奄美(海防艦)とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造・運用した鵜来型海防艦3番艦である。1945年4月8日竣工。無事終戦まで生き残った後は復員輸送任務に従事、1947年12月20日に解体完了。
艦名の由来は、鹿児島県薩南諸島南部に位置する奄美大島から。沖縄と鹿児島のほぼ中間にある奄美群島最大の有人島でもある。
船団護衛兵力の増強と海防艦の喪失数を補うべく、大日本帝國海軍は択捉型を簡略化した御蔵型を設計したが、いざ造ってみると御蔵型もあまり量産性にすぐれない事が判明。そこで更に簡略化を推し進めた鵜来型と日振型が設計された。
日振型との違いは単艦式大型掃海具を搭載していない事で、鵜来型は掃海具の代わりに最新鋭の三式爆雷投射機や25mm三連装機銃を装備、これにより過去最強の対潜・対空能力を獲得した。ちなみに用兵側の要望で装備された単艦式大型掃海具は全く役に立たず、対潜と対空を突き詰めた鵜来型の方が高い完成度を見せている。品質を落とさず量産性を高めるべく、ブロック工法や電気溶接を駆使し、曲線部分を可能な限り直線状に改め、戦時急造に適した設計へと簡略化、これら不断の努力によって御蔵型の工数約5万7000から約3万にまで減らす事に成功。対空・対潜・量産性いずれもバランスの取れた最優秀海防艦となった。実際竣工した20隻のうち喪失は僅か3隻のみと喪失率が低い。
奄美は開戦前に建造が決定していたにも関わらず、択捉型→御蔵型→鵜来型と艦型が二転三転した結果、竣工が1945年4月にまでズレこみ、3番艦でありながら9番艦保高より就役が遅い逆転現象が起きている。
要目は排水量940トン、全長78.8m、全幅9.1m、機関出力4200馬力、最大速力19.5ノット。兵装は45口径12cm連装高角砲A型改三(後甲板)1門、同単装高角砲E型改一(前甲板)1門、25mm三連装機銃5基、三式爆雷投射機16基、九四式爆雷投射機2基、爆雷投下軌条1条、爆雷120個。電測装備は13号対空電探、22号水上電探、電波探知機、九三式水中聴音機、三式探信儀。
開戦前、1941年8月15日より実行に移されたマル急計画において、第336号艦の仮称で建造が決定。建造費511万2000円が充てられる。
当初は択捉型海防艦27番艦となる予定だったが、1942年2月14日時点で未起工だった16隻を新設計の御蔵型へ変更。しかし、御蔵型は戦時急造に適していないと判断され、1943年7月5日に設計完了した鵜来型に艦型を更に変更、二転三転の結果、開戦前のマル急計画出身でありながら起工が大幅に遅れてしまう。
マル急計画策定から2年半が経過した1944年2月14日、ようやく日本鋼管鶴見造船所(横浜市)で起工、4月5日に達第106号により奄美と命名、書類上の名目は占守型であったが、6月5日、類別等級改正で新設された鵜来型海防艦の3番艦と定められ、9月2日に鶴見造船所内に艤装員事務所を設置して事務を開始、11月1日に艤装員長として北彌三郎少佐が着任し、それから間もない11月13日に進水式を迎える。
だが戦況の悪化に伴い、横浜も空襲を受けるようになり、12月25日早暁に3機のB-29が鶴見と港北の両区に焼夷弾218発を投下した。
1945年2月19日午後、吹雪が吹き荒れる2月25日にもB-29の爆撃を受けた上、3月には遂に鶴見造船所がF6Fヘルキャットに襲撃され、艤装工事中ながら奄美が対空射撃で応戦する一幕があった。そのためか急遽13号対空電探の搭載工事が行われている。
竣工前から敵機の脅威に曝されつつも、4月8日に無事竣工を果たした。艤装員事務所を撤去するとともに北少佐が艦長に着任、舞鶴鎮守府所属の警備海防艦となり、海防艦の訓練を担う呉防備戦隊へと部署する。
本来であれば呉防備戦隊がいる呉方面に回航すべきなのだが、B-29の度重なる機雷敷設により、呉軍港内や瀬戸内海西部は訓練に適さない危険地帯と化してしまったため、呉防備戦隊は新たな訓練地として機雷の敷設が進んでいない日本海側の七尾湾を指定。津軽海峡を通って日本海への脱出を試みる。
1945年4月9日に鶴見を出港、一旦館山で寄港した後、4月13日に出港して太平洋に進出、本土近海を跳梁跋扈する米潜水艦を警戒しながら岩手県山田港、函館港、青森県三厩村を経由し、4月20日に無事七尾湾へ到着。呉防備戦隊の指示を受けながら対潜訓練を行う。
5月5日、呉防備戦隊は海防艦の訓練業務を、新設される舞鶴鎮守府部隊第51戦隊に移管、これに伴って以降は舞鶴鎮守府の指揮下に入る。同日中に奄美は七尾湾を出発、翌6日より舞鶴海軍工廠に入渠して整備を受ける。5月27日、慣熟訓練を終えて第1海上護衛艦隊第31海防隊に編入され、6月1日に朝鮮南方を作戦範囲とする鮮南方面海防部隊に部署するが、僅か10日で部隊から除かれ、代わりに6月15日より舞鶴護衛部隊第2掃討隊へ異動。
7月2日、北海道方面の作戦海域に向かうため舞鶴を出港、7月4日から7日にかけて大湊に寄港して機雷敷設艦常磐と合流した後、7月9日に北海道北端稚内へ到着、宗谷海峡に防御機雷を敷設する常磐の護衛を担当し、7月23日に大湊へ帰投。
ソ連の対日宣戦布告を目前に控えた8月6日、ヤコフ・マリク駐日ソ連大使と家族を本国に引き揚げさせるため汽船エリーコマが派遣され、奄美は秋田港に出入港するエリーコマの誘導及び護衛を行った。8月14日、七尾湾で触雷して大破航行不能に陥った伊唐(海防艦)を富山市にある日本海船渠へ曳航するよう命じられ、曳航準備を開始。しかし翌日の8月15日に終戦を迎えた事で曳航中止となり舞鶴へ向けて出発。伊唐は奄美の出港を見送った後に力尽きて着底したのだった。
終戦後の1945年8月22日に沈没船の骸があちこちに残る舞鶴軍港へ到着。この時点で乗組員の大部分は復員して艦内に残っているのは最小限の人員だけとなる。一方、無傷で生き残っていた奄美は、8月25日に第1予備海防艦に指定。未曾有の戦争は終わった。しかし、外地には未だ600万人もの邦人と軍人が取り残されており、彼らを帰国させるには1隻でも多くの艦艇が必要だった。9月28日、GHQの許可により舞鶴を始めとする国内10ヵ所の港が引き揚げ者受け入れ先として指定される。
10月2日に舞鶴を出港して5日に佐世保へ入港した後、その日のうちに佐世保を出発して復員輸送任務を開始、ウォッゼの第64警備隊やトラック諸島の第48警備隊の兵士を収容して10月27日に浦賀へ帰投。便乗者を退艦させた。10月28日から11月19日まで横浜で修理を受けた後、11月21日に横浜を出港し、今度はグアムやトラック諸島を巡航して兵士を収容。浦賀への帰投の途上だった12月1日、特別輸送艦に指定されて舞鶴地方復員局所管となり、正式に連合国の指揮下に入った。ここから逐一行動を連合国側に報告する義務が生じる。12月6日に浦賀へ帰投して便乗者を退艦させ、12月8日より横浜で居住区やトイレの増設、武装解除といった特別輸送艦になるための装いを済ませる。
1946年1月15日修理完了。1月20日に浦賀を出発し、グアム、サイパン、沖縄、大連から邦人や復員兵を収容、2月7日に呉へ入港した。2月10日から28日にかけて岡山の玉野造船所で整備。3月15日に佐世保を出発してからは上海方面からの引き揚げ任務に従事する。中国大陸では暴徒化した朝鮮人やソ連兵によって邦人の生命と財産が脅かされていたが、共産勢力の拡大を避けたいアメリカや中華民国の思惑によって支援が受けられるようになり、円滑な引き揚げが実現したという。奄美は佐世保を上海を往来し続け、6月15日に佐世保へ入港したのを最後に復員輸送を終了。7月26日に特別保管艦となる。乏しい海軍力しか持たない中華民国とソ連の強い働きかけで、特別保管艦を米・英・中・ソの四ヵ国で分配する事になり、抽選でイギリスが奄美を獲得した。
1947年9月10日に賠償艦としてイギリスに引き渡されるも、既に大量の艦艇を抱えているため賠償艦は無用の長物であり、即座に日本へ売却される。9月12日から12月20日にかけて三菱重工広島造船所で解体された。ちなみに船体はポンツーンとして1982年まで造船所に残されていたとか。
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