瑞泉寺単語

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瑞泉寺とは、日本に存在する寺院の名称である。

  1. 大谷井波別院瑞泉寺(富山県南砺市) - 杉谷山瑞泉寺。
  2. 瑞泉寺 (神奈川県鎌倉市) - 錦屏山瑞泉寺。
  3. 瑞泉寺 (愛知県津島市) - 池山瑞泉寺。
  4. 瑞泉寺 (愛知県犬山市) - 青龍山瑞泉寺。
  5. 瑞泉寺 (愛知県常滑市) - 石松山瑞泉寺。
  6. 瑞泉寺 (京都市) - 慈舟山瑞泉寺。
ここでは、1の富山県南砺市にある瑞泉寺(井波別院)について述べる。

概要

富山県南砺市、旧井波町の中心に位置する浄土真宗寺院

富山県内における最古の宗系寺院であり、富山(越中)における浄土真宗布教に大きな役割を果たしてきた。特に戦国時代においては一向一揆の一大拠点として栄えたのは有名である(後述)。

江戸時代以降には木彫りが発展し、今でも多くの職人が住まう瑞泉寺周辺は南砺市有数の観光地として有名である。

歴史

瑞泉寺の創建と発展

瑞泉寺は明徳元年(1390年)に本願寺第五代・綽如によって創建されたものの、綽如は創建時には既に高齢だったのでその数年後には亡くなってしまう。

綽如の死後約40年程瑞泉寺ではの時代が続いたが、綽如の孫如乗(本願寺第六代・存如の)がでの足利義教恐怖政治を逃れる形で瑞泉寺にやってきたことでの時代は終わりをつげる。

元年(1457年)に本願寺第七代存如が亡くなると、本願寺では後継者問題が浮上した。正室の子ではないが長男と正室の子応玄が補として挙がっていたが、如乗の強い支持によって如が本願寺の第八代を継ぐこととなる。このような一連の経緯から瑞泉寺は本願寺と強い結びつきを持つようになり、瑞泉寺は浄土真宗教団の中でも特別な地位を占めることとなる。

如が本願寺座を継いだことで浄土真宗教団は急速に拡大し、越中も含めた北陸浄土真宗は浸透していった。越中における信徒拡大の中心を担ったのは瑞泉寺であり、さらに如乗が加越地帯の二俣に築いた本寺は加賀における重要な拠点の一つとなっていった。

加賀守護富樫政親浄土真宗の拡大に危機感を覚えて領内の門徒衆を弾圧したが、加賀において弾圧された一部の門徒や有な僧は瑞泉寺に逃げ込んでいた。これを知った富樫政親砺波石黒に瑞泉寺を討つことを依頼し、石黒義は砺波人層や医王山にある天台宗系の惣寺などを糾合し瑞泉寺に向けて軍を発した。瑞泉寺に集まった門徒衆は砺波西部の田屋川原においてこれを迎え撃ったが、加賀に住む門徒衆が手薄となった福・惣寺に攻め入ってこれに火を放ったため、石黒氏側の軍勢は戦意を喪失し瑞泉寺門徒衆に大敗を喫した。

これを後世田屋川原の戦いと呼び、これ以降瑞泉寺は砺波における世俗領としての地位も兼ねるようになったとされる(田屋川原の合戦は同時代史料の裏付けがないために存在を疑問視されているが、福石黒と惣寺がある時期を落しているのは事実なため田屋川原の合戦に類する何らかの事件は存在したと考えられている)。

有力守護との対決

瑞泉寺如乗は田屋川原の合戦以前に亡くなっていたが、その妻の勝如尼が如の次男・婿として迎え後継者としていた。これに加えて勝如尼は如乗が築いた(加賀)二俣本寺と瑞泉寺を結ぶラインの中間にあたる位置に土山御坊(後の勝寺)を築いている。土山御坊は幾度か場所を変え、名前を変えつつ最終的にはを名のり、瑞泉寺と並ぶ越中における一向宗の二大領袖の一つとなる。

乗は義勝如尼の助けを借りて瑞泉寺-土山御坊-本寺を結ぶライン握、土山御坊を誓に、本寺をもう一人の悟に与えて本願寺による支配をより強固なものとした。

永正三年には北陸全土で一向一揆が起き、北陸の有力武将達はこれに共同して対処することとなる。七月には加賀能登の門徒衆とともに越中の門徒衆の一部は越前朝倉攻めに参加した。一向宗軍・朝倉軍は九頭竜突したが、朝倉チート爺朝倉宗滴に大敗し越前侵攻は断念せざるを得なくなった(九頭竜の戦い)。

一方有な統一勢のいない越中武士達は一向一揆に対処することができず、一部の武将は隣越後に逃げ込んだ。この事態に越後の守護代・長尾越中への遠征を行うが、越中の有力武将・神保慶宗などが一向一揆と組んだために敵中で孤立し栴檀野にて戦死した(般若野の戦い)。

一連の戦役での首級を除いて一向一揆立った戦果を挙げることができず、本願寺内では不満や内部対立が生じ後の内部抗争(大小一)に繋がってゆくこととなる。一方、九頭竜の戦いによって加賀一向宗-越前朝倉氏を繋ぐ北陸道は封鎖され、越前を追われた勝寺・本覚寺といった越前の有寺院越前美濃→飛騨→五箇山を通るルート越中に入り拠点を構築した。以後五箇山-飛騨-近畿方面のルート北陸道を封鎖された一向宗にとって重要な交通ルートとなる。

内部対立の時代

永正三年の一以後の越中では長勝寺・本覚寺の進出・勝寺の末寺形成運動に加え、越中中部の実者・神保慶宗が積極的に一向宗と結んだために一向宗越中全域に広まりつつあった。しかし当時北陸方面を取り仕切る立場にあったは周囲の守護大名との轢が生ずること、または一向宗内で門徒獲得のための内部抗争が起こることを恐れて永正十三年頃には新坊の設立を禁じた。

しかし、時すでに遅く永正十六年にはへの復讐に燃える長尾為景らが勢拡大を続ける一向宗神保慶宗討伐のため越中に侵攻し、越中立った人は軒並み滅ぼされた。畠山によって新(現富山県東部)の守護代に任ぜられた長尾為景一向一揆の禁止を出し、一時的に越中における一向宗の拡大は新を中心として抑制されてゆく。

一方、大永五年(1525年)には本願寺第九代・実如の死に端を発する本願寺内の内部抗争である大小一(享錯乱)が起こっていた。大小一では穏健たる本悟ら小一側(旧)が、本願寺第十代・如の縁者である顕寺・勝寺・長勝寺ら大一側(新)に敗れた。この一連の抗争を通じて瑞泉寺・勝寺は半ば独立状態となり、本願寺も越中における在地紛争・知行問題に非介入の立場をとってゆく。

上杉謙信との対決

文十二年(1543年)に長尾為景が病死したとの報を聞いた神保長職は恐らく一向宗の助けも借りて神通を渡河、富山を築いて長尾の支配下にある椎名長常との抗争を始めた。この戦いは能登畠山の仲介を得て一旦和が成立するが、神保椎名の対立は解消されずむしろ拡大し後に越中大乱と呼ばれる越中全体を巻き込んだ抗争に拡大してゆく。

本願寺第十一代・顕如が如尼と結婚することで顕如武田信玄義兄弟の関係となり、本願寺は東の複雑な政治状況に巻き込まれてゆく。こうして越中では本願寺・武田支援を受けた神保長職長尾(上杉)の支援を受けた椎名康胤が戦うという構図が作られる。

織田家の侵攻

石山本願寺における長い攻防戦の末、遂に本願寺顕如石山を退去した。顕如息子教如はに反対して徹底抗戦したが、正八年には遂に織田信長石山を明け渡した。そして、これと時を同じくして北陸一向一揆拠点であった金沢御坊もまた柴田勝家によって陥落し、加賀の一勢は壊滅した。これによって瑞泉寺は織田軍の脅威にさらされることとなる。

織田信長はかつて越中を追われた神保長住を起用し、彼を飛騨方面から、そして佐々成政加賀方面から越中に侵攻させた。瑞泉寺は同盟者である上杉景勝に救援を頼んだが時既に遅く、正九年(1851年)に瑞泉寺は佐々成政に攻め落とされ、焼き討ちを受けた。

以後瑞泉寺は佐々成政の支配下に入り、一向一揆拠点としてのを失っていくこととなる。本能寺の変に続く一連の争乱で羽柴秀吉佐々成政が対立すると、秀吉は成政の後方攪乱を頼む書状を瑞泉寺に送っている。

やがて佐々成政羽柴秀吉前田利家に敗れ、肥後に転封となると瑞泉寺を含む砺波前田の領地に組み込まれることとなった。これ以降、明治維新に至るまで瑞泉寺は幕体制の下で加賀の支配下に置かれることとなる。

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瑞泉寺

1 ななしのよっしん
2015/05/09(土) 18:18:54 ID: wzJrFSL4eG
この記事作った人、間違いなく静の論文読んでるなwww
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2 ななしのよっしん
2017/06/06(火) 23:35:45 ID: WBgxs9PMVb
織田の侵攻」という項正九年(1851年)とありますが正しくは1581年ですよね。
5と8を打ち間違えられたと見受けられますが。
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3 ななしのよっしん
2019/04/25(木) 13:55:00 ID: BkJUPfyJJD
大だったんだな瑞泉寺
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