プリンセス・プリンセスとは、1980年代から1990年代中期にかけて活動した日本の女性ロックバンドである。
1996年に解散したが、2012年1月、1年という期間限定ながら16年ぶりの再結成を発表した。
代表曲は"Diamonds""M""世界でいちばん熱い夏"など。
奥居香(現・岸谷香)・・・Vo、G、Key
中山加奈子・・・G、Vo
渡辺敦子・・・Ba、Vo
今野登茂子・・・Key、Vo
富田京子・・・Dr、Vo
1983~84年
TDKレコードが女性によるバンド結成を目的に1983年に開催したオーディションで、パートごとに奥居香、中山加奈子、渡辺敦子、今野登茂子、富田京子が選ばれ、「赤坂小町」が結成される。西日暮里で共同生活を送りながら、バン ド練習を行い活動していく。84年には赤坂小町としてアルバム、シングルも発売するものの、アイドル的要素や楽曲を押し付けられること、自分たちのやりたい曲をやれないこと、事務所のサポートが得られない状況などに不満をいだき事務所移籍を決意する。
1985~86年
84年12月に事務所を音楽座に移し、バンド名を赤坂小町からJullian Mamaに改称。厳しい練習の中、サウンドアド
バイザーに就いた片野悦郎らとともに後のプリプリサウンドに繋がる音を追求していく。Jullian Mamaとしての音源発表はなかったが 、86年にはバンド名をプリンセス・プリンセスに改め(名付け親はMOONRIDERSの岡田徹)、メジャーレーベル・CBSソニーからミニアルバム「Kissで犯罪」を発売する。その後、当時の所属会社とシンコーミュージックの間で話し合いが行われた末、シンコーミュージックに事務所移籍。 それまでの事務所とは異なり事務所のサポート、特に、のちに第6のメンバーと呼ばれるマネージャー市やんの献身的なサポート、笹路正徳、河合マイケルらのプロデュースも受け、メジャーバンドとしてのスタートを切る。プリンセス・プリンセス解散後、市やんは奥居香のマネージャーとして活動を続けている。
1987年
1stフルレンスアルバム「TELEPORTATION」発売。翌年発売されるアルバムからの先行シングル"My Will" がCMに使用され、徐々に人気が高まっていく。
1988年
"19 Growing Up""Go Away Boy"などの人気曲を収録した2ndアルバム「Here We Are」発売。この年には渋谷公会堂、 横浜ノースピアでのライブなどを行い、ライブバンドとしての人気を定着させる。またこの年の11月には3rdアルバム「Let's Get Crazy」を発売、翌年1月の初武道館ライブが決定するなど、同年1月に初めてテレビ出演をしたとは思えないほどの人気が急上昇し、分岐点とも言える年となった。
1989年
前年88年、人気が急上昇したプリンセス・プリンセスだったが、89年は急上昇した人気が完全に定着。国民的バ
ンドにまで上り詰めた年となった。1月には女性バンドとしては初めて武道館でライブを行い、4月に発売したシング
ル"Diamonds"は100万枚以上を売り上げ、80年代という時代を象徴する楽曲として知られることになった。また8月にはシングルレコードでのみ発売していた"世界でいちばん熱い夏"をリレコーディングした「世界でいちばん熱い夏-平成レコーディング」を発売。2曲続けてミリオンを達成、11月に発売した4thアルバム「Lovers」のスマッシュヒットもあり、名実ともに国民的バンドとしての位置を不動のものにした。
1990年
大ヒットバンドに成長するとともに90年代に突入。PRINCESS PRINCESS PANIC TOUR'90 ~パレードしようよ!!~で初の全県ツアーを敢行。2枚のシングルを発売後の12月には、5thアルバム「PRINCESS PRINCESS」を発売。中山加奈子、今野登茂子がヴォーカルを務める"錆びつきブルース""月夜の出来事"の2曲が収録される。
1991年
前年に発売した「PRINCESS PRINCESS」にともなうツアーからスタートした同年。ライブでは今野登茂子がヴォーカルを務める"月夜の出来事"の際には奥居香がラジオ「ポップン・ルージュ」内で練習してきたヴァイオリンを披露し、喝采を浴びる。シングル"Kiss"とアルバムからの先行シングル"Seven Years After"を挟み、12月に6thアルバム「DOLLS IN ACTION」発売した。またこの年は奥居香のトレードマークだったロングソバージュをバッサリ切ったり、ラジオで後に結婚する岸谷五朗とパーソナリティを務めるなど、奥居香個人的に変化の年だった。
1992年
92年ライブ中に今野登茂子が突発性難聴に見舞われ、一時バンドを離脱。2012年の再結成後に放送された「情熱大陸 」では、現在も片耳が聞こえないということを明かしている。この年はシングル"ジャングルプリンセス"、"パイロットになりたくて"のほか、新作アルバム「Bee-Beep」からの先行シングル"Power"を発売。アルバムはシングルベスト発売に留まった。
1993年
7thアルバム「Bee-Beep」発売。12月には8thアルバム「Majestic」を発売する。
1994年
バンドとしては、ライブ会場でのアンケートによりって人気の高い楽曲を収録したアルバム「PRESENTS」を発売。今野登茂子が映画「パイパティ・ローマ」に主演したほか、初のソロアルバム「24Hours」を発表するなど、バンドとしての活動を重視してきたこれまでの展開から、個人活動も並行して行う路線が垣間見えるようになった。同年暮れには、9thアルバムの制作方針を巡り、初めて「解散」という言葉が発せられた、とされる。
1995年
6月からのツアーを前にした4月、関係者に解散が伝えられる。解散理由はアルバムの方向性を巡り、勢いのある楽曲の路線と90年代以降のポップ路線を目指したいとするメンバー間の意見が平行線を辿り、「友だちのまま解散しよう」という結果になった、というものが一般的に伝えられている。10月には解散が宣言され、12月には9thアルバム「The Last Princess」が発売となる。
1996年 全県を巡るラストツアー「PRINCESS PRINCESS PANIC TOUR '96 ~解散を遊ぼう~」が行われ、各都道府県で多くのファンに別れを告げる。ラストライブは5月31日、日本武道館だった。
1996~2010年
奥居(岸谷)は俳優岸谷五朗の妻として、またソロミュージシャンとして、中山はVoodooHawaiiansを結成し、渡辺は東京スクールオブミュージック専門学校の副校長、富田は同校顧問とし、今野は俳優利重剛の妻としてそれぞれの人生を生きる。
2011年 3月11日に発生した東日本大震災後、メンバーの安否を確認するメールを契機に、プリンセス・プリンセス再結成が話し合われる。ミュージシャンとしての活動を行ってこなかったメンバーもいる中、再結成できるのかどうかを試すためにスタジオで音合わせなどを行っていく。
1月6日 全国紙、全国紙東北地方版などにプリンセス・プリンセス再結成の広告が出される。1年限定でライブなどを行い、収益は被災地支援に寄付される。
3月20日 幕張メッセで開かれた東日本大震災復興支援チャリティコンサート「ALL THAT LOVE-give&give-」に、米米クラブ、TMネットワークとともに出演。オープニングの"世界でいちばん熱い夏"から"Rock Me"まで、シングル曲を中心に、少しのミスはあったものの、ほぼ全盛期と変わらないパフォーマンスで観客を魅了した。
6月20日 サッポロビールが同日から期間限定で発売開始した「サッポロ アイスラガーセブン」のCMにプリンセス・プリンセスが起用された。"世界で一番熱い夏"に合わせて、メンバー全員が登場している。同社によると、CMへの起用は夏限定で販売している同商品と、2012年限定で活動を再開したプリンセス・プリンセスの「今だけ感」を重視した。プリンセス・プリンセスのCM出演は報道では「16年ぶり」と記載されることが多いが、16年ぶりは解散からの年月であり、プリンセス・プリンセスがCMに出演したのは1992年のエステアップ(曲・ジャングルプリンセス)以来20年ぶりと思われる。※要確認
これまでにプリンセス・プリンセスがCM出演したのは
・Sonyカセットテープ"Diamonds"1989年 "パレードしようよ"1989年 "Oh Yeah!"1990年
・ 全日空"Highway Star"1991年
・サントリー桃の紅茶"Kiss"1991年
などがある。本人たちが出演していないものではヴィクトリア"My Will"1987年もバンドの知名度を高めた。
今後、夏には野外フェス、11月には仙台、東京でのライブが、また12月には東京ドームでのライブが決定している。
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最終更新:2024/11/08(金) 12:00
最終更新:2024/11/08(金) 11:00
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