伊唐(海防艦)とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造・運用した鵜来型海防艦10番艦である。1945年4月30日竣工。爆雷攻撃により鯨を「撃沈」する戦果(?)を挙げた。終戦時は航行不能状態で残存し、1948年に秋田港で駆逐艦竹、栃とともに沈没して268mの軍艦防波堤を形成。1975年の外港展開で撤去されるまで荒波から港を守り続けた。
艦名の由来は鹿児島県出水郡長島町に属する天草諸島南方の島から。
船団護衛兵力の不足や海防艦の喪失を補うため、帝國海軍は量産性を高めた御蔵型海防艦を新たに設計・建造していたが、この御蔵型でもまだ工数が多くて大量生産に向かなかった。そこで御蔵型を更に簡略化した日振型と鵜来型を設計。両級の設計はほぼ同一で、日振型は用兵側の要望で大型掃海具を搭載し、鵜来型は日振型から掃海具を取り払って三式爆雷投射機を装備しただけなので準同型艦と言える。ただ、その掃海具の有無が評価を大きく分ける事となった。というのも日振型に搭載された掃海具はクッソ役に立たないものだったのだ。掃海具を載せるために対潜装備を削った日振型と、最初から掃海具を載せずに対潜能力を強化した鵜来型とでは、当然鵜来型の方が評価が上だった(日振型4番艦久米以降は掃海具を撤去、対潜装備を搭載しているが)。高い性能と量産性が認められて鵜来型は終戦までに計20隻が建造されており、日振型(9隻)より多い。量産性・対空・対潜のバランスが取れた戦時急造らしからぬ高性能艦である。
要目は排水量940トン、全長78.8m、全幅9.1m、機関出力4200馬力、最大速力19.5ノット。兵装は45口径12cm連装高角砲A型改三1基(後甲板)、同単装高角砲E型改一(前甲板)1基、25mm三連装機銃5基、同単装機銃3丁、三式8cm対潜迫撃砲1基、三式爆雷投射機16基、九四式爆雷投射機2基、爆雷投下軌条1条、爆雷120個。電測装備は13号対空電探、22号水上電探、電波探知機、九三式水中聴音機、三式探信儀。
ミッドウェー海戦後の1942年に策定された改マル五計画において、甲型海防艦第5258号艦の仮称で建造が決定。
1944年12月26日に浦賀船渠で起工。1945年1月8日に伊唐と命名され、艦種を海防艦、艦型を鵜来型に制定、2月19日に造船所内で艤装員事務所を開設する。2月22日に進水式を迎えた後、3月3日に艤装員長として松村総一郎少佐が着任。そして4月30日に無事竣工を果たす。伊唐は鵜来型最後の就役艦であった。艤装員事務所を撤去するとともに松村少佐が艦長に就任。横須賀鎮守府所属の警備海防艦となり、海防艦の訓練を担当する呉鎮守府部隊呉防備戦隊に部署する。
連合艦隊は既に壊滅、アメリカ軍による沖縄への上陸も始まるなど戦局が日に日に絶望的となる中、1945年4月30日に就役した伊唐は生まれ故郷の浦賀を出港し、夜遅くに横須賀へと回航。食糧と弾薬の補給を受ける。本来であれば呉防備戦隊の拠点である呉に回航して慣熟訓練を行うのだが、B-29の度重なる機雷敷設の影響で呉軍港内や瀬戸内海西部が訓練に適さない危険な場所と化してしまったため、横須賀から動けない日々が続く。
5月5日、呉防備戦隊は海防艦の訓練を、新設される舞鶴鎮守府部隊第51戦隊に移管し、機雷の投下がまだ行われていない日本海側の七尾湾を新たな訓練地に定めた。これに伴って同日中に伊唐は横須賀を出港。それから数時間後の夕刻、伊唐のソナーが敵潜水艦らしき反応を探知。すかさず松村艦長が爆雷攻撃を命令して12発の爆雷を投下する。見張り員が注意深く海面を監視していると引き裂かれた鯨の肉片らしき物体が浮かび上がってきたという。本土近海にも米潜水艦が我が物顔で出現している事から、肉眼による対潜監視が難しい夜間の航行を避けるべく毎晩港に寄港する方針を取り、5月6日は女川で仮泊、翌7日深夜に函館へ入港して一晩を明かした。5月8日、寄港した大湊で食糧と弾薬の補給を受けた際、松村艦長が一時退艦。先に七尾湾へ行って対潜訓練を行うよう乗組員に命じた。5月10日に大湊を出港し、そして5月12日に目的地の七尾湾へ到着。他の海防艦同様毎日のように厳しい対潜・対空訓練を行った。ところが5月24日、B-29が湾内へ機雷を航空投下した事で七尾湾もまた危険な場所となってしまう。
6月11日午前3時45分頃、バーニー作戦により日本海へ侵入していた米潜水艦9隻のうちの1隻クレヴァルが、新潟から小樽に向かって単独航行中の海軍一般徴用船博山丸に2本の魚雷を発射。見張り員が伸びて来る白線の雷跡に気付いたものの時既に遅し、左舷側に2本とも命中して青森県艫作岬灯台沖4.5海里で撃沈されてしまう。偶然近海で対潜掃討任務に従事していた伊唐と大湊警備府部隊所属の駆逐艦橘、柳は博山丸撃沈の報を受け、博山丸の遭難海域に急行。クレヴァルの捜索を行ったが敵情を得られなかった。6月21日、B-29が再び七尾湾に機雷を投下。前回の分と合わせて計440個の機雷が湾内に投下された事になる。7月23日、第1海上護衛艦隊第1海防隊に編入される。
7月31日、敵潜水艦に追われている味方の船団を支援するため単艦七尾湾を出撃、第85号海防艦が護衛する船団と合流して七尾湾へ向かう。8月1日に七尾湾の出入り口である小口瀬戸に到達。まず最初に第85号が船舶を先導して湾内へと入っていく。次に伊唐が湾内へ入ろうとしたその時、操舵室付近に機雷2発が接触して巨大な水柱が築かれた。艦尾後部、甲板上の爆雷室付近にいた数名の乗組員が海へ投げ出され、1名が戦死、12名が負傷する。主機関の取り付け部分に亀裂が入り、右舷側主機と発電機1基が故障、船体の溶接の継ぎ目から海水が流入して機関室と艦尾に浸水被害が発生。乗組員の決死の応急作業によって沈没だけは免れたが航行不能に陥り、七尾市三島町の埠頭まで曳航されて係留。
8月14日、海防艦奄美の曳航で富山市にある日本海船渠まで移動するよう命じられ、曳航作業準備中に8月15日の終戦を迎えた。これに伴って曳航作業は中止。舞鶴に向かう奄美を見送った後、伊唐は力尽きるように着底したという。
1945年11月30日除籍。着底後もしばらくは保安要員や修理要員が常駐していたが、12月下旬に退艦して無人となる。着底していたので当然特別輸送艦にはなれず、兵器や備品を取り外した上で舞鶴地方復員局所管の行動不能艦艇(特)に指定され、残骸は一旦放置された。
遡ること終戦直前の8月14日、土崎大空襲により秋田港は壊滅的な被害を受けた。冬になると波で運ばれた砂が押し寄せ、その砂が天然の暗礁と化して春には船の出港すらままならなくなってしまう。砂をかき出す浚渫船2隻は空襲で沈没。砂の流入を防ぐ防波堤や新たに浚渫船を造ろうにも戦後の混乱期では資金も材料もまるで足りない。国の予算は船の入港実績に応じて配分されるため、このまま船の入出港が出来ないと廃港は避けられない。戦争が終わったにも関わらず秋田港は絶体絶命の窮地に立たされた訳である。そこで軍艦を沈めて即席の防波堤を造ろうという考えに至り、GHQとの交渉の末、旧式駆逐艦竹と橘型駆逐艦栃、そして伊唐の払い下げが認められた。
1947年2月に伊唐は浮揚されて排水・修復作業を受け、1948年4月に秋田港へと回航、6月30日に砂を満載した3隻を並べて268mの軍艦防波堤を築き、沈艦式を行って秋田港北防波堤とした。竹は旧式艦、伊唐と栃は物資不足の中で造られた艦であるため防波堤になった直後から壊れ始めたが、そのたびに秋田市民の手で補修され、船が安全に港を利用出来るようになった。こうして軍艦防波堤は約30年間荒波や砂から港を守り続けて秋田市の復興を支えた。
日本が戦後の混乱期から立ち直った1975年、秋田港の外港展開に伴う拡張工事で北防波堤を新設する事になり、2年間かけて軍艦防波堤を撤去。戦後も国土を献身的に守り続けた伊唐は静かに姿を消した。軍艦防波堤があった場所は「5万トン岸壁」(通称軍艦)と呼ばれており、現在は大型船の停泊地になっている。
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