三木の干殺し(みきのひごろし/ほしごろし)とは、「三木合戦」として知られる戦国時代の籠城戦の異称である。
鳥取の飢え殺し、高松城の水攻めと併せて、秀吉三大城攻めと称される事も。
播磨国美嚢郡(現在の兵庫県三木市)にあった三木城を巡る、城主別所長治と包囲者羽柴秀吉の戦い。後述する要因によって長期化した。
播磨国はかつて守護大名・赤松氏の領地だったが、赤松満祐が六代将軍・足利義教を暗殺し、嘉吉の乱で敗死後に没落。一族の分家や家臣がてんでに台頭して独立する有様となっていた。
東播磨一帯を支配していた別所氏も、元は赤松氏の一族である。
当時の情勢は東に織田、西に毛利がそれぞれ勢力と影響力を拡大しつつあり、播磨国内の勢力は双方と友好関係を結んで立ち回っていた。これにより播磨国は織田と毛利の間で緩衝地帯として作用していたが、毛利が織田との対立姿勢を固めると、一気に最前線となった。
天正5年(1577年)5月、中播磨の御着城城主・小寺政誠(黒田官兵衛の主君)が織田に帰順すると、大半の勢力は織田についた。これにより10月には羽柴秀吉が播磨入りし、毛利氏傘下にある城を次々と攻略していくことになる。
当初は別所長治も織田方についていたが、長治の叔父・別所吉親と秀吉の会談が物別れに終わり(加古川評定)、天正6年(1578年)2月、吉親に説得された長治は織田に対し反旗を翻した。長治は三木城に籠城して毛利の援軍を待つ事を決め、ここに三木合戦が始まったのである。
この別所氏の離反については、足利以来の名門・赤松氏の一族であるという別所氏の強い自負から成り上がり者の秀吉と対立したという説、先に起きた西播磨の上月城での虐殺に対する義憤説など様々に挙げられている。
三木城には国人衆やその家族、更には先の石山合戦で信長に迫害された浄土真宗の門徒など、非戦闘員を含め7500人近い人々が身を寄せる事となった。喫緊の課題として兵糧の備蓄が必要となり、瀬戸内の制海権を持つ毛利氏の支援によって兵糧の海上輸送が行われ、三木城には大量の兵糧が運び込まれる。
秀吉はこれに対し、まず周辺地域の制圧からの包囲戦を展開。4月から次々と支城を攻略・落城させるが、毛利が尼子勝久守る上月城を攻めた為、救援の為に兵力を分断せざるを得なくなってしまった。
しかし荒木村重との兵を合わせても1万余、対する毛利・宇喜多軍はその3倍。6月には秀吉が上洛、直接信長から指示を仰ぐまでに追い詰められた。
信長はこれに対し上月城を見放し、三木城攻略に傾注するように秀吉に命じる。見放された上月城は毛利方に奪還され、尼子勝久の自害および山中鹿介の死へと繋がった。
ともあれ秀吉が兵力を三木城に一点集中させ、完全に包囲した事で三木城は孤立。以後の補給は極めて困難な事態に陥った。
ところが、10月に入り状況を一転する事態が発生する。織田軍に帰順していた荒木村重が突如として離反、毛利側について有岡城に立てこもったのだ。
村重の領地は封鎖された筈の補給路に穴を開ける位置にあったため、秀吉の形勢は一気に不利になる。官兵衛が説得に赴くも小寺政誠の内応によって逆に捕らえられ、幽閉されてしまった。
官兵衛不在の間も秀吉は兵糧輸送の中継地点を丹念に潰し、いっそう包囲網を厳しくした。翌天正7年(1579年)6月に明智光秀によって波多野秀治が守る八上城が落城したが、13日には病を推して参陣していた竹中半兵衛が陣中で没するという手痛い損失を被った。
その後も毛利による兵糧運搬作戦は行われ、9月には三木城から淡河定範らが打って出て秀吉軍と交戦、秀吉軍の武将・谷大膳を討ち取るなど、一時は活路が開けるに見えた。しかし戦力差は如何ともしがたく、進退窮まった定範は八幡森で割腹。兵糧の運び込みは失敗する。
10月には毛利についていた宇喜多直家が離反して織田に帰順し、毛利の本拠地である安芸と播磨の間が事実上分断された。これにより毛利による支援は絶望的となった。
秀吉は別所氏に降伏勧告を行ったが長治はこれを拒否。しかし翌月、荒木村重守る有岡城が遂に攻略。幽閉されていた官兵衛は救出、村重本人は一族を置き去りにして脱出する。
今や孤立無援の三木城は草を噛み人馬を食する、文字通りの地獄と化していた。
年は変わって天正8年(1580年)1月、城内の兵糧が遂に尽きる。勢いを増した秀吉軍により三木城以外の全ての支城が落とされ、14日に送られた降伏勧告に遂に長治は応じざるを得なくなった。
切腹と引き換えに城内の将兵の助命を叶えるという条件の下、長治は秀吉から送られた樽酒でささやかな宴を開いた後、一族と共に自害。
一方で長治を焚きつけた吉親は尚も抗戦しようとして自害を拒み、城に火を放とうとして将兵らに斬り殺された。彼の妻は我が子3人を手にかけてから喉を突き自害を遂げたという。
1年10ヶ月にも及んだこの戦は、戦国時代にあっても類を見ない長期戦だった。
だが裏を返せばそれだけ長く飢餓に苦しんだ将兵や民もいたという事になるだろう。
秀吉は戦後処理に当たり、逃散した民を呼び戻す為に租税を免除し、借金を棒引きにするという措置を取った。復興策によって商工業が活発化、後年基幹産業として金物業が同地に根づく事となる。また秀吉の命によって戦死者の供養は手厚く行われている。
長期化した籠城戦によって秀吉軍にも少なからぬ損耗が生じている。様々な教訓を得た事で、後年の「鳥取の飢え殺し」において兵糧攻めはより効果的に「改善」される事となった。
開城後の将兵の助命については行われず、秀吉軍による虐殺が起きたという説もあるが、現在では否定的である。
三木城の包囲が厳しい中、丹生山麓の名刹・明要寺は別所氏に保護されていた事から三木城に味方し、密かに城内へ兵糧を運び込む手助けを行っていた。これを知った秀吉は弟・羽柴秀長に軍を預けて向かわせ、寺に火をかけて寺内の僧侶・稚児数千人を皆殺しにした。
この時稚児達は山中に逃げ延びたが秀吉軍に見つかり、容赦なく殺された。後に幼い命を哀れんだ村人の手によって手厚く葬られ、この事から丹生山近くの山には稚児ヶ墓山、花折山という名がつけられている。
その後秀吉自身によって寺は再興されたが、明治維新の折に廃仏毀釈によって廃寺となっている。
掲示板
4 ななしのよっしん
2021/09/04(土) 21:01:35 ID: Xx7PwI69VX
>>3
センゴクでは何故か矜持を持つ
武人という感じで美化されてたなぁ
別所吉親
後の文書だと佞人ってかかれてるし
似たようなポジションの遊佐続光は
おもっくそ奸臣ムーブして成敗されてたのに
5 ななしのよっしん
2023/07/23(日) 20:09:33 ID: Ed1M6/DjdA
>>4
単に鉄血ネタをやりたくてちょうど良いポジションだったんじゃない?あと、半兵衛の神憑り采配を演出するための舞台装置的な意味もありそうだし。
センゴクはあくまでも漫画でエンタメだし、そういう改変も面白いかと。
軍師官兵衛でその辺がカットされていたのは残念だったかな。小寺の馬鹿家老2人もお咎めなしで、政織だけが愚か者みたいな最後にされててちょっと気の毒なようにも感じたし。
6 名無しさん
2023/11/04(土) 21:57:04 ID: sdgH6hRU1P
信長公記では、三木の干殺しでは何十も柵を立てて餓死するまで待ったそうだけど、脱出に失敗し織田軍に殺された遺体を夜な夜な生き残りの人らが奪って屍肉を喰らって生き延びてたのと、痩せない脳みそが一番旨いらしい。
この戦で生き残った飢えた敵兵に羽柴秀吉が飯を用意して食わせたら、兵士がこぞって食べ物を腹一杯食べ急に栄養が体内に取り込んだことで体調を崩しほとんどの敵兵が死んでしまったという。
後にリフィーディング症候群と呼ばれ、学術誌に載ることになるとは思いもしなかっただろうし、これだけ凄惨な戦がマイナーなのが悲しい。
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最終更新:2024/04/26(金) 02:00
最終更新:2024/04/26(金) 02:00
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