コミケ分裂騒動 単語

コミケブンレツソウドウ

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コミケ分裂騒動とは、1981年コミックマーケットC19)で起きた準備会及びスタッフ間の内紛。コミケクーデター事件とも。

概要

同人誌即売会であるコミックマーケット運営の在り方に不満を抱いた一部のスタッフクーデター・改革)が、サークルの個人名簿などを持ち出した上で会場であった川崎市民プラザを「コミックマーケット」名義で抑え独立した事件。運営の在り方や表現の自由をめぐってコミケに大きな禍根と教訓をもたらしたとされる。

コミケ誕生

1960年代は漫画雑誌が著しかったが、自由に作品を発表する場は存在しなかった。少数の漫画家SF小説などの表現媒体として普及していた同人誌をつけ、漫画同人誌を手掛けるようになったが媒体としてはまだ無視されるほどの規模でしかなかった。67年に漫画雑誌であった「COM」がこれらアマチュア漫画家の集まりである同人誌の発掘を開始。この時初めて全区の同人サークルも誕生し、同人から漫画家生活スタートさせると言う今では当たり前の筋も立ち始めた。

しかし、73年にオイルショックが起こりインクの値段、輪転機を回すための電気代が急上昇COMをはじめ多くの漫画雑誌が淘汰され、生き残った雑誌売れ筋漫画のみに掲載を絞り、同人作家が好む実験的な作品は排除されてしまう。さらに75年には日本SF大会を模したイベント日本漫画大会」(ただし、今で言う即売会ではない)において、その抑圧的な警備方法を批判した参加者が出場を拒否される事件が発生。

この混乱を憂いた漫画評論サークル迷宮」は漫画自由に表現できる場をめて同人誌即売会の開催を決意(もっとも、構想としては漫画大会事件以前からあったようである)。これは75年12月に「コミックマーケット」(C1)と言う形で実現する。

拡大とトラブルの頻発

C1は参加サークル32、参加人数700人前後と言う現在から見れば大変小規模なイベントであった。しかし、C5においてすでに会場の整理・収容力が追い付かない事態が発生し、C13では参加サークル300、参加人数4000と初期のほぼ十倍もの規模に拡大。

また、この頃には「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」などのアニメ作品のブームがあり、既存の少女漫画ファン学生漫画ファンとの間で轢が生じ始めていた。

80年代に入ったC18ではついに参加人数は1万人を突破。それと同時に行列の崩壊、徹夜組の横行など今日的な問題が解決されずに山積して行った。

コミケ警備隊

この問題を一挙に解決するため、スタッフの一部から強圧的な態度で列の規制ジャンル統制を行う一が誕生。彼らはコミケ警備隊(新参が多く、運営側が借りていた倉庫用のアパートを根にしていた)を名乗り示に従わない一般参加者を罵倒したり追い出したりなどの日本漫画大会と同様の問題行動を起こす。特にジャンル統制は厳しく、規制線をって一般参加者の移動を全に制限したため苦情が殺到し、これが事態が表ざたになる引き金となったと言われる。

準備会およびコミケ誕生の経緯を知る古参スタッフは彼らの行動を好ましく思わず、C18終了後に警備隊に対する批判と注意を行う。しかし、この古参による抑止は「にやっているスタッフを叱った」ものと捉えられ、かえって火にを注ぐ結果となった。

また、同人誌即売会から声優プロを呼んだ複合的なイベント変身させたいと言う一もあり、こちらもコミケ警備隊についたとされる。

クーデター勃発

コミケ警備隊は改革を名乗ってクーデターを決行。C19を前に参加サークル情報を奪い、会場である川崎市民プラザを「コミックマーケット」名義で抑えた上で、現状復帰の条件として古参参加者の追放を。しかし、これは受け入れられずに分裂は決定的となる。

一方、コミックマーケット」も川崎市民プラザでの開催に全力を尽くすが、最終的に同名団体に会場を貸すことは出来ないとされC19の開催は危ぶまれてしまう。

主流派の巻き返し

当時のコミックマーケット代表であり保守とされた米澤嘉博はこの動きに素く反応。まず、創設時の理念を知らないスタッフ・参加者が増えたことを問題視し、「表現の自由」「スタッフサークル・一般参加者の等」(よく言われる、コミケにお客様はいない原則)を理念とする考えを底させた。さらに外部的には「ふゅーじょんぷろだくと」誌の取材に応じ、原稿を見せてもらった上で自分たちに都合の良いように記事を改変させると言うかなりダーティー行動も取った(オウム事件の際のTBSビデオ問題と同様、被取材者に原稿を見せるのは通例違反)。

元より警備隊の横柄な態度に参加者も好感を持っておらず、趨勢は優位に進み改革は「コミックマーケット」の名前を使えない事態に追い詰められて行く。最終的に「新・コミックマーケット」ついで「コミックスクウェア」(のちのコミックスクエアとは関係)を名乗る。しかし、頼みにしていた声優アニメイベント赤字を産むだけの状態となり、いつかも知れない時に自然消滅。代表数人は大な借金を抱え、その最期は悲惨であったとされる。

その後

一方、開催が危ぶまれたC19は最終的に晴海にあった東京際見本会場を使用することで決着が付き、以降六年に渡ってコミケ晴海で開催されることとなった。結果としてより広く理解ある施設を使用することが可となり、コミケ晴海と言う印も持たれるようになる(晴海第一期時代)。

会場の都合で一年ほど東京流通センター時代を挟んだが、基本会場は依然晴海であった(晴海第二期時代)。その後、膨する参加者問題に対処すべく、より大きな会場である幕張メッセ舞台を移す。しかし、新たな危機は移動後あまりにくやって来ることになる(コミケ幕張メッセ追放事件参照)。

評価

いくつかあるコミケの存続が危ぶまれた事件の中でも、幕張メッセ追放事件と並んで大きな転機となった事件であると言われる。この過程で理念が確定したため、拡大に伴って必然的に発生するいわゆる産みの苦しみだったのではないかと言う肯定的な評価も存在する。ただし、列の崩壊に伴う群衆事故の危険や徹夜組の存在、ジャンル別にスペースを分けることの困難さは現在でも解決されず、代償は決して小さいなものではなかったと言う摘もある。

一方、この手の内部紛争の敗者の常として反・改革クーデターへの評価は厳しい。一説にはコミケを利用することでアニメ漫画業界に渡りをつけたい人物も参加しており、野心や下心が大きかったとも言われる。クーデターと対峙した米澤はのちに「キッチリやりたい若手といい加減に続けたいオジサン」と当時を振り返っており、一定の評価はしつつやんわり批判している。

ただし、彼らが実行しようとしたプロの参加は企業ブースなどで後年に実現しており、先見性を評価する向きも存在する。また、コミケ側も前述の会場警備の他、のちに表現の自由や参加者の等を原則通りに守れない事態(幕張メッセ後のわいせつ規制コミケットスペシャル3を妨しようとしたサークル永久追放など)に直面しており、一方的な評価は慎むべきであるとも言える。

なお、反または「コミックスウェア」に参加した人物の中にはのちの大規模同人誌即売会である「コミックレヴォリューション」の立ち上げに携わった者もおり、全消滅は誤りとする情報もある。

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