌舞伎十八番の内、6つを初演した他、三升屋兵庫という名前で50以上の作品を作るなど
作家としても大活躍するマルチプレイヤーだった。
しかし、1704年に上演中に生島半六という役者に舞台上で刺殺されてしまった…。
市川團十郎(二代目)(1688–1758)…初代の長男。父の死後、すぐに二代目を襲名した。
父の持ち込んだ「荒事」に男女の恋愛ものでのイケメンを演じる所謂「和事」の要素を入れて完成させた人。
歌舞伎十八番の内、7つを初演している。
三代目に跡目を譲った後、「二代目市川海老蔵」を襲名している(初代は父の本名であり團十郎の前名)。
しかし、三代目が急逝した為、その後17年に渡り舞台に立ち娘婿の二代目松本幸四郎に四代目を襲名させて引退。
その4年後に死去した。
因みによく言う「千両役者」は二代目團十郎の年収が実際に千両(約1億円)を超えた事から来ている。
市川團十郎(三代目)(1721–42)…二代目の引退に伴い三代目を襲名。
しかし、大阪巡業中に病をこじらせてしまい22歳で急逝した。
因みに二代目が市川海老蔵を名乗っていた為、初めて「市川海老蔵」を名乗らずに「市川團十郎」を襲名した人である。
市川團十郎(四代目)(1711–78)…二代目の娘婿。
実は二代目松本幸四郎でもある。
前述の通り三代目の死から12年後に43歳で襲名した。
因みに江戸時代における最高齢での「團十郎」襲名である。
初代、二代目と異なり荒事が苦手だった事から「実悪」という冷酷非道な悪役で人気を博した異例の人。
更に言うと四代目は男の愛人がおり、別れた後に陰間茶屋(今風に言うとショタ専門の風俗)を経営させてた…。
因みに歌舞伎十八番の内、4つを初演している。
市川團十郎(五代目)(1741–1804)…四代目の長男。
実は三代目松本幸四郎でもある。
みんな東洲斎写楽の浮世絵として歴史の教科書で一度は見た事のある人。
荒事、和事、実悪、女形問わず何でも演じれてしまう所謂「天才タイプ」の人間。
性格は洒脱且つ鷹揚で型破りな人柄で、團十郎引退後に「おれはえびはえびでも雑魚えびの蝦」として
歴代の團十郎の中で唯一「市川鰕蔵」として襲名した。(当然、歴代の海老蔵には数えられていない)
市川團十郎(七代目)(1791–1859)…五代目の孫で六代目の養子。
前述の通り六代目の急逝を受けてに10歳で襲名した。
また、長男の八代目を自殺で失ったり、次男が病気で役者廃業、四男、六男が急逝など私生活は不幸だった。
市川團十郎(八代目)(1823–54)…七代目の長男。
1832年、父と同じく歴代最年少の10歳で「市川團十郎」を襲名している。
歴代の團十郎の中でもかなりのイケメンだったらしく、その人気ぶりは吐いた痰まで女性ファンに拾われたほど。
その為、和事を中心に活躍したが、大坂で突如自殺してしまった…。
市川團十郎(九代目)(1838–1903)…七代目の五男。本名堀越 秀
しかし、上述の様に八代目の自殺後、三男を除く兄たちが次々と急逝・廃業した為、
八代目の自殺から20年後に養子先から戻り九代目を襲名した。
(同時に兄の中で唯一生存してた三男は市川海老蔵を襲名した)
明治時代に入ってからは古典演目の時代考証を行うなど歌舞伎の近代化に取り組み始めた。
(その改革ぶりは晩年には舞台にオルガンやバイオリンの伴奏まで導入したほど)
一方で九代目には男の子供が生まれないまま亡くなってしまい、初代以来続いてきた市川家の血統はここで絶えた。
因みに写真・映像で残る最古の團十郎だったりもする。
市川團十郎(十代目)(1882–56)…九代目の娘婿。本名堀越福三郎
九代目の死後、堀越家及び市川一門の当主となる。
十代目の養子に入り「九代目市川海老蔵」を襲名し主に和事芸などで絶大な人気を獲得し「海老様」と崇められた。
そして九代目の死から59年後の昭和37年(1962)、53歳の時に十一代目を襲名する。
因みに2017年現在、歴代最高齢での「團十郎」襲名である。
しかし、内気ながら我慢強い性格の為、我慢が限界になるまで言わず爆発してトラブルになる事があった。
團十郎襲名後も衝突やドタキャンが絶えず、その上團十郎としてのプレッシャーが祟ったのか、
襲名から僅か3年後に56歳の若さで亡くなってしまった。
市川團十郎(十二代目)(1946–2013)…十一代目の長男。本名堀越 夏雄
父である十一代目の死から20年後の昭和60年(1985)に十二代目を襲名する。
若い頃から口上に難があり、酷評されながらもそれを並々ならぬ鍛錬で克服し、
重厚な演技力で安定した演技を魅せ九代目以来の長きに渡って團十郎として活躍した。
しかし、息子の十一代目市川海老蔵襲名披露公演中に白血病を煩い以降闘病を余儀なくされる。
その後、無事復帰を果たしたが、息子である海老蔵の六本木襲撃事件などの心労が祟ったのか2013年に逝去した。
歌舞伎十八番
市川團十郎家と切っても切れないのがこの「歌舞伎十八番」である。
元々は天保三年 (1832)に七代目市川團十郎が息子に八代目市川團十郎を襲名させた襲名披露興行で配られた初代、二代目、四代目が得意とした17の演目が記された冊子が起源となっている。
それから8年後の天保11年(1840)に新作である「勧進帳」を初演して加わった事で十八番として完成する。
しかし、いくつかの演目は既に七代目の時代には台本が散逸し、詳細が不明な物が十番もある有様であった…。
(これら全てが大正もしくは昭和時代にかけて大幅にリメイクされ全て復活上演されている)
更に言うと、残る7つの内、「勧進帳」、「助六」は七代目團十郎が、「暫」は息子の九代目團十郎の時に今伝わる形となった、言わば「新作同然」の状態であり、残りの4つは七代目から九代目の時代にかけて演じなかった事もあり型や言い回し等も分からなくなってしまい、明治から大正時代に新たにリメイクされた物が現在に伝わっている。
つまり、初代、二代目、四代目の初演当時の型通り伝わる物は何一つ残っていない。
助六と暫は割かし初演時の型や演出が残っているとされ、特に助六の衣装は二代目が最後に演じた時の衣装からは変わっていないとされている。
十八番一覧(…以下は現行伝わる型の創作者や復活上演した人、演目に関する情報など)
- 「外郎売」(ういろううり)…二代目市川團十郎が初演した演目。現在も時折上演される演目。
早口言葉を練習する人に丁度いい見本になる位長いセリフを早口で述べる。
現在伝わる型は十二代目市川團十郎による物。 - 「嫐」(うわなり)…初代市川團十郎と二代目市川團十郎が初演した演目。
主役が女性である事から荒事芸が中心である十八番の中でもかなり異色な作品。
長らく上演されなかったが昭和11年(1936)に十代目市川團十郎により大幅に創作を加えて復活上演された。 - 「押戻」(おしもどし)…二代目市川團十郎が初演した演目(というよりも一場面に近い)。
その為、同じ十八番の「鳴神」や「京鹿子娘道場寺」等で「演出」の一部で披露される事がある。
昭和9年(1934年)に十代目市川團十郎により独立した一幕物として復活上演された。 - 「景清」(かげきよ)…四代目市川團十郎が初演した演目。
因みに七代目市川團十郎が江戸追放を喰らった名目上の理由はこれを演ずる際に本物の鎧を使用した為。
明治41年(1908年)に七代目松本幸四郎により復活上演された。
後に昭和48年(1973年)に十二代目市川團十郎によって再度復活上演されている。 - 「鎌髭」(かまひげ)…四代目市川團十郎が初演した演目。
明治43年(1910年)に九代目市川團十郎の弟子である二代目市川段四郎と息子の二代目市川猿之助により復活上演された。
その後も二代目猿之助とその息子である三代目市川段四郎により再演されている。
その為、近年は実質的には澤瀉屋のお家芸となっている。
- 「関羽」(かんう)…二代目市川團十郎が初演した演目。
ストーリー的には鎌倉時代の武将が関羽に化けて見栄を切るという内容である。
何故関羽なのかは全く以て分からない。
余談だが九代目市川團十郎も「増補桃山譚」(通称 地震加藤)で何故か関羽に扮した事がある。
その後昭和4年(1929)に二代目市川左團次と十代目市川團十郎により復活上演された。
また、昭和60年(1985年)に二代目尾上松緑(十一代目市川團十郎の実弟)も復活上演を行った。 - 「勧進帳」(かんじんちょう)…上記の通り、十八番唯一の七代目市川團十郎が初演した演目。
厳密に言うと初代市川團十郎が初演した「星合十二段」に能の要素を加えてアレンジされた演目である。
九代目市川團十郎の弟子である七代目松本幸四郎が生涯1600回も演じた事で有名。
上記の事から高麗屋のお家芸になっている他、現在も市川宗家に限らず数多くの役者によって上演される。
- 「解脱」(げだつ)…四代目市川團十郎が初演した演目。
「関羽」、「鎌髭」、「蛇柳」、「景清」と並ぶ景清物の一つ。
大正3年(1914)に二代目市川左團次が、昭和7年(1932)に十代目市川團十郎により復活上演された。
因みに現在では左團次型の方で上演される事が多い。 - 「毛抜」(けぬき)…二代目市川團十郎が初演した演目。
七代目市川團十郎まで昔の型が伝わっていたがそこで絶えてしまった(とされる)。
現在の型は明治42年(1909年)に二代目市川左團次により復活上演された時の型を十一代目市川團十郎が改定した物。 - 「暫」(しばらく)…現在も非常に多く上演される人気の高い演目。
上記の通り、九代目市川團十郎が現在の型を完成させた。 - 「蛇柳」(じゃやなぎ)…四代目市川團十郎が初演した演目。
十八番の中で最も上演回数が少ない演目。
その少なさたるや四代目の初演(1763年)から昭和22年(1947年)に十代目市川團十郎により復活上演されるまでの184年間の間、何と一度も上演されなかったほど…。
因みにその次に十一代目市川海老蔵によって復活上演されたのは66年後の2013年である…。
250年間の間にたった3回しか上演されていない幻の演目である。
- 「助六」(すけろく)…二代目市川團十郎が初演した演目。
「勧進帳」、「暫」と並び十八番の中で上演回数が最も多い演目でもある。
因みに市川宗家(團十郎と海老蔵)が上演する時のみ外題(タイトル)が「助六所縁江戸櫻」となる。 - 「象引」(ぞうひき)…初代市川團十郎が初演した(とされる)演目。
大正2年(1913年)に二代目市川左團次と二代目市川猿之助により上演された。
(しかし、この時の脚本家は「十八番の象引きではなく新作」と主張している)
その後、昭和8年(1933年)に十代目市川團十郎により大幅に創作を加えて復活上演された。
タイトル通り2人の男が象をただ引っ張り合うというシンプルな荒事芸(?)となっている。 - 「七つ面」(ななつめん)…二代目市川團十郎が初演した演目。
「七つ面」とあるが舞台で登場するのは「尉」、「塩吹」、「般若」、「姥」、「武悪」の5つしかない。
十八番制定時には既に詳細不明で九代目市川團十郎は「新七つ面」として上演した。
昭和11年(1936年)に十代目市川團十郎により大幅に創作を加えて復活上演された。
因みに十一代目市川海老蔵が名探偵コナンに出演した際に出てきた「二表(におもて)の面」はこちらが元ネタ。 - 「鳴神」(なるかみ)…初代市川團十郎が初演した演目。現在もよく上演される演目。
因みに正式には「雷神不動北山桜」という演目の一幕でこの演目の前が「毛抜」、次の幕が「不動」となっている。
八代目市川團十郎が上演したのを最後に途絶えていたが明治43年(1910年)に二代目市川左團次により復活上演された。 - 「不動」(ふどう)…上記の通り、「毛抜」・「鳴神」と共に元は一つの演目である。
ただ単に役者が不動明王に扮して出現するという単純極まりない演目。
市川家と縁の深い成田山新勝寺の成田不動に因んだとか何とか。
昭和42年(1967年) に二代目尾上松緑により復活上演された。 - 「不破」(ふわ)…初代市川團十郎が初演した演目。
昭和8年(1933年)に十代目市川團十郎により復活上演された。 - 「矢の根」(やのね)…二代目市川團十郎が初演した演目。現在も時折上演される演目。
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