顕如(1543年2月20日~1592年12月27日) とは、戦国時代の僧。浄土真宗(一向宗)第11代門跡である。顕如は法名であり、諱は光佐。
なお信長の野望を中心に「本願寺顕如」という名前が一般的になっているが、あくまでこれはゲーム上の理由によるもので、正式な名前は「顕如」のみである。
当時の浄土真宗の実態、特に一向一揆の指導者と目されたことから大名として扱われる場合も多い。
概要
一向一揆の言葉にも使われている"一向宗"は、いうなれば「浄土宗や、浄土真宗本願寺派を指す」とされているうえ、仏典的にも間違った名称であるため、浄土真宗ではこの名前を認めていない。
記事では歴史的事跡を鑑みて「本願寺(派)」「一向宗」で統一する。
略歴、誕生から信長台頭まで
天文12年(1543年)に第10代門跡、証如の長子として誕生。
1554年に父である証如が示寂し、12歳で門跡を継ぐ。証如の時代では細川家と組んで三好家を攻撃するなど攻撃的性向が強かったが、顕如が継ぐと他勢力と友好関係を築いていった。
妻は細川晴元・六角定頼の養女である如春尼であり、姉はのちの盟友となる武田信玄に嫁いでおり、1532年に山科本願寺焼き討ちで受けた諸大名との遺恨はすでに解消されていた。
また、いわゆる一向一揆もこの頃には膠着状態に入っており、顕如は巧みに門徒たちを統制することで本願寺を安定させ最盛期を迎えた。
野田城・福島城・長島の戦い
しかし、1568年に織田信長が将軍足利義昭を奉じで上洛すると状況は一変。往古の白河上皇に「賀茂川の水害・双六の目」と並んで制御しがたいものと言わしめた宗教勢力の独立志向は信長にとって目障りであり、その独立志向の最たるものであった本願寺派へ圧力を加え始める。
特に畿内制圧後は本願寺系の寺社に矢銭(軍用金)を要求し、これを断ると寺社を攻撃して支配下に置くなど本格的に圧迫を強めた。
1570年8月、信長に追い出されていた三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が摂津で反攻を開始。激しい戦闘が断続的に行われ、信長は一挙にこれを討つべく26日自ら前線に着陣。三好側武将の裏切り、織田側についた雑賀衆・根来衆の鉄砲の威力の前に戦いは織田軍が有利となる。
信長の圧迫に耐えかねたか、あるいは両者が弱った時期を最大の好機と捉えたのか、顕如は9月12日夜半に旗下の門徒に織田側への攻撃を下令。十年に及ぶ長い戦い「石山合戦」の火ぶたが切られた。
本願寺の参戦により戦局は三好側が有利となり、また顕如から出陣要請を受けていた浅井・朝倉軍も同時に京へ向けて侵攻。重要拠点・宇佐山城の森可成は善戦するが、浅井・朝倉・本願寺の攻撃を受けて戦死してしまう。
琵琶湖を中心に布陣した信長に対して、摂津で信長を釘付けにする三好・本願寺軍と、京を目指して進軍し宇佐山城を破った浅井・朝倉軍に挟まれ、さらに摂津から動けない信長勢を見て六角義賢や長島一向宗が蜂起し、これらに囲まれて窮した信長は和睦を打診。浅井・朝倉軍はこれを受け入れたため戦いは一旦終了する。
上述のように、この一戦を受けて尾張の隣にある伊勢長島でも顕如の檄を受けて大規模な一向一揆が発生。織田方の城を次々に落として行き、織田軍を敗走させた。
この戦いは4年続き、三回目の侵攻の際には兵糧攻め・火攻めが行われ、「根絶やし」の文字のとおり一向宗門徒のほとんどが餓死、あるいは焼殺されて終結した。信長が後世冷酷であるとされた一端には、この長島攻めの際の苛烈な攻撃にあるといえよう。
信長包囲網
このように本願寺と織田家の敵対は一向一揆を激化させることになったが、一方で近畿の本願寺と織田軍は冷戦状態であり直接的な戦火は交えていない。
この間、顕如は長年の宿敵であった上杉謙信とも友好関係を模索(ただし、越中での一向一揆は信玄との同盟のため継続中)。信長包囲網の中心人物として、義昭に代わって同盟構築に全力を尽くしていたようである。
1573年には朝倉と浅井が滅亡。しかし信長が越前の大名として任命した桂田長俊(前波吉継)と元朝倉家の富田長繁の対立が激化し、やがて富田が桂田や元朝倉家の魚住一族まで討ち果たすと、富田の苛烈な政策を恐れた住民は一向衆の坊官七里頼周を指導者として迎え入れ富田と交戦。富田の攻勢で一揆勢は散々に蹴散らされたものの、富田は自身の行状のせいか家臣に殺害され軍は霧散する。
顕如もこれを支持したため和睦が決裂し、4月に再び戦火を交えた。
1575年には武田軍が長篠の戦いで信長軍に敗北。一揆内でも坊官の暴政による離反と抵抗が相次ぎ、越前は再び信長に平定されてしまう。
追い詰められた顕如は今度は自ら和議を申し出る。上杉と毛利と言う新たな敵が前面に現れたこともあり、信長もこれを了承。本願寺の拠点は石山本願寺と加賀尾山御坊(金沢城)を残すのみとなった。
三度目の蜂起
1576年4月、信長から逃れて毛利輝元の保護下に入っていた足利義昭の命に従う形で、顕如は三度蜂起する。織田側は包囲でこれに対抗するが、本願寺は海上から毛利方の補給を受けていたため効果は薄く、逆襲を受けて攻城網は崩壊寸前となる。
しびれを切らした信長は寡兵で本願寺に奇襲をかけると言う賭けに出る。自身も負傷するほどの激しい戦闘の末、本願寺側は撤退した(天王寺の戦い)。
信長は野戦での決着は諦め、付城を作り石山の包囲を強化。封鎖を突破すべく海上から毛利方の水軍(村上水軍が中心)が大阪湾に侵入。織田側は即座に迎え討ったが、焙烙玉を装備していた毛利水軍が完勝し、兵糧と弾薬の補給に成功する(第一次木津川口海戦)。
以後は信長も海上戦力の集結を待ち、本願寺を支持していた根来衆や雑賀衆の平定に回るなど、石山周辺は膠着状態に入る。
降伏へ
1577年には根来衆・雑賀衆が降伏。
1578年には九鬼嘉隆指揮の鉄船による水軍も完成し、石山本願寺は劣勢に立った。
10月には包囲網の一角を担っていた荒木村重の謀反により本願寺側が再び有利となり、顕如は信長からの和議を拒否。
しかし、11月大阪湾に侵攻した600艘の毛利水軍が撃退されてしまい(第二次木津川口海戦)海上兵站路が途絶。補給の目途もたたないことや、それまでの織田側のなで斬り戦略への危機感もあり1579年末から恒久和平の道を模索。
1580年3月、朝廷の仲介により石山本願寺退去を条件に信長と和睦。4月には新しい門跡となっていた長男の教如に石山を明け渡した上で紀伊鷺森御坊に退去した。
また退去後も各地で抵抗を続ける一向宗に、信長への帰順を呼びかけている。
その後
降伏後も教如は徹底抗戦を唱えて石山に籠城したため、顕如は彼との親子関係を絶った。教如は後に朝廷の勅使近衛前久の仲介を受けて信長に城を明け渡した。信長死後、顕如は教如と復縁するが、この復縁が後述の東西分裂の主因となる。
本能寺の変後は秀吉と結び、大阪天満に本願寺を復興させる。1592年12月27日、50歳にて示寂。
顕如の死後、信長和睦派の三男の准如が12代宗主に立てられ、次男の顕尊もそれを支援したが、信長強硬派の教如と対立して東西に分裂、本願寺は教如の東本願寺と准如の西本願寺に分かれ、往時の勢力は完全に失われた。この時の家康の計算高さを示す逸話として「弱体化のために東西に意図的に分けた」という説がよく知られているが、それが対立激化のために意図して行ったかどうかは不明なようだ。
あれこれ
本願寺は顕如の誕生前から一向一揆、つまり一向宗の名を借りた一揆衆の鎮撫と制御に心を尽くしており、その結果として全国に「統制された強訴も辞さない仏教集団」が存在していた。これらは大名・守護にとって厄介な存在となり、いくつかの有力大名が信長のようになれなかったのはこうした集団を無視できなかった部分もある。
誤解が多いが、一揆とは集まりや目的があって団結している程度の意味であり、暴動を意味するモノではない。つまり、一向一揆と言った場合、当時はせいぜい「一向宗の信者で権力者に対して集団で何かゴネてる人たち」以上の意味はない。ついでに一向宗と言うのも自称ですらない。
死を恐れずに喜んで戦うと言う描写も一概に事実とは言えない。ここまで本願寺の勢力が拡大したのも、信仰の代わりに村ごとに自治や治安維持、治水技術が得られると言う世俗的な特典が目当ての場合が多く、やってることは他の戦国大名とあんまり変わらないのである。
そして、他の戦国大名と同様に好き勝手やりたい一門衆や国人衆、生活を守りたい民衆には手を焼きまくっている(前者が享禄・天文の乱、後者が顕如末期に起きた越前の一揆内一揆)。
事実、秀吉の時代になり戦乱もなくなって行くと一向一揆は下火になっており、門徒が聚楽第の落書き犯を匿った事件では顕如の意向は全く無視される形で門徒が磔にされ、信長時代が信じられないほどの零落振りだったとされる。
顕如本人は石山本願寺退去に反対する門徒に対し信長のなで斬り例を挙げて降伏の説得にあたっているなど常識人であったようだ。
また、長年の敵であった朝倉氏や長尾氏とも和解しており、外交的な才と寛容さは十分すぎるほどあった(信長の矢銭要求も最初は応じているし、誤解も多いが10年間戦い続けていた訳ではなく何度かの和議を挟んで断続的に戦っているし…)。
祖先の蓮如が他宗派の一休さんとマブダチだったように、そもそも浄土真宗は他の宗派には寛容である。歴代門跡もヒャッハーしたい徹底して浄土真宗を広めたい一揆衆を抑えることに苦労しており、実際に幾度となく世俗勢力や他の宗派に殺されかけている。
彼の死後、本願寺は東西に分かれ、東本願寺も近代に入っていくつかの宗派に分かれている。しかし、どの宗派においても門跡の血統(そして彼の子孫)が重視されている。諸行無常の教え通り幾多の大名家が滅び、侍と言う職業も明治になって潰えたが、本願寺家と僧は全く健在であり皮肉ではある。
創作での扱い
現代の印象としては何と言ってもゲーム「信長の野望」が挙げられる。
このゲームにおいて本願寺は「忠誠度が高め、鉄砲を持っている(もしくは鉄砲を生産できる雑賀衆を支配下に置いている)、商業地・石山を抑えている、朝廷や一向一揆と仲がいい、同盟が有利かつゲームによっては「仏敵」指定ができる」と、プレイヤーにとっては徹底したお邪魔虫勢力であり、プレイ年代や勢力によっては事実上のラスボスである。
動画などでは(武闘派の坊官下間頼廉や雑賀孫市率いる雑賀衆などと合わせて)本願寺攻めは1つの山場とされることが多い。
作品によってはいつまで経ってもCPU織田家が本願寺を倒せないのもよくあること。
よく加賀に領地をもっていることが多いが、これは加賀では一向一揆によって1世紀近く一向宗が支配していたことによるものである。
他のゲームにおいては密教や天台宗と混同されて妖術的な能力を持たされることもあり、動画などでは現代のカルト教団と重ね合わせて目の仇にされることも多い。
一応、フォローしておくと浄土真宗では呪いの類は一切禁止である。
戦国時代を舞台にしている戦国無双シリーズでは1作目に雑賀孫市ルートのNPCとして出たっきりで、不自然なほどに扱われないため不満点の一つとしてしばしば槍玉に挙げられる。
ニコニコ動画では
元々本願寺自体が強豪勢力であり、つまりやっていて楽しい勢力とは言いがたいため、あまりSLG方面ではプレイされない。ただし武将自体はある程度強力で、内政や鉄砲に適性を持つことが多いためそれなりに見かけるようだ。
代わって関連タグの多くを占めているのが、本願寺家を1つの勢力としているカードゲーム、戦国大戦の動画である。
特に顕如はSRであり、強力な能力を持たされ、文字通り勢力の顔として多くの本願寺使いに利用されている。
計略使用時の「仏」の一字、そしてクリスタルボーイもかくやのご尊顔も相まってインパクトは大きい。
関連項目
- 戦国時代
- 戦国時代の人物の一覧
- 信長の野望
- センゴク - 頭に刺青を施し関西弁全開で喋るという、既存の作品のイメージとはかけ離れた描写がされた。
- 信長のシェフ - 戦国時代にタイムスリップしたもう一人の現代人を擁しており、事実上の信長最大のライバルである。
親記事
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兄弟記事
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