「たかや健二」とは、プラモデルとジオラマ製作にスポットあてた「3D甲子園 プラコン大作」で知られる漫画家である。
「ドラえもん のび太と鉄人兵団」に登場した巨大ロボ「ザンダクロス」のデザインを担当した事でも知られる。
1955年8月20日生まれ。千葉県船橋市出身。本名は石毛憲一。
父親が漫画好きだった事もあって実家にたくさんの漫画があり、漫画を読んで商売の邪魔にならないようにしていれば怒られる事が無い環境で育ち、小学5年時に手塚治虫と石ノ森章太郎の漫画入門本を読んだ事が漫画家を目指すきっかけとなった。学生時代には衣装の肩のシワの表現が手癖になるほど石ノ森章太郎の漫画にのめりこんだ。
高校卒業後、専門学校に通いながら永井豪率いるダイナミックプロに9ヶ月ほど所属。専門学校卒業後、コロコロコミック創刊直前の1977年2月に藤子不二雄の藤子スタジオにアシスタントとして入り、藤本弘から手ほどきを受けた。1977年6月に「ファウンダー」の連載をはじめて漫画家としてデビュー後も藤子スタジオ所属を続け、1980年には「スペーサー・バン」で第2回藤子不二雄賞を受賞した。
※後にコロコロコミックで共に活躍する事になるながいのりあきが「GOGOゴロー」で、大林かおるが「うわさの刑事ちゃん」で同賞を受賞している。
佐藤かずひろと田中道明が独立した1980年11月に藤子プロのチーフに昇格し、藤本弘の隣で作業した後、小学館のタコ部屋に行って朝まで自分の作品を描き、3時間ほど寝てからスタジオへ出社する日々を送った。
藤子スタジオのチーフ時代に、たかや健二の代表作である「プラコン大作」の連載が1983年1月より別冊コロコロコミックにてスタートした。
コミックボンボンで連載されていたプラモデルが仮想空間で戦う漫画「プラモ狂四郎」に対して、プラモデルやジオラマの製作技術に焦点をあて、地味な作業なプラモ・ジオラマ製作にスポーツ要素を取り入れる事で、主人公の木戸大作が持ち前のプラ魂とブルースターズの仲間たちと共にジオラマ製作の腕前を競う3D甲子園を勝ち上がっていく物語を描いた。バンダイがコミックボンボンと提携していた事からガンプラが使えず、ロボットものは超時空要塞マクロスのプラモデルが中心となったが、アニメモデルよりも自動車やフィギュアや恐竜、時には屋台のプラモデルなどのスケールモデルを多用し、模型作家の十川俊一郎のわかりやすい解説と共に、本作独自の世界観を作り上げた。
1984年4月からは月刊コロコロコミックに連載が移った本作についてたかや健二は、
と語った。
同作にはたかや健二の師匠である藤子不二雄に似た審査員2名が登場していたり、観客の中にドラえもんが描かれている。
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1986年10月に独立するまでの間、漫画家業と並行して藤本弘のチーフアシスタントを務め、「ドラえもん」の一部エピソードでは藤本弘の代筆を担当している。
「ドラえもん のび太と鉄人兵団」では、脚だけ登場していたザンダクロスの全身デザインを依頼され、たかや健二本人曰く
な見た目と、藤本弘が好むきれいなトリコロール配色な「ザンダクロス」を生み出した。
藤子プロから独立後は、野球漫画「かっとび!童児」、メガドライブ用アクションRPGのコミカライズ「ランドストーカー ライルの魔境大冒険」、映画「ヤマトタケル」「ガメラ 大怪獣空中決戦」のコミカライズの他、小学館のドラえもん学習シリーズ等の作品を手掛けた。
1996年9月23日に師匠の藤本弘が亡くなった際は、その死を受け入れる事が出来ず、10年ほど墓参り行く事ができない事を語った。
晩年は、藤子不二雄ファンサークル「藤子不二雄FCネオ・ユートピア」の会誌「Neo Utopia」に「ぼくの藤子スタジオ日記」を連載していた中、2016年10月2日、肺炎により61歳にて藤本弘の元へと旅立った。
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