千葉常胤(ちば・つねたね 1118~1201)とは、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将である。
桓武平氏良文流千葉氏の一族であり父・千葉常重の嫡男として元永元年(1118年)5月24日に亥鼻(いのはな)城で生まれたとされる。ちなみに母親は平貞盛の後裔の常陸大掾家の政幹の娘と伝えられる。
平安時代末期の下総国の有力在庁官人であった。官途名は千葉介。他には下総権介・上総権介。
元は平氏なのだが最終的には源氏の味方として活躍。源頼朝との関係も深く頼朝からも信頼が厚かった。
常胤は千葉氏を地方豪族から大大名の地位にまで昇らしめた千葉氏の太祖ともいえる人物。
千葉宗家を始め相馬氏や葛西氏などの東北地方の大名の遠祖であり。東北地方に多い千葉という名字の家も遡ると彼の血を受け継いでいるといわれている。
東北地方の千葉さんや葛西さんは家系図を調べてみてはいかがだろうか?ひょっとしたらあなたのご先祖様も武士だったかもしれない。
また常胤以降千葉氏やその一族は通字として多くの当主が「胤」の字を使うようになった。
千葉常胤といえば相馬御厨に関しての論争が欠かせない。
これは平氏の血筋である常胤が何故源氏についたのかの理由の一つを示す顛末ともいえる。
論争が起きたのは1136年7月、常胤の父常重の官物の税金滞納が発端。
これにより国司・藤原親通が無理やり「未進の罰として相馬・立花両郷を親通に譲る」という文書(譲状)を作らせた。
しかしここで源氏の棟梁、源義朝が登場し常重から譲状(所領等を譲渡する証文)を責め取った。(しかしこの当時、
相馬御厨は藤原親通に奪い取られておりどういう経緯で義朝が責め取れたかは謎である。)
この義朝は上総の御曹司と呼ばれ千葉氏血縁の上総介常晴・常澄父子と何か深い関わりがあったと推定される。
常重は常澄の養子のため常澄が上総で義朝と関係があり、常澄は義朝に相馬の回復を目指そうと調停に行ったと
いう説もある。だが義朝に横領を扇動した常澄の恨みであるともされ、常澄の父親が治めていた相馬郡を常重に譲られたのを不満として失地回復を試みようと義朝に頼みおこなったともある。
故に常胤の寄進状には「常晴常澄の浮言により常重から圧状を攻め取った」とあり彼にとっては侵害であった。
こうして御厨の論争は規模を増していくが領主となっている神主荒木田延名が奔走し義朝は神宮に寄進を、常胤は
常重が納めていなかった官物を納め相馬郡司に任ぜられた。
しかし親通によって奪われた相馬郡と立花郷は返されなかった。官物の量が足りなかったからなどと推測される。
ともあれ、こうして常胤は失地回復を遂げ相馬御厨を寄進する。
だが寄進によって義朝の寄進した地域と重なった。しかしその後二人の論争は見られない。
この場合取られたであろう対応は一方が現地の支配を他方に任せ自身は上分の一部を取得し上級の領主になる事。
これにより常胤と義朝は常胤は義朝に服属するという形の、いわゆる上下関係を結び、後の保元の乱では二人とも
味方同士として合戦に参加する。(しかし主従したから~ではなく後白河天皇側の正式動員として戦に参加したという説もあるので確定は難しい。いずれにせよ上述の通り二人の争った記録は見られないので御厨においてはそれなりに上手くやっていたのは確かではなかろうか。)
これで論争が終わればいいのだが、平治の乱後に義朝が亡くなると相馬御厨は平氏の謀反人の所領として
国衙に没収される。常胤は御厨が義朝の支配地ではない事を陳弁し在庁官人が現地を調査するまで至ったが
裁定が下されぬうちに常陸で勢力を拡大していた源(佐竹)義宗が支配権を主張して現われた。
下総進出を狙ったと見られる。
この義宗は平氏とも深い関係があり平氏を後ろ盾に進出したとされる。支配権の根拠に関しては先に見た
常重の譲状が親通から二男親盛、その親盛が「匝瑳北条氏の由緒により」と義宗の手に渡った。
由緒とは明確には分からないが親盛も下総守となっているので匝瑳北条と関係があったのだろう。
また親盛は二条院の内侍となり平重盛の妻妾として資盛を生んでいる娘がいるため平氏との関係も想定出来る。
このような理由で支配権主張をした義宗だったが常胤がそれよりも前に常重の未進問題を処理し
譲状は破棄されているはずである。だとすれば義宗の主張は成り立たない。
これは平氏の力を借り下総を実質的に治めていた義朝の死を契機として理由をこじ付け
勢力拡大を図ったものとされる。
この問題に常胤は色々と中央に働きかけるなどの対応したが、最終的には破れてしまう。
しょっぱなから御厨問題で2度3度と振り回された常胤。一か八かを狙って頼朝挙兵に従ったのは無理もない…。
源頼朝の挙兵が成功したのは千葉常胤やそのまた従兄弟平(上総)広常といった房総平氏の協力が非常に大きい。
特に常胤は頼朝に「師父」と呼ばれ信頼され、頼朝が弟・範頼に宛てた手紙の中でも
「およそ、常胤の大功においては、生涯さらに報謝を尽くすべからざる」と書かれており
「吾妻鏡」にも「千葉介、殊に軍にも高名し候ひけり。大事にせられ候ふべし」と但し書きがなされるなど戦上手としても頼朝に信頼されていた。
実際常胤は後三年の役以降は後陣を務めている。後陣とは功績や風貌が他と比べて勝っており且つ他者からも十分に認められるほどだった。その後陣を務められるという事は常胤が秀でた風采と武名の持ち主だったという証拠といえる。
1180年伊豆国で挙兵し石橋山合戦に敗れた源頼朝は安房国に逃れてくると常胤に対し加勢を求める使者を送った。
「吾妻鏡」によれば常胤は頼朝の決起に感涙し頼朝の使者に対し相模鎌倉を根拠にすることを勧めたとされている。
その後は源氏方の与力として活躍。一ノ谷の戦いや豊後国での戦いに参加し軍功を上げた。
また文治5年(1190年)には奥州藤原氏討伐のための奥州合戦に従軍し東海道方面の大将として活躍、奥州各地に領地を得た。
諸説あると思われるが常胤の言葉に頼朝が従ったという話もある。
これは『吾妻鏡』の1180(治承4)年九月九日条に記されており、「当時の御居所はさしたる、要害の地にあらず。また、御嚢跡にもあらず。速やかに、相模国鎌倉に出でしめ給う可し」と常胤が言ったと残る。
言い換えれば頼朝が居所としていた安房国は源氏のゆかりの地でなく要害も期待できない。関東でそれらの条件を満たせるのは相模国鎌倉だからそこに行きなさいという事。鎌倉の北・東・西の三方が山で南は海。これにより敵の侵略を防ぎやすく且つ関東武士たちの利益を保護しやすくなるためというのが理由。三浦氏もすぐに賛成したらしく、元から安房は先祖ゆかりの地ではないと思っていた頼朝の気持ちと合致して鎌倉に幕府が開かれる事になった。
他にも西国に多大な盤石を築き上げた平氏が武家であるのに公家の要素が強くなったため最終的に武断派の人物たちに滅亡に追い込まれたという減衰もあってかあえて離れた場所に開いたという理由もあるだろう。
いずれにせよ絶大な信頼を得ていた常胤の言葉も影響していると思われる。
頼朝は1190年に念願の上洛をし、1000余の兵を率いた。そこには常胤の姿も見え、彼は後陣を務めている。
軍の前陣は後陣と同じく最も栄誉ある者が務め、最高の功労者、容貌、風采なども重要な人物が務める役であった。
そしてその前陣を務めるのは鵯越えの逆落としで馬を担いでいったとされる功労風采の最高適任者の畠山重忠。
頼朝は前々から前陣を重忠に任せようと決めていた。
しかし後陣を誰にしようか、前日まで悩んでいたらしい。当日、八田知家に相談したところ、知家は
「常胤こそ至高の宿老であり後陣に相応しい」といい決まったという。常胤は有力な御家人たちの中でも
最高の長老であったとされる。
頼家誕生の際には子息と共に政子の出産を手伝い頼家が誕生すると政子が陪膳をし、常胤は子息6人で進物の儀を行わせ頼朝は常胤の子息たちを「兄弟みな容儀神妙の壮士である」と感嘆し、列席した人々も多大に賞賛したという。また実朝誕生の際にも馬や剣を献上し儀を行なっている。その年の12月2日には御家人を集め心を一つにし守護する事を依頼して一同に盃を与え、各々は実朝を抱いて将来を約束した。これにも常胤は出席している。
北条泰時の元服でも有力な御家人を集め、そして3列に居並ばせた。
武蔵守平賀義信を先頭に千葉介常胤、北条時政という順番にならび、加冠の儀には常胤と義信で脂燭を掲げた。
このような儀式の並び順などは極めて重要でこれをめぐって争いなども起きかねないが源氏の一族義信と頼友の舅
時政の真ん中に並んだ常胤は宿老の中でも大いに尊重されていたとされる。
その後頼朝が突然死する。吾妻鏡は頼朝の死に関して晩年3年余りを欠いているため常胤の言動が見られない。
しかし常胤はきっと深い傷心を負ったであろう。
頼朝の後を継いだ頼家の政治が開始されいよいよ新時代へと傾向する中、
1200年の1月23日には常胤と同じく宿老の中でも尊重されていた三浦義澄が死去する。
それを追うように翌年1201年(1200年説も有り)3月24日、千葉介常胤は逝去する。享年84歳(満82歳)。
当時にしては非常に長寿であった。
頼家の政治は頼朝の時よりも悪化しており、また数年後には子息の胤正、師常などが相次いで死去し、胤信は
将軍から出仕停止の憂き目にも遭う。常胤は死去の時期が幸いだったとされる。
子孫として跡を継ぎ千葉氏惣領となった千葉胤正、後に子孫が龍造寺四天王の一人円城寺信胤となった円城寺律静坊日胤等がいる。
他にも千葉氏は各地に分家を持ち、上総や安房は勿論、陸奥・駿河・薩摩・紀伊・大和・備後・阿波・豊前・筑前・肥前などの常胤の時期にはこれほどの子孫が各国に存在しており特に東北地方では奥州征伐の際に子息に領地を配分したので東北地方が一番末裔が多いかと思われる。
掲示板
7 ななしのよっしん
2021/12/26(日) 22:14:51 ID: vr7gisCVcL
さて、いよいよ来年は大河に登場。
所領安堵の書面に頼朝の署名と花押がないことに怒ってごねる場面はあるのか…。
社長に雇われているんであって人事部長の下に就いた覚えはない。なんて言い方してよく粛清されなかったな…。
態度が横柄だったと怒りを買った上総なんたらより、よほど無礼だと思うのだが。
8 ななしのよっしん
2022/04/11(月) 17:31:32 ID: 9aFbFvQ3+1
史実から頼朝に信頼されてるって印象が強かったから、今回の大河の話で頼朝に謀反起こそうとしてる姿を見て何か違和感があった…
9 ななしのよっしん
2022/04/30(土) 22:10:02 ID: ncwTI8qoEf
>>7
うーん、それはどうだろう
無礼と言えば無礼かもしれないけど、じゃあ頼朝は頼朝で鎌倉幕府の根幹である所領安堵に自身の署名も花押もしないというのはどうなのか?って感じ
契約書って普通、代表者名義で署名なりするじゃん。そこに部長クラスの名前だったら現代でも不備を指摘されると思うけど
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最終更新:2024/12/21(土) 21:00
最終更新:2024/12/21(土) 20:00
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